このブログには似つかわしくないと思いますが、昨日、実力派の若手俳優、三浦春馬さんの自死のニュースに驚いた一人として、少し記します。最近はきれいな若手男優が多く、個人的には名前も全く覚えられないのですが、三浦春馬さんは目をひき、いいなと思える俳優さんでした。顔が女性のようにも見え、実際、舞台ではドラッグクイーンも演じている(こちらはどちらかというと、男性的な肉体がかえって良いのですが)ので、八面六臂というほどの器用さは、これからとしても、年をとるのが楽しみな俳優さんだなと思っていました。俳優は「顔」が武器であるのは、このブログでグレタ・ガルボのことを以前書きましたが、なぜ、三浦春馬の顔を見てしまうのか、と言うと、「憂い」かなと思いました。そもそも、「憂い」を感じるような俳優さんがいないので、ひかれたのかもしれません。「憂い」はせつない、憂鬱、心配、悲しみ、とネガティブな意味ばかりですが、顔にみる憂いは、わかりやすい悲しみや悲哀でなく、なんというか、存在することへの悲哀といったような、やや哲学的で詩的な意味あいを感じるようにも思います。どんな顔をしても、どこか「憂い」があるといった類いのものでしょうか。つくづく、生きるということは、いつも何かを犠牲にしているわけで、食べること一つにしても、私たちは自然を「殺して」私たちの血と肉に変えています。そんなこと当たり前なのだけれど、「食べる」ことさえそうなのに、私たちは自然にだけでなく、同じ人間にも何かしら犠牲を強いるようなシーンが多々あります。人間関係のような生臭いものでなくても、そもそも「生きる」ということは、食欲初め、いろんな欲と業の中で生きるわけで、こういう言い方をするとなんだか宗教の領域のようですが、誰しもがおそらく劇的な暮らしでなくても、どこかで「生きる」ことの刹那と悲哀を感じた「顔」を持っているでしょう。自分では見えないけれど。そんな顔が作品となる、表象の一つに、優れた俳優の顔があるのだと私は思っています。だからこそ、三浦春馬の「顔」を見ていたのかもしれません。生きることの「憂い」を意識してかしないでか、けれど顔は何かしら、生きることのかなしみを語っている、そう、笑っている時でさえも。だから思わず見てしまうのです。加藤和彦が作曲した「悲しくてやりきれない」という名曲を劇のラストに使ったことがあります。この歌は、生きることの「悲しさ」と「愛しさ(かなしさ)」を普段の言葉で見事に歌っています。加藤和彦も自死しました。私たちは「悲しくてやりきれない」けれど生きている。けれど「憂い」を何ものかに感じる時、ふと、立ち止まり、何かしら大きな流れの中の「今」という地点にいる私について考える。自分自身を「はて?」と思い、この「かなしさ」は何かしらと考える…。そんな時に、詩歌や芸術が生まれるのかもしれません。三浦春馬さんの「憂い」を感じる顔がもう見られないこと、年をとった彼の芝居が見たかったこと、いろんな気持ちが巡ります。ただただ、ご冥福を祈るばかりです。