ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

奈良町にぎわいの家 座敷で一人芝居 小町座

2023-10-26 | 演劇
9月初めの小町座2本立公演が、もう随分前のように感じるほど、バタバタと次のことに進んでいます。
次回の小町座出演のお知らせです。
●奈良町にぎわいの家 百年語り vol.3 「鮨屋の娘」「いのちの店の娘」
●2023年11月18日(土) 19日(日) いずれも 1時からと3時からの2回公演
●無料 申し込みは 奈良町にぎわいの家まで

岡本かの子の晩年の短編小説三つ「鮨」「みちのく」「家霊」を、それぞれ20分程度の一人芝居として書きました。今回は、そこから二本、上演しますす。
前回公演「少年万博物語」は太陽の塔、岡本太郎の名前も出てきましたが、次は母の岡本かの子です。
どういうわけか、私は、岡本かの子、太郎のこの母と息子に気持ちがぐーっと行ってしまいます。
それは、「空気をよまない」「わが道をいく」「変」「エネルギッシュ」「愛の人」…など、今の軋轢や衝突を好まない令和の現代人とは正反対、というところに惹かれるのでしょうか。そのスケールの大きさに、惚れぼれしているのでしょう。
自分に嘘はなく、正直にそのまま。今の私たちのように、周りばかり見て、自分の立ち位置を確認するような安全地帯など、はなから望んでいない二人。そんな二人の作品の「愛」と「美」と「生きること」に突き進むとてつもない力に圧倒されます。それでいて、とてもかわいく、ユーモアもあり、論理的で思考が深い。頭の良さを、小説からも太郎の作品からも感じます。
今回の戯曲としての新作が「家霊」から書きおろした「いのちの店の娘」です。どじょう屋の娘の話ですが、以前の二本に比べると、演じるのは中々、手ごわくて、出演の西村と篠原、今、必死に格闘しています。
毎晩、どじょう汁をせがみにくる「老人」が、どじょうについて語る一連があるのですが、かの子の筆記は、まさに「いのち」を食べるような表現でつくづく、感心します。それを何とか、セリフに生かしたいと書きましたが、さあ、どうでしょうか。
町家の座敷で見るのにぴったりのお話かと思います。ぜひ、ご覧ください。






舞台「パラサイト」感想

2023-07-27 | 演劇
女優のキムラ緑子さんから案内を受け、チケットをお願いし、小町座のメンバーと観劇へ。
2023年7月12日の舞台を見ました。臨場感たっぷりで、役者、美術、十分に堪能しました。
出演の顔ぶれが、まあすごい…。若手は宮沢氷魚、伊藤沙莉、後は実力派、緑子さん、真木よう子、江口のりこ、山内圭哉…。
そして、舞台という大きな牢獄?!の牢名主(もちろん、誉め言葉ですよ!)古田新太さん、という豪華な面々。
まさに、このメンバーならでは、うまいなぁ、すごいなぁ…です。

タイトルからわかるように、これは映画「パラサイト 半地下の家族」が原作です。非英語作品で初めて、あのアカデミー賞、作品賞受賞、しかも脚本賞をはじめ、四冠という快挙の作品。こちらを見ての観劇という方も多かったことでしょう。
しかし、私は原作を見ていなくて…。なので、先入観なく?舞台を見ました。

お話としては、貧乏な家族がお金持ちに寄生して、その家を糧に裕福な暮らしを目指す、というもので、よくあるパターンといえば、そうなんですが…。その貧乏な家族、父、古田さん、母、江口さん、主役の息子である、宮沢さん、妹の伊藤紗莉さんが、あまり悲惨にみえない。これにはおそらく二つの理由があり、一つは、宮沢氷魚さんが透明感があり、素直で、とても美しい、という持って生まれた特性があり。これって本当に稀有なもので、これをまま、維持しながら、世界に羽ばたいてほしいと思います。が、今回のキャラクターには、あまりに美しくて、何をしても、貧しさへの怨念に中々、結びつかず、絶対にのしあがってやる…という切迫感の必然が感じられなかったということ。これは氷魚さんだけでなく、家族全体に感じられた空気でした。妹の伊藤さんも、さわやかで健気なんです。
これは役者の問題というより、戯曲や演出の問題が大きいかもしれません。

