『でんでんむしのかなしみ』(新美南吉)の中に「里の春・山の春」という作品があります。山の中に棲む仔鹿が「春って、どんなもの」「花ってどんなもの」かが知りたくなります。仔鹿は、「ぽオん」というお寺の鐘の音を聞き、里に下りておじいさんに桜の小枝を角に結び付けてもらいます。山に戻った仔鹿に両親が教えます。「角についているのが花だよ」「花がいっぱいさいて、きもちのよいにおいのしていたところが、春だったのさ」と。
桜を角ならぬ髪に飾る習慣はいつごろからあったのでしょうか。「万葉集」(巻3)には次の歌があります。
嬢子(をとめ)らが 挿頭(かざし)のために 遊士(みやびを)が 蘰(かづら)のためにと 敷き坐(ま)せる 国のはたてに 咲きにける 桜の
花の にほひはもあなに
「桜が国の果てまでさきみち、なんと美しい色どりか」と詠うその桜は、少女がかんざしにしたり風流を解する男たちが頭に巻いたりして楽しんだのです。
梶井基次郎や坂口安吾が、桜の恐ろしいまでの生命力を書いたように、古来桜はその「たくましく」咲いて散る命をもつ花と解されていたのではないでしょう。それを簪にし頭に巻き付け、その溢れる命をおのれの体内に取り入れようとしたに違いありません。絵本の仔鹿もまた、おじいさんからたくましく育つ命を、命いっぱいの春をもらったのだと思います。
桜に限らず花を頭に飾る習慣は昔からあったのでしょうね。もちろん梅の花なんかも。
ももしきの大宮人は暇あれや梅を挿頭(かざ)してここに集へる
「万葉集」(巻10)
梅も桜も、日本人は変わらず愛でてきました。コノハナサクヤヒメのハナは山桜だという説もあるようです。桜は日本古来の木、梅は奈良時代に中国から渡来したと聞きます。春の花を二分する梅と桜、それに対する日本人の嗜好の移り変わりなどを考えるのも面白いかもしれません。
仔鹿の角に飾られた桜の花から話が飛びすぎました。
絵本は次の一文で終わります。
「それからしばらくすると、山のおくへもはるがやってきて、いろんなはながさきはじめました。」
角落ちてはづかしげなり山の鹿 一茶
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