季節風~日々の思いを風に乗せて

喜寿になったのを機に新しいブログを始めました。日々の思いをつぶやきます。

残りものには福がある

2020-12-17 14:36:02 | 俳句
 市立各図書館では、秋になると「図書館まつり」を行います。その際、希望者に無料で廃棄本を配布します。開始時間前に列ができるほど人気があります。館長さんに聞くと、絵本から小説、雑誌まで約4,000冊を準備したようです。今年はコロナ禍の影響もあって10人ずつが15分間で選ぶ方策がとられました。
 私が欲しい本は『NHK短歌』と『俳句四季』。開始時間にかなり遅れて並んだのですが、幸い誰にも選ばれず残っていました。以前は5年前のものから廃棄すると聞いていたのですが、今年は2年前(2018年)のものが各1年分、1月号から12月号までひと月も欠けずに残っていました。お礼を言っていただいてきました。
 それから約1か月後、会議のために図書館を訪れると、ロビーに置かれた二つの段ボールに50冊ほどの本が置かれていました。先日配布した本の残りを、あれ以来ずっとロビーに並べ自由に持ち帰ってもらっているとか。何気なく見ていた背表紙に気になるタイトルがありました。『さいかちの道』近藤とし子第六歌集と『排風三麗花』三田完の二冊です。二人とも名前を知らない作者でした。「歌集」と「排風」の文字に魅かれて手に取り、いただいてきました。
 歌集のほうは表紙を開くと近藤芳美の住所氏名の縦長の印に掛けて「とし子」とサインが入っていました。近藤芳美が「いつよりか朝のひばりの鳴くことを寝ねむとしつつ妻は告げたり」と詠んだその妻「とし子」の歌集でした。
 『排風三麗花』の作者・三田完の祖父母は俳人の長谷川零余子と長谷川かな女、母は長谷川秋子。本人はNHKのテレビプロデューサーとして勤務の後、阿久悠のブレーンを務めたりした作家であり俳人ということが分かりました。
 いずれにしてももうだれも見向きもしない廃棄本の中に、私にとっての「福」が残っていたのです。本の内容についてはいずれまた。

十二月

2020-12-10 17:30:40 | 俳句
 特に急ぎの仕事があるわけでもないのですが、なんとなく気ぜわしいこの時期。
 今週は清掃週間と決めました。もともと掃除担当なのですが、日々の掃除だけではなかなか行き届かないところがあります。
 まだ抜けぬマリーゴールド冬温し 
 一日目は庭。今年はいつまでも小さな花壇にマリーゴールドが咲き続け、抜くわけにもいきませんでしたが、さすがにつぼみも少なくなってきたので抜くことにしました。門の外に咲いて子どもたちの登校を見守っていた菊も枯れました。抜くと花びらが落ちかすかに香りました。
 枯菊を焚くや寂聴読みし後
花壇には例年通りビオラを植える予定です。
 二日目は一階の窓掃除。庭にステップ脚立を立てお盆の前に拭いて以来の小窓から始めました。家の周りを一周した後は、室内からガラス磨き用のスプレーを吹きかけながら行いました。三日目は二階の窓。特に風呂の内側のガラスが汚れていました。洗面所の鏡や妻の姿見…。
 拭き上げし窓それぞれに冬の空
 四日目は妻が刺繍教室に出かけたので台所の掃除。1時間半程度の予定でしたが3時間。コンロ台はもとより冷蔵庫、シンク・・。ここで一番役立ったのが研磨洗剤付きのキューブでした。よく汚れが落ちるのですが、何しろ4センチほどの大きさなので落としきるのに時間がかかりました。また、喪中の葉書が届きました。
 十二月妻より届く喪の葉書
 一通目も二通目も、今年年賀状を交換した友人の奥様からでした。掲句ではその点がうまく伝わらず推敲中です。それにしても一人は10年近く同じ学校で勤務した高校時代の後輩、もう一人は小学校から高校まで一緒でもう10年近く会っていなかった友人。辛い年末です。
 四日目は妻がまとめておいた廃棄物を清掃センターに運びました。年末の土日ともなれば、清掃センターには入構の順番待ちの車が道路まで長い列を作ります。前日の天気予報は午前中小雨、案の定空いていました。ごみの分類がさらに細かくなり、鉛・剣山などの捨て場所も設けられていました。先日NHKの「プロフェショナル」―街に出されたごみの収集員の方が紹介されていましたが、市の清掃センターにも一人一人が持ち込む様々な品をてきぱきとそれぞれの場所へと指示する若い職員がいました。見ていて気持ちがよかった。捨てたものの重さ75キロ、500円。
 さて、あとは本の処分。先日机周りの書類を整理、45リットルの袋2杯、40キロは越えていたと思います。いざ本の廃棄となるといつも躊躇して捨てられません。今年こそはと、腕組みをして背表紙を眺めているところです。
 賢者でも闘士でもなく着膨れて