「貧しいところから抜け出したい」という切実さ。その怒りや恨みは、簡単に描けません。そこに至るまでの背景を丁寧に人物に背負わせるのは、商業演劇の視覚的な見せ場の多さを考えると、限界もあるでしょう。
それで、この「貧しさ」に関しては、戯曲のセリフでなく、演出で語ろうとしたのだな、という意図が見えました。客入れの時間に、家族の住まいがある界隈の、みすぼらしい風俗や、住人のやりとりを見せ、ドラマの伏線にしていました。主役の家族には貧困の悲劇を語らせず、脇の住人から想像させるといった構成と演出です。これは悪くはないのですが、そうなると、本来ならば、その背景となる脇役たちにもドラマがいるとなります。しかし、それを背負わせる時間もないし、逆に物語の進行が悪くなってしまう…。全体、このあたりのジレンマがあったのではないでしょうか。
しかし、貧困の何たるかを語るには、ただの背景として、脇で動く人たちでは、あまりに薄く、「金持ちに寄生」するというアイデアの根幹にある
主人公の決意は、背景のみでは語れません。ここにつながる主人公の「セリフ」がなかったように思います。
もちろん、言わないことで、成立するとも思いますが、多くなくても、一瞬、ぎょっとするような一言が、氷魚さんから聞きたかった気がします。

もう一つは、1994年の阪神大震災を背景にしたこと。これに関しては、評価がわれるかもしれません。震災を持ってきたことのリアリティと、物語の成立においての必然がうまくマッチするかどうか…。現実、どんなに災いがおこっても、痛くも痒くもない人と、それがすぐに「死」に直結する階層が日本にあるということを突き付けているわけです。ここに関して作家が戯画的ではあるけれど、見逃さず、構成の柱としたのは、拍手したい。実際、大きなスクリーンに映る燃える町の様子は、まるで昭和の神戸空襲のようで、迫力がありました。

さて、物語ですが、主人公の家族が殺人に関わるという状況に至っても、相変わらずドタバタが続き、どう考えても、「こんな深刻なことをした後でこの態度になるか?」というような、マンガ的なシーンが沢山ありました。この「マンガ的」な笑いが、空恐ろしくなる次元までには、役者さんたちがいってない。というか、やはり感情の組み立てとして無理がある。もしか、それをトリッキーな側面も内包するなら、異次元の「変」な芝居が必要だったのでは?と思います。一番、違和感があったのが、主人公が半地下の家族を殺めたかもしれない、そんな極限の状態の時に、震災での住人の心配をするセリフが続いたこと。「え?こんないい人がさっきまで自分のしたことを忘れてる?」という感じがしました。小劇場なら、自分の暴力性と震災の暴力?性が相乗した時、果たして人間はどうなるのか、といった、かなり極端で過激な芝居も可能だったかもしれません。
つまり、役者が目立つ笑いやシーンが多かったのです。エンタメの条件を十分に満たし、役者さんの躍動感やうまさは、本当に堪能しました。が、全体、終わった時に、「うまかったねえ」だけではないところを、作家は目指していたのではと思います。エンタメと物語のテーマの兼ね合い、その匙加減の難しさを感じた舞台でした。そう、怖くないんです、主人公の家族は。変じゃないんです。映画ではどうなんでしょう。

役者さんに関しては、いうことないです。ほんと、すごかった。皆さん、舞台が「家」のような方たちばかりで、古田さんなんか、普通におるなあと。この普通にいる感がハンパでなく、大きくすごい。もっともっと普通で変でいてください。
今回、「えっ?」と目をひいたのは、真木よう子さん。なんか、独特の「間」があり、前のめりで言ってるようで、そうでないようで。これ、意図して作ってるなら、すごいなあと。上手い芝居というのでなく、変な感触というか、呼吸が少しずれるというか…それが変なキャラクターをまろやかにして、憎めなくしていて…なんだか不思議な芝居をみたなあと。これは真木さんしかできないのでは。計算されているというのとは違う、「おかしな」感じ。愉快でした。相棒の金持ちの社長役は山内圭哉さん。うまい!です。小さい声でぼそぼそ言う時の声もよくて、抜群の安定感で楽しみました。

