履く機会のない下駄はが、下駄箱ならぬ靴箱に眠っています。
19歳まではよく履いていました。通っていた大学が「下駄履き禁止」になったのが19歳の時でした。確かに木の床(当時の大学は木の床でした)を下駄で歩くのですから、うるさいことはうるさいし、田舎の大学のイメージを払拭する意図もあったのでしょう。当時下宿をしていましたので、友人たちが部屋を訪ねてくるときには下駄の音がしました。「下駄をならして奴が来る」~あの歌が実景として浮かびます。
ちなみに革靴を初めて履いたのは、高校の修学旅行の時でした。
甲高幅広の私の足に合う靴がなかったのかどうか、父が誂えてくれました。初めて履くのだから旅行までに慣れなければと、夜になると重い革靴を引きずるように町を歩きました。当時は靴底が減らないようとの工夫だったのでしょうか、鉄の鋲を数カ所打ち付けました。夜の町にその音が結構響くのです。思いは同じ、友人たちもまた照れくさそうに夜の町にすれ違ったものでした。「汽車通」の強者は座席の柔らかい布を切り取って、愛しそうに靴を磨いていました。
子どもの頃はもちろん下駄での生活。
蹴り出して天気も占ったし、そのまま川に入り流され下流に追いかけもしたし、鬼の片方の下駄を隠す遊びもあったような・・。母に鼻緒をすげ替えてもらい、歯が薄くなるまで履きました。下駄もまた減らないようにと、自転車のチューブを打ち付けていた子どももいました。
冬には下駄スケートなるもので遊びました。下駄に鉄製のスケートのエッジを取り付けたものです。足袋を着けて下駄に足を乗せひもで縛るという仕組みでした。足首が安定せずうまく滑れません。山陰の水田や結構観光客が来る池が氷結しそこで滑りました。氷がゆるみ始めると足袋がぬれ足がぎんぎんに冷えました。今ではその池が凍ることも少なく、もちろん池で遊ぶ子もいません。
大晦日、紅白歌合戦が終わるとすぐに神社にお参りに向かう下駄の音、近くの校庭での盆踊りに走っていく下駄の音、叔母の料亭の庭石を踏む下駄の音・・
君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ 白秋
「君」は舗石を女物の下駄で踏んだのでしょうか。