下駄(その1)

2020-12-07 14:04:33 | 短歌
 履く機会のない下駄はが、下駄箱ならぬ靴箱に眠っています。
19歳まではよく履いていました。通っていた大学が「下駄履き禁止」になったのが19歳の時でした。確かに木の床(当時の大学は木の床でした)を下駄で歩くのですから、うるさいことはうるさいし、田舎の大学のイメージを払拭する意図もあったのでしょう。当時下宿をしていましたので、友人たちが部屋を訪ねてくるときには下駄の音がしました。「下駄をならして奴が来る」~あの歌が実景として浮かびます。

 ちなみに革靴を初めて履いたのは、高校の修学旅行の時でした。
甲高幅広の私の足に合う靴がなかったのかどうか、父が誂えてくれました。初めて履くのだから旅行までに慣れなければと、夜になると重い革靴を引きずるように町を歩きました。当時は靴底が減らないようとの工夫だったのでしょうか、鉄の鋲を数カ所打ち付けました。夜の町にその音が結構響くのです。思いは同じ、友人たちもまた照れくさそうに夜の町にすれ違ったものでした。「汽車通」の強者は座席の柔らかい布を切り取って、愛しそうに靴を磨いていました。

 子どもの頃はもちろん下駄での生活。
蹴り出して天気も占ったし、そのまま川に入り流され下流に追いかけもしたし、鬼の片方の下駄を隠す遊びもあったような・・。母に鼻緒をすげ替えてもらい、歯が薄くなるまで履きました。下駄もまた減らないようにと、自転車のチューブを打ち付けていた子どももいました。
  冬には下駄スケートなるもので遊びました。下駄に鉄製のスケートのエッジを取り付けたものです。足袋を着けて下駄に足を乗せひもで縛るという仕組みでした。足首が安定せずうまく滑れません。山陰の水田や結構観光客が来る池が氷結しそこで滑りました。氷がゆるみ始めると足袋がぬれ足がぎんぎんに冷えました。今ではその池が凍ることも少なく、もちろん池で遊ぶ子もいません。
 大晦日、紅白歌合戦が終わるとすぐに神社にお参りに向かう下駄の音、近くの校庭での盆踊りに走っていく下駄の音、叔母の料亭の庭石を踏む下駄の音・・
  君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ 白秋
「君」は舗石を女物の下駄で踏んだのでしょうか。

IO比

2020-12-05 14:33:49 | 日記
 講話「絵本に学ぶ子育て」~絵本を紹介しながら、ちょっと違った視点で子育てを見直してもらえたらと考えました。「お母さんの話はそのままの形で子どもに伝わっていない」、「子どもにとって幸せはものがたくさんあることだろうか」、「子どもの心の声を聴くとはどうすることだろうか」ということ等9項目を準備しました。結局、60分の中で3項目しか話ができませんでしたが。