そして、キムラ緑子さん。もちろん、上手は当たり前という域ですが、ぶっ飛び方と、その跳ねた芝居の後の空気の回収が、並みでない。半地下に自分の家族を住まわせている家政婦という役柄は、この物語の中では、設定がわかりやすく、(他の人はすぐに笑いの方向になるので、役柄の感情の持続が難しい芝居だったので、)気持ちを集中的に作ることができたのかもしれません。
半地下で自分の家族が住むことになった経緯を語るシーンの必死さ、声の出し方、こんな出し方で毎回やってて、大丈夫なんだろうか…と思うくらい、存在全体で叫んでいる…。どうしてこんなことが出来るんでしょう。感嘆するばかりです。舞台に生気が宿って、緑子さんの周辺に独自の空気がむくむくと膨れ上がっていく感じ。また、このシーンの前段階で、いったん、家を追い出されるのですが、再びかえってくる時の、家のドアまでの歩き方…。なんか見てしまう、釘づけになる…。お客様からの最後の拍手もひときわ大きかったです。

その緑子さん演じる家政婦の息子、半地下の主ですが…これもよくて、なんというか、知性を捨てた感覚というか、動物的にただ生きることに執着しているというか、人間の部分を捨てている「強み」と「荒々しさ」が、すごいなあと。狂暴というだけで終わらない、ただ生きること、半地下にいることにのみに存在をかけている、これを演じるって中々、難しいと思うんですが、得体のしれない感覚がありました。まさに半地下の主役だったと思います。

それと、商業演劇の楽しみは脇役の方。今回は、運転手さんや何も話さなかさった半地下のおじいさん。もう、楽しいです、ほんと、演劇的な楽しみってこういうところだなと思います。

というわけで、観劇感想でした。皆様、本当にお疲れ様でした。

 劇場ポスター










小町座のこと~『十六歳』を中心に

2022-10-15 | 演劇
八月末に二人芝居「十六歳」を上演してから、まもなく2ヶ月。この度、その感想を含め、小町座論!を、この3年、観劇していただいている早野照二さんに寄稿をお願いしました。外側から見た、小町座の姿、作品のこと、改めて考えることも多い内容でした。早野さんありがとうございました。(写真…河村牧子)


小町座との出会いは、2019年の春でした。
その前の年は、…私が、生まれ故郷の大阪を離れて家族とともに20数年間暮らした島根県の山奥から、家庭の事情で帰阪した直後で。
島根滞在中に出会い、大変お世話になった広島の音楽活動していた方から届いた新年の挨拶状に「今度、大阪でライブやります」とのお知らせがあり、「ぜひ再会したい」との一心で、妻と二人会場に出向きました。・・・そこに、パーカッションでジャンベ(西アフリカの太鼓)を演奏する「運命の」!?女性(小町座代表・西村智恵さん)がいたのでした。

ライブが始まる前に雑談を交わしていた時、「私、奈良で劇やってます。」と彼女が自己紹介してくれました。「台本も演出もプロの方がして下さって…」とアピールも。・・・お芝居に少なからず興味があった私は、帰ってから、「小町座」「奈良で活動されている」という情報を手掛かりに、ネットで見つけたその年の3月の公演「セリフと歌で語る平成」を覗きに行かせていただきました。・・・ただ、その時の感想はひとえに「あの人、本当に、お芝居やってんだ・・・」と私の好奇心をくすぐるものでした。

「セリフと歌で語る平成」2019.3/30 町家文化館くるま座


一口にお芝居・演劇と言ってもいろいろあります。つい先日も、23歳になる末娘が知人とミュージカル「ミスサイゴン」を観に行ったらしく「・・・良かった!・・・でも本当は高畑充希のキムが観たかったんだけど!」などとミーハーな感想を漏らしてました。概して、若者が舞台俳優の艶(あで)やかさにあこがれるというのは今も昔も変わらないようです。が、私が昔、興味をそそられたというお芝居は、いわゆる「小劇場」といわれるもので、その創成期には既成の商業演劇の枠にはまらない新しい劇を創出しようというエネルギーにあふれた人たちの活動でした。時代もそういう時代でした。

