山行記録・写真

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葉室麟 作品集 「千鳥舞う」 3

2015-08-25 12:40:51 | 葉室麟 作品集

 葉室麟 作品集  「千鳥舞う」 3

「月神(筑前黒田藩士の月形洗蔵の信念は、「月となって夜明けを先導」、これを信じ従兄弟の月形潔が樺戸集治監(現在の刑務所)を作り、管理にあったての葛藤を描いたもの。)」読破後、女性絵師の春香(しゅんこう。絵師としての号)=里緒(りお)を主人公にした、男女あるいは親子の愛憎を描いた、「千鳥舞う」を、27.8.25(火)0855読み終えた。

 

葉室麟氏は、女性を主人公にした小説の素晴らしさを、最近読破の「橘花抄(きっかしょう)」と同じように感じた。

博多八景を屏風に描いて欲しいとの依頼を受け、これを完成・披露するまでの姿が描かれている。

春香は、筑前黒田藩の作事方、七十石箭内重蔵(やないじゅうどう)の三女に生まれる。

幼いころから絵を描くことを好み、十歳の時に衣笠春崖に入門がかなった。

 

杉岡外記=守英が、博多の青蓮寺(しょうれんじ)からの依頼で屏風図を描くため、江戸から博多に訪れた際、同門よしみから衣笠春崖が手伝い絵師の世話を頼まれ、春楼と春香を推挙した。

箱崎浜で竜巻がつれてきたのか、おびただしい数の千鳥が舞うのをみて、杉岡外記がこれを描くと・・・・声を震わせて叫んだと・・・・・。

ここに、「千鳥舞う屏風」の誕生のきっかけが・・・・。

また、この1年後、春香の下駄の鼻緒が切れ、このため浜から、春香の住む町屋へ杉岡外記におんぶされ・・・・・

杉岡外記を引き留め、夕餉を終え、絵について語りあっていくうちに、・・・・・身も心も激しく求めあった。

杉岡外記は江戸に妻ある身、不義密通となり、二人でつくりあげた「千鳥舞う屏風」は不浄なものとして焼却されてしまった。

 

二人とも破門された。

 

杉岡外記は、博多を去るにあたって、春香に江戸の妻女と離縁し3年たてば博多に舞もっどってくるとの手紙を残した。

 

3年が経ち、杉岡外記が破門を解かれるとの話から、衣笠春崖は春香の破門を解き、亀谷藤兵衛の依頼の屏風の作成を担わせた。

 

博多八景の屏風の下絵をつくるため、お文を伴って風景をみつつ、どのような図柄にするか・・・・・・この思索のなかで、男女あるいは親子の愛憎にふれ、自身の杉岡外記に対する愛とを重ねあわせ、描かれている。

 春香は、杉岡外記が博多に船で帰ってくる風景を描きたいと、願っていたが、かなわなかった。妻に毒をもられ、一旦回復したが、衰弱がひどく遂に帰らぬ人となった。

この悲しみを乗り越え、絵師として力強く生き抜く決心をした。

 

博多八景

・濡衣夜雨(ぬれぎぬやう) 石堂川の河口付近の濡衣塚の周囲の風景を描いたもの。

・永橋春潮(ながはししゅんちょう)  那珂川の河口に、かって架かっていた、まぼろしの永橋(約147メートル)を描いたもの。

・箱崎晴嵐(はこざきせいらん)  箱崎浜に晴嵐(晴れた日の吹く山風)が吹くことを描いたもの。

・奈多落雁(なたらくがん)  奈多海岸の風景を描いたもの。

・名島夕照(なじませきしょう)  多々良川の河口に近い博多湾を望む名島の浜の夕日と茜色の海を描いたもの。

・香椎暮雪(かしいぼせつ)  香椎神社(もともとは廟(びよう)で香椎廟と呼ばれたいた。この地で没した仲哀天皇の霊を神功皇后が祀ったのが始まりとされる)の夕暮れの雪を描いたもの。

・横岳晩鐘(よこたけばんしょう)  筑前黒田藩菩提寺の崇福寺(そうふくじ)を描いたもの。

・博多帰帆(はかたきはん)  博多津にに入ってくる帆船を描いたもの。

 

主人公を取り巻く主要な面々

・杉岡外記=守英(もりひで。狩野派の芸名)  春香の想い人。江戸の絵師、妻女あり。狩野派一門。

・衣笠春崖(きぬがさしゅんがい) 春香の師匠。筑前黒田藩の御用絵師。

・春楼(しゅんろう) 春香と同門、兄弟子。

・お文 絵を描く手助けで、付き人。父は、殺人で流罪、赦免博多に帰る。

・お葉 身の回り世話、付き人。一時、夫とうまくいかず、絵に没頭、その師匠と駆け落ちを考えたが思い留まる。夫ほ、白水養左衛門(しろうずようざえもん)、もともと目医者、筑前黒田藩藩主永溥(ながひろ)の改革で御救い奉行となり改革を進めるが失敗、その後の献策で御咎め受け、お文の父の赦免船で流罪となる。

この際、春香に夫を待つと伝えた。

・湖白尼(こはくに)=お雪 春香の師匠衣笠春崖の想人、武家の奥方、夫が死亡し尼となる。衣笠春崖が絵の手ほどきで好きになったが思い留まり、生涯独身を通す。衣笠春崖を看病し、最後を看取る。

・亀谷藤兵衛 春崖を通じ、春香に屏風つくりをお願いした博多の豪商。屏風は、「人々の心願」となると、春香を物心両面で支える。1800年代幕末、筑前黒田藩の改革失敗のあおりで、謹慎、加瀬茂作に後事を託す。

・加瀬茂作 博多の豪商。屏風の完成および披露を助ける。

 

印象にに残った文章

・P6 放生会(ほうじょうや) 毎年815日、筥崎宮で行われる。本来、放生会(ほうじょうえ)は、仏教の殺生戒により捕らえられた生き物を放す儀式。博多では、放生会(ほうじょうや)と言われ、朝廷が九州の隼人族を征伐した後、戦で犠牲になった敵味方の霊を慰めたのが始まりと伝えられているとのこと。

 

・p343 葬式  「・・・・・・・なにゆえ、人が葬式行うかと言えば、亡くなった仏が親しき者を道連れにせず、一人で成仏してもらうためじゃ。ひとりで成仏するのは寂しかろうゆえ、皆でにぎやかに見送ってやるのが、葬式じゃ。親しいものが逝ったからというて、自らの生きる力を失うては亡くなった者がこの世へ未練を残して成仏の障りになろうど」