ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

2024年.2月 奈良町にぎわいの家「花しまい」公演案内

2024-02-07 | 演劇
四年前に企画したものの、コロナ下で中止になった、町家全館移動劇がようやくの実施となります。
奈良町にぎわいの家に住んでいる、大正時代の姉妹三人の物語。その姉妹があちこち、部屋を移動しながらのドラマで、そのキャストの移動と共に、お客様も移動する、という特別なスタイルです。
この移動劇の発案は、今回の演出家、外輪能隆さんのアイデアです。外輪さんは、関西を中心に東京等でも公演重ねる、EVKKの主宰者で、演出家。外輪さんは、私が学生の時に作った劇団で、演出をしていました。現在は関西では珍しい?!アーティスティツクな演出家で、とにかくセンスがよくて。昨年公演の「売り言葉」(作・野田秀樹)の演出の素晴らしかったこと!
そんなで、稽古を続けていますが、開けっ放しの町家は寒くて、しかも、来館者もきますので、稽古回数も取れない中、大阪の女優さんたちと、奈良は小町座他のメンバーが稽古を続けています。今回の戯曲を書くにあたり、改めて当時のことを調べましたが、現代とは違い、「女性」が自由に生きる選択が本当に少なかったということを実感しました。三姉妹は全く違うキャラクターでそれぞれにドラマがあります。姉妹のドラマと共に、町家空間や時代背景を語りながら移動を案内する語り部もいる構成で、内容としてはわかりやすい戯曲になっています。
奈良町にぎわいの家に関わって九年目になりますが、こうした町家でリアルに当時の娘たちが会話するような芝居を書けたことは、幸せだなと感じています。また今回の芝居は、ラスト、現代と時空がつながる?のですが、そのあたりも是非、お楽しみください。
チケットはまだ少しあるようですので、奈良町にぎわいの家まで問い合わせてください。ご来場、お待ちしています。




日本劇作家協会戯曲アーカイブ「十六歳」

2024-01-13 | 演劇
日本劇作家協会では、デジタルアーカイブ事業として、一昨年より、所属会員の作品を広く読んでもらえるようにしています。
私の作品は「きつねものがたり」に続き、この度、「十六歳」が掲載されました。
どちらも、十代の少女の物語です。2011年と2022年に小町座で上演した二人芝居です。
「十六歳」に関しては、このブログでも既に紹介していますが、元々、2001年のアメリカ同時多発テロが起きた時に、第一稿を書いたものです。
あれから20年以上たち、ウクライナでの戦争は続き、また、昨年からはパレスチナでの紛争が激化。
世界史で学んだ近代の歴史の困難な問題が、21世紀に続いています。
技術は時を積み重ねて脅威に感じるくらい進歩しても、人間は生まれて死ぬわけで、一から全てを学ばなければならず、何も積み重なっていかないということを、戦争のニュースから感じています。けれど、なぜこうなっているのかを学ぶことから始めるしかないと感じています。
私は子どもの時からのマンガ世代で、マンガから多くを学びました。「ベルサイユのばら」からフランス革命、「オルフェイスの窓」からロシア革命、この二つは池田理代子の作品ですが、20代で描いてるんですから、すごいとしかいいようがないです。こうした歴史の輪郭を優れたマンガから知り、興味を持てば専門書へという流れが、私のマンガ体験でした。
さて、現在のパレスチナ問題には、あの砂漠の英雄と言われた「アラビアのロレンス」が大きく関わっています。世界史を学ぶ中で興味を持ちましたが、40年前に出版された、神坂智子のマンガ「T.E.ロレンス」がありますが、当時、既に見ていた壮大なロレンスの映画とはまた違って、妙に共感したのを思い出します。ロレンスは作られた英雄で、本人の苦悩たるや…。植民地の時代の闇は深いです。この本はもちろん、フィクションですが、ロレンスが英国のスパイであり、しかし、アラブの文化をリスペクトする考古学者でもあり、という二重構造が描かれ、国家に翻弄される人物として描かれていました。このロレンスの苦悩が現在まで続いているのですから。
しかしまた、21世紀は同様に、新たな植民地的支配が加速しようとしているのかも。経済的な戦争、資源争奪戦…豊かな国が経済力を背景に、他国に干渉する…。資源のない日本はどうするのか、何ができるのか…。持たないものは「学ぶ」ことがキーワードにならないでしょうか。人を育てる、豊かな「教育」が手がかりになるのでは…。公的な教育以外にも、様々な場所で知り学ぶ機会があるでしょう。演劇も、そうした「知り、考え、学ぶ」世界への窓の一つになればいいなと願っています。
「十六歳」は特に歴史について語っていませんし、私は歴史の専門家でもありませんが、どうして、アメリカ的なものとイスラム的なものが対立しなければならないのか、という素朴な問いから始まったものです。同じ十六歳、しかし、育ちも立場も違った二人が出会った時、どうなるのか…。そこからドラマは始まります。よろしければ、ご一読ください。(以下の画面をクリック)
十六歳 | 作品 || [日本劇作家協会] 戯曲デジタルアーカイブ