例えば大阪では、天王寺公園など野外で、狭い、怪しげなテントを建てて、薄暗い灯りの中で上演されるようなこともありました。テントの中で地面に敷いた敷物に座った観客は、かぶりつきの位置で至近距離の演技を観るのですから、役者の放つ水しぶきを浴びるかもしれないし、劇中の喧嘩で役者が客席に倒れこんでくるかもしれない・・・そんな緊張感も持って芝居を観ているわけです。もちろん、芝居の中身も世間の常識をあざ笑うかのような、あえてタブーを白日の下にさらけ出して見せるかのような類の「過激」な劇もありました。

最初に小町座の劇「セリフと歌で語る平成」を観たときに、私の脳裏に蘇ったのはこうした「小劇場のお芝居」でした…と、そんなことを言ったら小野先生にも、創立当初から小町座を支えてこられた多くの方々にも怒られるかもしれませんが。もちろん、かつての小劇場と姿形がソックリそのまま同じという意味ではないんです。かつての小劇場もそれ自身変化を遂げて、消滅したものもあれば、新しい商業演劇の一角として花咲いてメジャーな活動を展開している人たちもいます。当時の商業演劇もまた今日に至る時代の変化に合わせて変貌を遂げざるを得ない運命をたどっているようですし。ただ、いつの時代にも演劇に群れる人たちは主流となった劇を崇めひれ伏すばかりではなく、次の時代の礎になるような新しい劇を生みだすことに、繰り返し繰り返し挑戦し続けてきたと思います。そういう息吹を、ユニークな生い立ちをもち元気印の活動をつづける小町座との出会いで感じたということなのです。・・・舞台となった会場「奈良町屋文化館くるま座」が、地元の歴史文化振興に貢献してきたけれど、その日が使用できる最後で「記念すべき公演」である…と紹介されたことを覚えています。オペレッタ風?(あるいは朗読劇風?)のお芝居では、なにがしか、世相を危ぶみ憂うような台詞が飛び交っていたことなど・・・さらにつけ加えれば、その後に知った小町座の生い立ち(幼稚園の母親たちで旗揚げした、生活者の劇団としてスタート・・・)も興味深く感じました。

時代も変わり、土地も変わり、また女性が主導して華麗に様変わり(或いは、それはひとえに小野先生の個性=美的感覚ゆえなのかもしれませんが‥‥)してはいるけれど、大昔に観た「小劇場」を思い出させる香りが漂っていた、ということで…。
だから、私が出会った彼女が「劇やってます」と教えてくれた「劇」はこういう「お芝居」だったんだ!・・・「セリフと歌で語る平成」を観た時の私の感想はひとえに「あの女性は、ホ・ン・ト・ウに、『芝居』やってるんだ!」と、当時と同じく私の好奇心をくすぐるものでした。

■「コロナ姫」「鮨屋の娘」「四月怪談」から、とりわけ「十六歳」のこと

以来、劇場に足を運んで観劇させていただいたのはこの四作です。

・コロナ姫(2021.3) ならまちセンター     鮨屋の娘(2021.11) 奈良町にぎわいの家  四月怪談(2022.3)奈良市音声館


・十六歳(2022.8) 奈良市音声館



一番最近に観た見た「十六歳」については、同じ四作を観た私の連れ(妻)も「一番良かった」とのことでした。
もともと連れは、演劇よりも漫画にハマっている人種なのですが、昔から、暗く怖いもの・グロテスクなものは嫌っていて、例えば、戦争を扱ったものでは、漫画「はだしのゲン」とかアニメの「火垂るの墓」は戦争の悲惨さを描いて心に刺さる作品とはいえ、「自分はあまり好きではないし、子どもにも見せたいと思わない」とよく言ってました。そんな連れが、「十六歳」を好評価するのは何故なのか?…私ももっと知りたいところですが、そう感想をもらしていたのです…。