 ちょっぴり反省し、「IO比」なる言葉を思い出しました。
アイオウ比~立花隆の本で知ったと記憶しています。I はインプットのアイ、Oはアウトプットのオウ、本を書く時でも話をするときでも、インプットとアウトプットの比を考えておくことが大切である。インプットを多くしアウトプットを少なくすることが肝要であると。 I 対Oが1対1、つまり事前に調べた内容をそのままアウトプットすれば「話の受け売り」「盗作」で何の魅力も無いだろう。この比が100対1くらいがいいのではと彼は言います。100冊読んで1冊書くのがいいともアドバイスしています。

 準備しすぎるということは私の場合はありません。今回はIO比でいえば10対1というところでしょうか。
話しを聴いてくださったお母さん方は、前から見ている限り一人として眠ったり話をしていたりという方はいませんでした。眠られたり話をされたりしたら、私の話が悪いのがその原因と思っていますので、その点ではよかったのかなと自己評価しています。本当に子育て困っていることについて3人の方からの質問もありました。話をよく聞いて下さったからこその質問だと思います。

話す機会をいただくことは私にとってまたとない勉強の機会なので大切にしています。同じテーマでも、前に話した内容と全く同じことは話さないよう自らに課しています。
 生涯学習センターの講座を含め依頼されるテーマは多岐にわたります。「読解力とは何か」「俳句を読むということ」「文学から見た桜」「道徳の授業について」「分かるとは何か」「子どもの幸せを考える」…
 いただいたテーマについてたくさんインプットし、それを自分の基本的な考えをベースとして組み立て、分かりやすくアウトプットする。今後もIO比という視点から、講演のレジメなどを見直していきたいと思います。


思いやりと感謝(2)~絵本から学ぶ(10)

2020-12-02 13:13:11 | 子どもの本
『ひとりぼっちのかえる』(興安・作 三木卓・文 こぐま社)を読んで、改めて「思いやり・感謝」について考えてみました。
題名通り、たった一人で生きている蛙がいます。お日さまが尋ねます。「たったいっぴきでくらしていて きみはさびしくないのか?」雨も、風も、地面も、風が、月が、星が同じように質問します。君は一人でさびしくないのかと。
  蛙の答えはいつも同じ。「はい、さびしくなんかありません。」
太陽には「おひさまは、ぼくのお父さん」だからと。雨には「恵みの水をくれるお母さん」だからと。地面には、「優しく育ててくれるから」、風にはあこがれる「友だち」、月には「さびしくありません。あなたはとてもきれいで、やさしいめがみさまのよう。ぼくはあなたのあおいカーテンに つつまれているみたいです。」と。
蛙の答えを聞いたみんなは一様に喜びます。「そうおもってくれているんだ」と。蛙が周りの者たちの気持ちや思いを共有し、彼らとともに生きていることを伝えたからなのでしょう。

 蛙は自分を取り巻き,生かし、成長させてくれているすべてのものに感謝しているのです。星が、蛙の歌う歌に対して「ありがとう」といいますが、蛙はすべてのものに対して感謝の気持ちを持っているのです。「いたずらこぞう」の風に対してさえ「あこがれちゃうよ」と答えるのですから。この感謝の気持ち~自分を取り巻き、気が付けば自分に寄り添って育ててくれているものたちへの「ありがとう」の気持ち~が「こころをこめた」歌になるのです。その昔から蛙が歌ってきた「うつくしい」歌によって星たちは輝き、仲間の蛙たちも応えはじめるのです。

 蛙の歌は「思いやり・感謝」なのですね。周りの者への「恩」へ報いる行為が蛙の歌となって表出します。その歌うという恩返しの行為によって、周りの者たちは幸福な気持ちになるし、何より蛙自身が幸せになるに違いないのです。「思いやり」とはみんなが幸せになるために、なくてはならない大切な心性なのだと、この絵本は教えてくれています。