十六歳 | 作品 || [日本劇作家協会] 戯曲デジタルアーカイブ

日本劇作家協会による劇作家名や戯曲名、上演時間、上演人数などで検索が可能な戯曲のデジタルアーカイブ検索サイトです。

[日本劇作家協会] 戯曲デジタルアーカイブ

 



(残念ながら、現在はどうも品切れのようです…)

小町座一人芝居「鮨屋の娘」出演者コメント

2024-01-08 | 演劇
2024年となりました。今年もよろしくお願いします。元旦からの地震は週末からの雪も続き、困難な状況が続いていると聞きます。インフラの早期復旧を願うばかりです。

さて、昨年11月に奈良町にぎわいの家で上演した、一人芝居の感想を出演者が小町座FBに公開していました。
高校一年の出演者の言葉です。出演後のほっとした写真もあわせて紹介します。

私は今回の演劇を通して、掛け合いのある演劇よりも一人で物語と登場人物そしてその背景を構築していく一人芝居のほうが自分に良くあっていると感じました。
けれど、本番までの練習時にずっとこれじゃない感といまいちこの芝居のリズムやテンポを理解できていないと感じていて、少し苦しいお稽古だったのを覚えています。
私の母がいつも楽しくて好きなことを続けるには苦しくて嫌なことが必ずついてくるものだと言っているのが、今回ああこういうことか、とすんなり入ってきました。
それは、どれだけ演劇が好きだとしても、演劇一本で生きていくには厳しい世の中だから嫌いでも勉強はしっかりしなさいよという意味だと思っていましたが、これは、好きで続けていることもいつかは苦しい時が来てそれを乗り越えられなくても続けられる覚悟はあるのかという意味もあったのだと気づきました。
私の母と私の関係、鮨屋の娘に出てくる母と先生の関係それは時代が違えど気持ちや想いは一緒なんじゃないかと思います。
まだ私の演じた母は、岡本かの子が、小野先生が書いた母にはなれていないと、今の年齢ではできなくて当たり前で今はこれで十分だと言われて、正直ずっと悔しかったです。
だけど、今では私は戦前を生きたの母親の気持ちはわからないし、完全に男の下で肩身の狭いおもいでいる母親達をみたことが無いし、今まで私が感じた母からの優しさや想いや努力を、私なりに寿司屋の娘の母と重ねて、演じきれたと思っているのでとても達成感と満足感のある、心から楽しかったと言える芝居です。
この芝居を通して学んだことを活かして次の芝居に繋げたいです!