この劇は直接「戦争」や「戦場」を主舞台に展開するドラマではありません。それらを背景として境遇として育ち、今を必死に生きる若者と、他方で、同じ時代・同じ地球上でそれらのおかげで豊かさを享受する境遇に育った若者の、求めたわけでもない偶発的な出会いによって引き起こされたドラマ・・・しかし私には「希望のドラマ」だと感じることができたように思うのです。・・・連れにもそう思えたのでしょうか。
昨今、私たちはお茶の間に流れるニュースで、毎日のように現在進行形の「戦争」や「戦場」の映像を見せられています。でも、というかそれだからこそ余計に、時間の経過と共に、日々の生活に追われている私たちにとって、本来持っている映像のリアリティはかえって損なわれ、記号のように・フィクション映画の場面のようになっていることに気づかされ、愕然とします!・・・これは劇中でもイスラムの若者が観客に鋭く突き付けたことでしたよね。・・・熱演でした!

戦争による人々の悲惨さは当然ながら望むところではないし、ましてや自分が巻き込まれる事態は避けたい。・・・人間って有史以来、ずっと争いごとを繰り返してきたけど、でも「地球温暖化」や「新型コロナ・パンデミックの脅威」に直面して、ようやく人類が一致協力して地球規模・人類規模の課題解決に歩みだす時代が始まろうとしているのかも!・・・と希望を抱いていた矢先に「ロシアのウクライナ侵攻」という「歴史は逆行するのか!?」と多くの人が驚き嘆く事態が!そして半年以上を過ぎた今も解決の出口は見えない、どころか、一(いち)局地紛争にとどまらない、世界各国を二分する争いになりつつあり、また一つ間違えば核兵器で応報し合う事態を迎えるかもしれないというリアリティも。・・・こんな情報が飛び交う日々の中で、私も「残念ながら、結局人間って、自分たちを成長させることができないまま滅びる運命の生き物なのかも。」といつの間にか、そういうジャッジを人間社会に下す気分でした。・・・私自身の余生・余命はそんなに長くはないからある意味平気だけれど、その先を生きる子供たち、孫たち、子孫たちに希望を持てる未来は訪れないのかもしれない・・・と。

でも「十六歳」という劇では、どのような深い溝に隔てられていても、人は、きっとわかりあえるし、敬意を払ったり、愛し合うことができるんだ!そうしようよーという、シンプルで力強いメッセージが発せられているように私は受け止めました。あるいは、そう思わせてくれる舞台に「仕上がっていた」と感じたのです。
こうした想いに至ることができたのは、ドラマ世界に引きずり込んで、さらに展開を最後まで追わせてくれるドラマの設定や演出さらに演じる人の力が満足できるものであったのだと言わざるを得ません。すばらしい舞台でした。デイジー役をつとめた井原蓮水さんが中学生という若い人材であることも驚きで井原さんはもちろん、若い世代の活躍を今後に期待したくなりますし、一方プロの役者ではないとはいえ、これまでの数々の出演経験で多彩な役を演じ分けてこられたベテランの西村智恵さんには、(今どき風に言えば)「ずっと<推し>で!」と声援を送りたいです。

そして今後、さらに多くの人々が、小野小町先生のユニークな活動や、奇想天外・自由自在の小町座の舞台発表に出会えることを願って、一(いち)観客からのメッセージとさせていただきます。     早野照二

