〈文化〉 被災地の写真屋が見た震災
2018年5月1日 聖教新聞
東日本大震災から8年目に入った。宮城県本吉郡南三陸町で写真館「佐良スタジオ」を営む佐藤信一さんはカメラのレンズを通して、震災直後からの“ふるさと”南三陸を見てきた。その思いと作品を紹介する。
震災が起こった時、カメラバッグを持って避難したのが全ての始まりです。「よくカメラを持ち出せましたね」と言われますが、私は町の写真屋です。カメラを持ち歩くのは自然な姿です。
避難した後、町を眼下に見下ろせる場所に行き、試し撮りのつもりで何げなくシャッターを切りました。この一枚が、津波が襲う前の“最後のふるさと”の姿になるとは思わなかった。直後、けたたましくサイレンが鳴り響き、ニュースで何回も報道された、防災対策庁舎からのアナウンスがはっきり聞こえました。水位はどんどん上がり、アナウンスの声もどんどん大きく荒くなります。「至急、逃げて!」。絶叫でした。大変なことが起こる予感はありましたが、あそこまでの被害は想定していなかった。
私は津波が襲う町を肉眼で見た記憶がありません。レンズを通して映画を見ている感じでした。目の前で起きていることが現実と思えず、夢の中にいる感覚でした。
撮影に当たっては、いろいろな葛藤がありました。一言では説明できないことです。
避難している人たちも、津波にのまれようとしている人たちも、町のほとんどの人は知っています。津波が町を破壊し始めた時、「撮るのをやめよう」と思ったのも事実です。「写真を撮っている場合か!」というピンと張り詰めた空気もありました。
私は撮りました。「この一大事を残すことができるのは自分しかいない」と思ったからです。「何で撮るのか」と責められても、撮らなければ残らないし、後で「撮っておけばよかった」といって済む話ではない。「撮るだけ撮ろう。その後、あの時の写真は見たくないという意見が多ければ公表しなければいい」と自らに言い聞かせました。
震災当日の写真に、自分の心は一切、入っていません。完全に第三者でした。傍観者でした。それぐらいの気持ちでなければ、シャッターを押せなかった。自分の町が壊され、自分の家が流され、町の人が津波にのまれる写真を、心を込めて撮ることなど絶対にできません。それでも撮ったことで、ものすごい罪悪感にさいなまれました。
がれきの中を自転車で回り、町の全域を撮影しました。写真には可能な限り、山並みなどの背後の風景を写し込むよう心掛けました。町の人が写真を見た時、「ここは、あの場所だ」と分かってもらうためです。
被災地以外から来た写真家は、自分がイメージした写真を撮るために、イメージにあった被写体を追い掛ける傾向があります。私は同じ被災者ですから、自分が意図した写真など、とても撮れません。同じつらい境遇にある人間の一人として、被災者の目線で「素直に」「背伸びせず」撮っています。こうして撮った写真の中に、共に生きる人の顔が写っていれば、それが前へ進む励みとなるのではないでしょうか。
震災後、私が掲げるテーマが二つあります。
「写真の力を信じて」――ボランティアの方々が被災した写真を洗浄し、所有者に戻す催しをした時のこと。自分が写った写真はありませんでしたが、自分が撮った写真はたくさんありました。仕事柄、撮った写真は覚えています。「佐良さんに撮ってもらった、うちの息子の七五三の写真が出てきたの」と涙を流して喜ぶ姿に、写真の力を改めて痛感しました。町の人と一枚一枚、思い出を刻み残していくことが、町の写真屋として生きる私のライフワークであると、強く感じたのです。
「伝えてゆく」――被災者は100年後、誰も生きていません。今、震災の風化や語り継ぐ難しさが指摘されています。語り部の力は確かに大きいですが、100の言葉よりも一枚の写真で分かる場合がある。ならば、一番つらい時の写真を残し、「町に何があったのか」を知るきっかけをつくらなければならない。私は、写真が語らなければいけないと思っています。単なる記録写真ではない、撮った時の情景も気持ちも伝えることができる、自分の想いを表現した写真ということです。
私の写真を見た2人組の婦人が一言、しみじみと言いました。「ここに入らなきゃ、何をしに来たのか分からなかった」。修学旅行で福岡から来た高校教師は、「これを見ないと被災地に来た意味がない」と、30人ほどの生徒を連れて来てくれました。
写真展示館は、南三陸さんさん商店街(南三陸町志津川字五日町51番地)にあります。今は観光地化していますが、ここは震災前、どこにでもある普通の商店街でした。震災で全て壊滅しましたが、皆さまの支援をいただき、同じ場所に高さ10メートルの盛り土をして再出発したのです。
被災地の私たちには今、「忘れられているのではないか」という危機感があります。震災から7年がたち、震災を知らない世代も増えています。被災者も年齢を重ね、後のことを考えると、「今のうちに伝えたい」という気持ちが強い。ですから、どんな理由であれ、町を訪問してくださるのは本当にありがたい。
そのうえで、せっかく来たのだから、被災地の「今」を直視してください。津波被害の爪痕が残るこの町を、自分のふるさとに置き換えて見てください。自分のふるさとが被災したら、どんな気持ちになるか、心の中で問い掛けてほしいのです。そして、自分が見たこと、感じたこと、聞いたことなどを、自分の言葉で伝えてください。震災の語り部とは被災者だけではありません。被災地に来てくださった全員が語り部なのです。
私は、町の写真屋です。震災を撮るために生まれてきたカメラマンではありません。
残したい写真は人々の肖像です。入学式や結婚式など、人生の節目の記念写真や日常の姿です。見た人々が笑顔になり、元気になり、勇気づけられる写真です。こういう写真を一枚でも多く残していくことが、町の記録となる。今回のような災害が起き、皆が途方に暮れた時、一人一人の「支え」になる。こう固く信じています。
間もなく震災から7年と3カ月。
震災から1年3カ月後、人生で初めてのボランティアで山元町を訪ねてから6年が経つんだねぇ。
あの衝撃は今でも忘れられないよ。