岡本かの子原作・一人芝居「いのちの店の娘」から~「家霊」をつかむ?!演技論②

2023-12-13 | 演劇
一人芝居からまもなく一ヵ月ですが、もう遠い昔のことのように思うのは、一月、二月と公演の稽古が続くからでしょうか。次回公演のことは次の機会として…。
奈良町にぎわいの家で11月半ばに公演した一人芝居の二本目は、岡本かの子の「家霊」が原作です。アラフィフの小町座代表の西村智恵と、篠原佳世が演じました。この二人の芝居の出来上がるまでの過程がいつもと全く違い…困ったり良かったり、中々、大変でした。
前回のブログに書いた「鮨屋の娘」同様、この芝居は「どじょう屋」の店の娘が主人公です。女学校を出て、職業婦人になり、母親の病気で店に戻り、そのまま、店を仕切る暮らしをしています。
娘は昔から、「精力の消費者の食事療法をしている」ような店が嫌、しかも父親は放蕩、母親はそれにも耐えて帳場に座り店の主となっている。そんな状況に不満を持っています。
その「不満」の持ち方が何というか、「微妙」なのです。例えば、不満や怒りがあるということは、そこから生まれるエネルギーもあるはずで、その不満を何ものかにぶつけたり、時には自分を虐げたり、形として現れることもあるでしょう。
ところが、この娘の場合、そんな「不満」の出し方が「微妙」なのです。自分の状況をハナから諦めている…なら、逆に諦念から、別の次元にすっきりと自分自身を整えていくかもしれないが、そういうのとも違う。
どじょう屋の娘は、店も父母も好きではないが、しかし「そこにいる」。もちろん、積極的にいるわけではないが、かといって、積極的に去ろうともしない。もちろん、病気の母を見捨てられない現状があるが、しかし、娘そのものが、何というか、少し、不思議なのです。
原作「家霊」では、女学校を出た後に家出同然で職業婦人になった三年間をこう書いています。
「三年の間、蝶々のように華やかな職場の上を閃いて飛んだり、男の友達と蟻のように触角を触れ合わせたりした、ただ、それだけだった。それは夢のようでもあり、いつまで経っても同じ繰り返しばかりで飽き飽きしても感じられた。
最後の傍線は私が引きましたが、ここが気になって仕方なかったのです。つまり、店の外の世界も自分の生きる場所とは思えななかったのでは、そんな感覚を受けたのです。
となると、母親が病に倒れ、店に戻るとなった時も、もしかすると逃げることもできたが、戻ってきたのかも…そのように娘をみると、娘にとっての嫌悪すべき「いのちの店」の正体が、また別のものに見えてきます。
そのあたりのヒントが小説のタイトル「家霊」に見えるのです。「家」の「霊」ですから、ただならぬ感じがする言葉ですが、このタイトルは、大地主の娘として育った(その後、家は落ちぶれるのですが)かの子にまま、つながるでしょう。過去につながる血脈や土地と人の時間、自分につながる亡者たちの声をひきつれたまま、今に生きている、かの子自身を反映した、タイトルであるからです。
この「家霊」に抗いつつも、そこを引きずるからこその、独自のまなざしと体温がある…。かの子の作品全般に感じる、独特のぬめり感と暗さ、妙な明るさと汚れのないまっすぐな感覚は、「家霊」があってのものと、かの子は苦しみつつも心得ているのではないか、そんな風に思うのです。
そう考えると、どじょう屋の娘が単に「店を嫌悪している」というわかりやすい気持ちでは、演じらないのです。ここに、演者は苦しみました。特に小町座代表の西村は。
西村の良さは、自分がまま前にばーんと出るところ。昔から小町座の少年役を続けてきたので、元気の良い明暗がはっきりとした気持ちの良い役柄はピカいちで、前回の本公演「万博物語」では、観客から大絶賛されました。
ところが、どじょう屋の娘はそんなキャラクターからは程遠く、いつもの「彼女のまま」では到底できません。彼女の場合、自分の中にある、割合、明確な気持ちの流れから人物をとらえ、作っていくので、わかりやすい役柄にどうしてもなってしまいます。しかし、今回の娘は先に書いたように「わかりにくい」のです。店は嫌い、というのを前にだすだけでは、どうにも作りきれません。
とはいえ、この物語には娘の外側に大きなドラマがあり、それが毎夜、支払うあてもないのに、どじょう汁をせがみにくる、彫金師の徳永老人と、自分の母親です。二人の秘めたつながりを娘が知ることで、明らかに娘の中で、嫌悪していた「どじょう」が親しいものに変わる、ここがドラマの山のの一つです。西村の芝居では、この娘の変化を、前に強く出す演技としました。
ところで、西村のキャラクターは本番一週間前まで平坦に固まってしまっていたので、とりあえず、私が頭から読むのを聞いてもらいました。そしたら次の稽古で、なんとまあ、すっかり変わっていたのです。この変化に私は驚きました。彼女の良さは演じないで自身がそのまま出る時なので、それと正反対のいわゆる「演技」をしたことに、本当に驚いたのです。もちろん、形だけの演技なら、誉めはしませんが、「演技」ができるんだなあ、と。彼女の努力は大変なものがあったと思います。自分とは全くかけ離れた、気持ちを寄せるのも難しい役柄なんですから。
さて、私は良かった、間に合った、と思っていたところ、公演後、西村のファン、特に男性から、辛口のコメントが寄せられたのです。前回の少年役とはあまりに違うというのもあるでしょうが、おそらく、どじょう屋の娘のキャラクターのつかみにくさと、いつもの西村のリズム感が全くないのに、困惑したのではないかと思います。一方、女性の感想はそうでもなかったので、今回ほど、感想に男女差が出た芝居は初めてかもしれません。何しろ、お客様に「家霊」というタイトルの持つ印象を芝居の中で伝えるのは、とても難しいと思いました。
一方、篠原佳世の芝居は、割合、早い段階から、落ち着いたものとして仕上がってきました。彼女は、初期段階では、役柄をとらえる時、形として「芝居らしく」読む傾向があり、語尾などが一定の音域でパターンとしておさまることが多いのですが、今回は「芝居というより語りのように」と伝えると、いい感じに役柄の空気感が出ました。彼女の声はとても良い声なのですが、その声色が、今回の役柄の陰影にぴったりだったのです。大袈裟でない、淡々と、しかし、どこが憂いがあり、決して昂らず、といった空気感が、なんともいい感じで出たのです。いつもは、役の仕上げに時間がかかる彼女が、今回は早くて、そこが何とも面白く、まさに「当たり役」だったと思います。
そんな篠原の感想を小町座FBから抜粋しました。

