目覚めた孔雀。独り言三昧。

目覚めた孔雀の独り言です。

人格には愛憎があり好き嫌いがある。

2020-09-15 07:56:41 | いけてつ独り言
私の人間不信がすさまじかったときは、ノンヒューマン転移をしていた。

人格には愛憎があり、好き嫌いがある。
憎まれるのがいやで、嫌われるのがいやなら、普通一般の人間関係のルールを守ればいいのだが、それに反しても、まだ一緒にいてもらえることが愛好の証だと思い込んでいたのだろう。

今考えれば、愚かなことである。

その頃は人々をあだ名で呼び、それもリアルのつきあいではなく、子供の落書き帳にイラストを描いて、その人たちと広場でフリスビーをしたり相撲を取ったりして遊んでいる落書きを書いて、人間関係もどきを結んだつもりになって喜んでいたのである。

こともあろうに、人恋しくなってネットに出るのだが、画面の向こうの相手が、生身の人間という認識がなかったのだ。
これは致命的なことである。

リアルの人間を切り取って、子供の落書き帳の上で、お人形さんごっこをする。
まあ、リアルや画面越しにそんなことをしなかったことは、これは神様仏様のご加護であろう。

そうとしか思えない。

これは余談であるが、リアルの方で、人間関係の改善に努めたのがよかったか、なんかいつも感じる不快な波動が消えて、心身が安定するようになった。

それ以来人間不信や退行が溶けて、人間嫌いが治り、人生が楽しめるようになったのも不思議である。

何やら朝っぱらから意味のよくわからない記事ではあるが、そんなわけである。

なんか読者さんは友達。
そんなのりで記事を書いても読者さんには迷惑であろうが、許されよ。


己義に執着して、周りを責め苛んでいたことに反省する。

2020-09-15 00:58:56 | いけてつ独り言
観念要素の更改。
天風会のテクニカルタームである。

今日(日付が変わったあとだから昨日)、ヅッキーさんから電話がかかってきて、おしゃべりをした。

終わってしばらくたったあと、私の観念はどこかおかしい。
なにかものの見方に、好戦的で負け犬的なところがある。
そんなふうに気がついたのだ。

天台流の十界互具の考え方から行けば、好戦的で負け犬なのは、阿修羅だ。
私は生きながら修羅の世界にいたのか。
そう思って愕然としたのだ。

修羅界といえば、三悪道四悪趣の一つだし、修羅といえば、神々の帝王帝釈天の敵。
それでは、諸天善神の恩頼も得られるわけがない。
なぜなら、己義(己の邪義)に執着して、それで周りを責め苛んでいたのである。

私がどんな己義に執着して、どんなふうに周りを責め苛んでいたかは、書きたくない。
それは私の問題だから。

己義に執着して、周りを責め苛めば、周りの人たちが敵に回る。

周りは全て敵。
そんな考え方をして、生きるのが楽しいわけはない。
私が間違っていたのだ。

そう気がついたのなら、周りはみんな敵。
そんな観念を更改すればいい。

生きることは楽しいことだと教えてくれたのが、彼女さんとのラインチャットなら、あなたの考え方は歪んでいるよと教えてくれたのが、ヅッキーさんとの電話だ。

そんな出来事が、昨日あったのである。

以上である。