季節風~日々の思いを風に乗せて

喜寿になったのを機に新しいブログを始めました。日々の思いをつぶやきます。

教えたことと学んだこと・・・絵本から学ぶ(3)

2020-07-21 12:35:35 | 子どもの本


『さかなはさかな』(レオ・レオニ作 谷川俊太郎訳 好学社)

 池の中にすんでいたおたまじゃくしがかえるになり、池の外の世界を見てきます。それを、友だちの魚に報告します。

「どこにいってたの?」むちゅうになって さかなは たずねた。
「よのなかをみてたんだ-あっちこっち とびまわって。」かえるはいった。
「とてもかわったものを みたよ。」
「どんなもの?」さかなは たずねた。
「とりさ。」ひみつでもうちあけるように かえるはいった。「とりだよ!」 
つばさと二ほんあしをもち、いろんないろをしたとりのことを かれははなした。
かえるがはなすにつれて、ともだちのさかなは こころのなかで おおきなはねのはえた さかなみたいなとりが とぶのをみた。

 かえるを親や教師、さかなを子どもに置き換えたらどうでしょうか。親や教師が学ばせようとしていることと、子どもが学んだことの間には、しばしばこのように乖離した事態が生じているのではないでしょうか。子どものわかり方と大人のそれは違うのです。「何度話したらわかるの」「だから言ったでしょう。」と叱っても仕方がないのです。「言葉」が通じてないことが多いのですから。
  私たちは、子どものわかり方に沿って話をしなければいけないし、子どもが今何を理解し、何を理解していないかを確かめながら指導しなくてはいけないのです。


 親子の会話や授業の最後に親や教師が「わかりましたか!」と聞き、子どもたちが「わかりました」と答える。「わかりました」の言葉をもって子どもの理解を確認するのは、教える側の能力不足、自己満足に過ぎません。「わかりました」の言葉だけでは、子どもが何を、どのように理解したかは、知る由もありません。頭の中には、私たちが教えたかった「鳥」や「牝牛」とはまったく違う「魚鳥?」や「魚牛?」が思い描かれているのかもしれないのです。
 子どもに対してだけではなく、誰かに自分の思いを「伝える」ということは難しいものです。ほとんど伝わっていないという前提に立ち、伝え方を考えなければならないのです。