一人芝居『いのちの店の娘』を終えて
今年で3年連続で一人芝居をさせてもらった。
振り返ってみても、未熟な私が3本も一人芝居を演ったなんて不思議な感じがする。
そんな環境にいて幸せだったと思う。
舞台の本番がある度に、大きな何かを得ている。
特に一人芝居では、見えない相手や周りの状況、少し離れた所にいる人を、より鮮明に感じられるようになったことであったり、1人で二役の会話を演るときにどんな間合いで演るのが観やすいのかを感じ取ったり、またその二役を演る時に、それぞれのキャラクターとその背景を瞬時にチェンジすることであったり…
そういうことに少しずつ踏み込めるようになってきた。今回の『いのちの店の娘』は、作品を初めて読んだときに自分が持ったイメージをそのまま深めていけたので、比較的演りやすかったと思う。
おそらく、どじょうやの娘にしても、その母のおかみさんにしても、彫金師の徳永老人にしても、ずっと内に秘めたものや強い想いがあって、それが私自身と重なるものがどこかあったのではと思う。
娘がずっと母親を見てきて、どんな風に思い自分に重ね合わせているか、またその心持ちで徳永老人に対処した時の心の動き。
徳永老人は、若い頃から何十年もおかみさんを想ってきて、強い気持ちがありながらも言葉に出さず、想いを、命を簪に刻み込む。おかみさんが毎晩よこしてくれた、どじょう汁を食べながら。自分の作った簪をおかみさんが付けてくれることでおかみさんと交わる。
その為に生きてきた、彫ってきたようなもの。
おかみさんは、旦那から受ける仕打ちに思うことは多々あるものの、自分の務めを果たすことと意地のようなもので静かに自分を保ち続けた。徳永の想いに気づきながら、どじょう汁と引き換えに、命が想いが刻み込まれた自分の為だけに作られた簪に慰められながら、道を逸れずに生きてきた。
この3人の心の芯の部分の絡み合いが、すごく演じ甲斐のある、脚本だったと思う。
自分なりの解釈で、言葉で言うほど表現できていたとは思わないが、登場人物のその場その場の心情に沿って発する台詞が自分の思うスピード感で自然に言えるのが心地良かった。


