”SONY JUST IN HIROSHIMA”
RCCラジオ(中国放送/広島の民放)の番組でした。
私が中1の頃、夢中で聴いていた 22;00からの音楽情報番組。
室井清司アナウンサーの心地良い低音ボイスに誘われ、毎晩聴いていました。
そして、詩を作りハガキに書いて、見事に読まれた唯一の番組でした。
詩の内容は、当時好きだったYちゃんへの想いを綴ったもの。
『三原のシカゴくん』という笑えるペン・ネームと詩を読み上げられた時、
~後悔~ という単語が頭を満たしたのが忘れられません。
次の日、学校を欠席しようかとも考えました。
結果的には、誰も聴いていなかったみたいでしたが‥。
でも、とても良い想い出になりました。
三原から五日市に転校してからラジオのリスナーは卒業しました。
何せ「ガリ勉くん」に変身したのですから (嘘)。
そして、爽やかな低音の室井清司アナのこともいつしか忘れて行ったのです。
商船の学生寮~四日市~東京~横浜~SAIPAN~横浜~四日市と転勤し、
広島に帰った私は、あのポエムを書いた時から「29年」の歳月を経ていました。
カー・ラジオから聴こえてくるRCC放送、
現在のパーソナリティ達は初めて聞く名前ばかりです。
私が覚えてる「室井清司さん」は…? もう引退されたのかな?
時々、あのポエムに自分が恥ずかしくなって思わず微笑んでしまうのでした。
最近、 ひょんな事からある人のブログを拝読しました。
ブログ・タイトル 日々の言の葉
『アナウンサー道。』
2011年06月06日 22時02分35秒
テーマ:日々つれづれ
「(アナウンスメントに関する)
あらゆる物事に対して どん欲であれ。
しゃべること。見ること。読むこと。動くこと。
生活の全部が勉強の教材です。
街を歩いても、口を動かし、目を動かし、
本や新聞やTVを教材とし
友人との会話を おしゃべりの道場とし
飲み、歌い、踊るときにも
全身の毛穴を広げて
そこにある人生の味わいと
時代の息吹を吸収し
恋にひたる時には、
ゆらめく心の微妙な動きに目を注ぎ 感動し
他人の痛みを 己の痛みとして受け止め
自分のすべての時間と 体力を使って
常に新しいものを身につけようとすること。」
( 元RCC・室井清司アナウンサーの言葉 )
B4の用紙にびっしりと書かれた、30枚の手書きのテキスト。
もう ずいぶん黄ばんでしまいました。
なにしろ20年近く前のものです。
大学時代通った広島のRCCアナウンス教室で
当時アナウンサーの卵だった私を、みっちり仕込んでくださった
故・室井清司アナウンサー。
これは講師を務めていた室井さんからいただいたものです。
室井さんは
故・井上雪彦アナウンサーの親友でありライバルでもありました。
地元RCCに就職が決まらなかったとき
室井さんは
「君は絶対アナウンサーになるべきなんだ。」と励ましてくださり
当時、社員の応募要綱に‘山口県出身者であること’とされていた
山口放送に受験の道筋をつけてくださいました。
室井さんの熱意がなければ…
雪彦さんとの出逢いがなければ…
私は今、アナウンサーにはなっていなかったと思います。
いつも 引き出しの中の書類の一番上に
室井さん手書きのオリジナルのテキストがありました。
あらためて読み返してみると
それは
マニュアルとか、テクニックとか、そういったものではなく
‘室井流’の‘アナウンス哲学’であることが伝わってきます。
だから
今
世に出ている様々なアナウンステキストとは比較にならない
熱い血の通った大切な宝物なのです。
低音の穏やかな美声の素晴らしいアナウンサーでした。
室井さんは
52歳で急逝されました。
室井さんのデスクに
前日まで読んでいた読みかけの文庫本が
伏せたままになっていたと聞きました。
奇しくも それは熱血テレビがスタートした年でもあり
生放送が終わったスタジオで
訃報を受けた雪彦さんと その突然の死を悼みました。
「もう、広島には帰らない。」
そのときに強く決心したことを覚えています。