次回小町座公演 2022.8.27 「十六歳」

2022-07-07 | 演劇
2010年に上演した、小町座2人芝居「十六歳」を再演します。キャストは当時とは違い、小町座代表の西村智恵と、中学生の2人が「十六歳」を演じます。この戯曲の初稿は、2001年のアメリカの同時多発テロ事件が起きた時に書きました。当時は次男が一歳で、演劇の現場にもいなくて、かろうじて、短歌で書くことにつながっていました。怒りを書くことで鎮める…そんな感じでした。9年後、小町座で上演するとは、その時は思ってもなく、そしてこの度の再演…。
ウクライナにロシアが侵攻して、2/24、侵攻のニュースを聞いた日にこのブログで書いてから、まもなく五ヶ月に…。この「十六歳」は、この度の戦争のことではないですが、西村が演じる、戦いに身を置いていた若者の声が、何かしら、代弁してくれるのではと願っています。
そして、今回は、「十六歳」の前に、あの文豪トルストイの「イワンの馬鹿」を朗読します。文庫版の原作を脚本化したものを読みます。100年以上前、近代はまさに戦争の時代。帝国主義、領土拡張…現代の問題につながる、多くの戦争があった時代。それでも、ロシアの文豪は、自分の国の民話から、自らの思想である「非暴力主義」を訴えます。幼い頃、「馬鹿なんて言葉、言ったらだめなのに。」と思ったものですが、この「馬鹿」こそが、真実、王であることを理解するには、時間がかかりました。「馬鹿」に託したトルストイの矜恃、面白く楽しく朗読劇にできたらなと思います。
というわけで、この暑い夏を、熱い稽古で乗り切ろう!?と一同、励んでいます。今回も、素晴らしいスタッフが支えてくれます。
どうぞ、是非、ご覧ください。詳細は小町座フェイスブックへ。→https://www.facebook.com/komachiza

 イラスト…川田葉子(初演時のイラストを使用)





小町座公演「四月怪談」レポート

2022-05-07 | 演劇
3月26,27日に奈良市音声館で公演した、小町座令和編「四月怪談」(原作・大島弓子)から、もう1ヶ月半が過ぎようとしています。公演終わり、年度始めでバタバタして、ゆっくり振り返りもできず…。ようやく連休となり、写真の整理もできましたので、舞台写真をアップします。
今回、3回公演でしたが、若いメンバーが、初回、2回目、3回と、本番、回を重ねる度にパワーアップして、それが、如実に声と演技に現れ、とても驚いた次第です。初回と3回目を見たお客様が「彩りのある声になった方、台詞が私の頭にすっと入ってくる様になった方、一部台詞が変わった所とか。もう一度観たいです。」と感想をもらいました。また、50代の小町座メンバーは、まさに体力勝負!テンションを保つのに必死だったのではと思います。二回目と三回目は休憩は2時間半。体力も集中力も大変な中、最後、「演劇は爆発だ!」(岡本太郎の「芸術は…」をいただきました。)のような演技を見せてくれた全メンバーには、なんというか「愛」しかありません。書き上げたセリフが、精一杯の「声」になる…。本当に感謝です。また裏方スタッフの集中力も素晴らしかった。関わった全員、プロでないのですが、良いものを作る、良い結果を出すということに、集中していました。若手と壮年?!がベストの相乗効果でなかったと思います。また、毎回、「え?あり得ない!」というくらいの低予算で作るのですが、
主婦たちの「あるもので最大限のものを」が、まさに演劇の現場で活かされています。皆様、プロでなくても、地元で見応えのある芝居を作る劇団があることを、どうぞ、知ってください。近しい人たちが、舞台に上がることへ是非、応援ください。我が町の役者をどうぞ育ててくださいませ。
さて、小町座は楽しいばかりの芝居ではなく、深刻な芝居の時は、時折、お休み?!(Zzz…)になられる方もいるようですが、今回の公演はそれがなく!笑いと真剣なシーンのバランスが良かったようで、好評でした。コロナに振り回された稽古でしたので、無事全員揃い、またお客様も満員で、有り難いことでした。写真、ご覧ください。

 事故で亡くなった主人公、初子は幽霊の弦之丞に出会う。
 布団に横たわる自分…。
 近くに行っても、友達はもちろん、気づかない。
  好きな男の子の側に行こう!ところが、失恋…。
 生き返るよう説得する弦之丞に対抗するものたちが。
 初子の母は強く、弱く、悲しい…。
 弦之丞の手にするシャレコウベは実は…。
 もう生き返らないという初子だが…。
 花束を持って棺桶から目覚める初子。
 こちらとあちらをつなぐものたちの声…。