なお、この一人芝居は「娘」「母」「徳永老人」と三人を演じ分けるのですが、西村、篠原ともに「老人」が一番落ち着いて見えました。確かに、この老人は迷いがなく、「ただ毎晩どじょう汁」がほしい、この一点に気持ちが集約されていくので、演じやすかったでしょう。
それと、最後までできなかったのは、娘の母が亡くなる前に、徳永老人が自分のために作ってくれた、簪のことを語るシーンがあります。原作では
一通り話をした後、最後に「ほ ほ ほ ほ」(原作まま)と笑うのです。これを脚本にも書きましたが、この笑いが、全くできない、というか、芝居にならない。ただ、変な笑い?にしかならず、結局、この笑いは舞台で無しとしました。
この母の「ほ ほ ほ ほ」の笑みを、ぜひ舞台で聞きたい。これが私の夢です。どんな女優さんがこんな風に笑うんでしょうか。
いや、もしかすると、声は無しで…顔で見せるのか?演出する側としては、本当にこの母の死の直前の笑い声は、何とも大きな魅力です。

それにしても、大変な芝居をやり遂げた小町座の二人に拍手!お疲れ様でした。






岡本かの子原作・一人芝居「鮨屋の娘」から~「歴史的」?!演技論①

2023-11-29 | 演劇
前回のブログで告知した、奈良町にぎわいの家での小町座による一人芝居は11月18,19日に無事終えました。今回は、以前上演した「鮨屋の娘」を高校一年の井原蓮水が、新作の「いのちの店の娘」をアラフィフの小町座代表、西村智恵と篠原佳世が演じました。
「鮨屋の娘」は、女学校に通う鮨屋の娘が主人公なので、役柄の年齢がそのまま、役者のリアルに重なり、初々しい演技が好評でした。とはいえ、この一人芝居は、二人の人物、「娘」と、その娘が思いを寄せた「先生」の「母親」の二役を演じる構成にしたので、中々、大変でした。
 明治の女性像、家父長制の下での嫁であり母親であるということ。もちろん現在の「ママ」とは全く違います。
 お話の中の「先生」の「母親」は、幼い息子(後の「先生」)が虚弱で食が細いため、夫から責められる日々を送っています。家を継ぐ男子を立派に育てることが母親の使命。大きな家の妻ですから、家事は女中がするので、食事も自分では作りません。家の中にいる美しい奥様、といった感じでしょうか。今の私たちからすると、贅沢!に見えますね。
 しかし、妻は家の格を示す飾りであり、男子を立派に跡継ぎにすることに集中…となると、どうでしょう。妻であり母である以外の「わたくし」など、あるべきはずもないのです。そこに疑問をもたないから、なんだかもやもや苦しい…。「家」を保つために子を産み、夫には従順…。今の私たちなら「無理ーー」と叫んでしまいそうですね。
 こうした時代背景を理解しながら、その感情をリアルに持ち、表現にしていくのは、とても難しいことです。高校一年がとてもできるわけはありません。以前、西村や篠原がこの演目もした時も、この「母」がどうにもできませんでした。
 何が難しいかというと…。時代背景を押さえ、抑圧されている時代の女性を演じる、だけなら、わかりやすいのですが、それだけではない。そもそも、この「母」は自分の居場所に疑問はもっていない。なので、個別の意識的な「わたくし」は前に出てこないわけです。ただ、必死に、自分へ向かってくる「家」の圧力、跡取りの息子が虚弱であるので何とかしなければならない、ということを使命としして抱えています。
 それとは別に、もう一方向が、役を組み立てる時に必要です。苦悩する母は何にすがって生きているかということです。家の維持が第一の夫は、自分を助けてはくれない。結局、自分の分身、虚弱な息子と、二人で一つの関係性の中に、かろうじて安堵し、一方で秘め事のようなものを共有する、共犯者でもあるかのような、複雑な母子の関係性が、かの子の物語には見えるのです。
