ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

前登志夫うた宇宙 より

2019-08-10 | 短歌
先日、お盆ということもあり、久し振りに短歌の師、前登志夫先生のお宅に伺い、仏前の先生と愛娘いつみさんに、手をあわせてきました。先生の家から見える山の風景、家までの景色…この暑さにも関わらず、その日は何とも淀みなくクリアな空気で、何もかもがはっきりと見え、「ああ、これがそう、当たり前の景色」とただ、ただ見ていました。奈良町にいると何もかもが近く、屋根に切り取られた空は小さいのです。こうした町の景色と違う山の見え方に、元いた場所に帰るような気持ちになったのかもしれません。
さて、2011年から、前登志夫を偲ぶイベントを、亡くなった4月に毎年開催しています。最初の年にホームページもたちあげ「前登志夫うた宇宙」として公開しています。その中に、歌人の喜夛隆子さんに今月の一首ということで、前先生の歌を紹介、解説していただいたコーナーがあります。短歌は難しい、と思っておられる方にもわかりやすく、しかも短い中に先生の歌のエッセンスが「ぎゅ!」と詰まっています。以下ホームページの「今月の一首」から。樹下山人と言われた、前登志夫の世界を身近にどうぞ。


八月の歌        喜夛隆子(歌人・ヤママユ) (執筆年は2011年夏)

せむすべのわれにあらじなビルマにて戦死せし兄みほとけなれば     『青童子』

 ああ、私にはどうするすべもない、戦死した兄はみ仏なのだから・・・・。作者のふかい嘆息が、しみじみと伝わってくる。暑い夏、今年もお盆が、八月十五日が巡ってくる。敗戦から六十六年目、東日本大震災の死者たちには初盆。かけがえのない大切な人を亡くした人々の悲しみや追慕の思いは、それぞれの胸にしまわれれて忘れ去られることはない。
 この一首は、戦後半世紀たった頃の、作者七十歳前後の作品である。兵役を経験した最後の世代である前は、戦地にゆかぬままに終戦をむかえた。吉野の旧家と林業を継ぐべき長男・兄が戦死したことは、両親にとっても弟である登志夫にとっても、大きな悲しみ悔しみであった。
 若い頃から晩年にいたるまで、兄や同世代の戦死者を悼む歌や、遺族の悲しみを想う歌を繰り返し詠んでいる。その中から,四十代と晩年の二首を引く。

 草深きビルマの月を消息(たより)せし兄よ死ねざるわがうつ太鼓   『縄文紀』

 生駒嶺のくらがり峠越えたりし同級生の多くかへらず       『大空の干瀬』