あれから10年余りが過ぎました。
…今、室井さんのテキストを基に
私なりの新しいアナウンステキストを作り始めています。
後進を育てたいと思っています。
子供たちや 一般の人を対象にして
日本語の面白さや 語りの楽しさを伝えて行きたいです。
今も
室井さんは私のそばに居て
私のその時その時の判断や言葉の一つ一つを
耳を澄ませて吟味してくださっているように感じます。
室井清司さん。井上雪彦さん。吉田治美さん…。
素晴らしい先輩アナウンサーに恵まれてきました。
その方々から 直接ご指導いただいた教えを
今度は 私たちの世代が伝えていく時が来ました。
見ててくださいね。
あらゆる物事に対して どん欲であれ。
しゃべること。見ること。読むこと。動くこと。
生活の全部が勉強の教材です。
街を歩いても、口を動かし、目を動かし、
本や新聞やTVを教材とし
友人との会話を おしゃべりの道場とし
飲み、歌い、踊るときにも
全身の毛穴を広げて
そこにある人生の味わいと
時代の息吹を吸収し
恋にひたる時には、
ゆらめく心の微妙な動きに目を注ぎ 感動し
他人の痛みを 己の痛みとして受け止め
自分のすべての時間と 体力を使って
常に新しいものを身につけようとすること。」
( 元RCC・室井清司アナウンサーの言葉 )
B4の用紙にびっしりと書かれた、30枚の手書きのテキスト。
もう ずいぶん黄ばんでしまいました。
なにしろ20年近く前のものです。
大学時代通った広島のRCCアナウンス教室で
当時アナウンサーの卵だった私を、みっちり仕込んでくださった
故・室井清司アナウンサー。
これは講師を務めていた室井さんからいただいたものです。
室井さんは
故・井上雪彦アナウンサーの親友でありライバルでもありました。
地元RCCに就職が決まらなかったとき
室井さんは
「君は絶対アナウンサーになるべきなんだ。」と励ましてくださり
当時、社員の応募要綱に‘山口県出身者であること’とされていた
山口放送に受験の道筋をつけてくださいました。
室井さんの熱意がなければ…
雪彦さんとの出逢いがなければ…
私は今、アナウンサーにはなっていなかったと思います。
いつも 引き出しの中の書類の一番上に
室井さん手書きのオリジナルのテキストがありました。
あらためて読み返してみると
それは
マニュアルとか、テクニックとか、そういったものではなく
‘室井流’の‘アナウンス哲学’であることが伝わってきます。
だから
今
世に出ている様々なアナウンステキストとは比較にならない
熱い血の通った大切な宝物なのです。
低音の穏やかな美声の素晴らしいアナウンサーでした。
室井さんは
52歳で急逝されました。
室井さんのデスクに
前日まで読んでいた読みかけの文庫本が
伏せたままになっていたと聞きました。
奇しくも それは熱血テレビがスタートした年でもあり
生放送が終わったスタジオで
訃報を受けた雪彦さんと その突然の死を悼みました。
「もう、広島には帰らない。」
そのときに強く決心したことを覚えています。
あれから10年余りが過ぎました。
…今、室井さんのテキストを基に
私なりの新しいアナウンステキストを作り始めています。
後進を育てたいと思っています。
子供たちや 一般の人を対象にして
日本語の面白さや 語りの楽しさを伝えて行きたいです。
今も
室井さんは私のそばに居て
私のその時その時の判断や言葉の一つ一つを
耳を澄ませて吟味してくださっているように感じます。
室井清司さん。井上雪彦さん。吉田治美さん…。
素晴らしい先輩アナウンサーに恵まれてきました。
その方々から 直接ご指導いただいた教えを
今度は 私たちの世代が伝えていく時が来ました。
見ててくださいね。
※ 本人の了解を戴いて転載しています
室井アナ、
貴方が生きておられれば、まだ70歳になっていない計算になります。
私が広島に帰って来る数年前に逝ってしまわれたんですね。
あれからも立派な後進を育成されていたのですね。
『三原のシカゴくん』
まだ覚えてくれていますか?