 ところで、この二人にとってのそんな「秘め事」のような感覚は、以下のセリフになっています。
「…梅の実が…好きかい…橘の実も…好きなのかい…。お前、まるで鳥みたいに…そんな実のなる場所を…良くお知りだねえ…。ああ、なんだか…気持ちがね…胸がいっぱいになってしまって…よくわからない気持ちがね、体に一杯になったりすると…ああいうものが噛みたくなる…。」
 このシーンは、息子の食の細さを嘆き「何でもいいから食べておくれ!」と懇願し取り乱した母が、沈黙してからゆっくりと語る演出にしました。。家の中で一種、閉じ込められているかのような母子が、自分たちの「美しいもの」を直感的につかむまなざしは、二人でなくてあくまで「一人」なのです。これはとても危うい感覚ですが、このあたりを表現する「詩的感覚」が、役者には必要です。なので、まだ小町座では「鮨屋の娘」に出てくる「母」は完成されていません。今回初めて演じた井原さんに、私はこう言いました。「10年後、20年後のあなたの「母」が見たい。だから長生きするわね。」と。
 その井原さんの演じた母親像は、本番は結果「子供思いの優しい母」になりました。私はこれを彼女の現時点の芝居として、納得しています。そして、お客様もそこが良かったようです。確かに、「子どものことを思う母」というイメージは、広く共感を得やすいでしょう。しかし、先に書いたように、それだと、ただのお母さんの苦労話に終わってしまいます。そうではない、先に述べたような感情を、時間を越えて令和の今にリアルに出現させたい。それが、岡本かの子の作品と対峙するということだと思っています。
 確かに、かなり特殊な感覚ではあります。けれど、魅惑的な感覚でもあります。
 こう考えていくと、現在は「わかりすい」ということが作品には必須、のような時代ともいえますが、岡本かの子の原作を読むと、「明るい、暗い」「やさしい、厳しい」という、対立するに方向には到底収まらない、不思議な「もの」があるのです。この空気感を「歴史」と呼ぶのは、少しためらいもありますが、人が生きてきた時間を「歴史」と呼ぶなら、こうしたかつての人々の感じた気持ちや情緒的に乗っかっている「もの」を「歴史」と呼んでもいいのではないか、などと思うわけです。
 私たちは、亡くなったかつての人々に会うことはできない。が、優れた過去の作品によって、当時の呼吸を文の間から知ることができます。それを今、生きている私たちが表現するということは、まさに、一人一人の小さな「歴史」に向き合っているということではないか、と今回の一人芝居を終えて思いました。小町座はプロでないですが、だからこそ、「商品」とは別のところで、市井に生きた人々の気持ちに向き合えるのかもしれません。キャストは苦しみ苦しみ、記録には残らない、個別の人間の「歴史」を体現してくれる…んでしょうが、いえいえ、その作業はほんとに苦しい、苦しい…。でも、私はとても期待をしているんです。
 その「鮨屋の娘」の写真です。(撮影…河村牧子) 直前までキャラクターが混乱した井原さん。本番前日というのに私は「今から私が全部読むから、それを参考に。」といって終えました。そして本番前のリハーサル、明らかに違った「娘」がそこにいました。井原さんと二人思わず抱き合いましたが、まあそれくらい、ものすごく大変なことを高校一年生はやりました。心からありがとう、お疲れ様と言いたいです。
次回は、もう一つの一人芝居「いのちの家の娘」について書きます。