ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

新聞の一面に「戦後日本の安保転換」とあり

2022-12-17 | その他
本年、2/24のブログに、「戦争が始まった」と書いた。そして年末。昨日のテレビで総理が会見で語っていたのが、本日の新聞の見だしの言葉。
はっきりと「端的に申し上げれば、戦闘機やミサイルを購入するということだ。」と言われた。そして同時に「非核三原則や専守防衛の堅持、平和国家としての日本の歩みは今後とも不変」とも。さて、これをもし、子どもに説明するなら、どう言ったらよいのだろう。「ミサイルは買う。」けど「平和国家日本は不変」。この真逆の概念を両立させる「理屈」を作るのはとても難しい。難しすぎる理屈は誰も聞かない。考えるのも面倒だ。けれど、ミサイルは壊すもので、既にウクライナの戦場からは、そのミサイルがどんな効果をもたらすのか、私たちは目の当たりにしている。

日本国憲法
「第二章 戦争の放棄 第九条 ①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

本来ならば、ここに目をつぶったまま、本日の新聞の見だしのような文言にはならないのでは、と思っていたら、何のことはない、ここはすっとんでしまった。それは仕方ない。だって、この言葉が毎日、私たちの暮らしに見聞きするところには全くないから。私たちは、身近な言葉やメッセージで、なんとなく、世間の空気や流れを得てゆく。確かに、近隣諸国の動静は無視できないし、何をしているのよ、と腹もたつ。
一方で、私たちの国が法治国家だというなら、その大元にある言葉を文言を、無視していいはずがない。
少なくとも、「大変な国際情勢である」ことと、「日本は平和を希求し、戦力は保持しない。」という、二つの事実を、私たちが理解し、考え、発言し、それを伝える機会がなければ。それが、国民投票や選挙という形なのだろうが…。

とにかく、「閣議決定」で「戦後日本の安全保障」の大転換に関わることが決まる?ということに、驚いている。こんな大事なことが、あっという間に決まってしまう。この唐突感。いや、唐突ではないのだろう…。物語が複雑な伏線をひいて結果に導くように、この「大転換」を必然とする伏線を、長い間かけて作ってきたのだろう。そして、それを私たちが支持してきたとなる、というか、なっている。
「自分たちが選んだ人がきめている」のだから。

それでも、やっぱり、「ミサイル」は買わないでほしい。だって、戦争は始まったら終わり。それまでが勝負。ミサイル飛ばした時点で、もうどうなるのか、私たちは簡単に戦時体制に入ってしまう。そもそも、誰がミサイルを撃つのを決めるの?撃つと決める根拠は、いつ、誰が決めるの?
とまあ、平和な時には尋ねられても、戦時になったら、何とでもいえる。有事には言論の自由はない。ウクライナとロシアの言い分、その言葉を聞いて、戦時には、自分たちの都合の良いことしか、言わないということを、私たちはもう十分、知っている、それなのに…。

「私はこう思う」という、本当は一番大切なことが、主語が「国」になると、「私」の意見が全く否定されてしまう怖ろしさは、昭和のあの戦争で、文学やドラマ、映画で多々、伝えられてもきた。しかし、今「私」を主語に意見を言うことよりも、「なんとなく皆がいう方が」楽だし、否定されないし、という空気感がある。この空気をなんとうまく利用したものか、とこの度の「大転換」に思う。

戦争はおきたら終わり。国同士が「おまえの国が悪い」「こちらは悪くない。」メンツ、建前の世界で動く。両方とも、本当であり、嘘でもある。つまり、戦時にあって、言葉に真実はない。本当のことをいえない世界を、どうして支持できようか。
そして、その戦争の始まりとなるかもしれない「武器」を買うためにお金を出すのが国民の義務なんて言われたら…。

言葉をつくそう、もっと。日本の文化はリスペクトされていると思う。それは暮らしに身近な衣食住も含めて。だから、沢山の外国の方がやってきてくれる。観光立国は平和だからこそ。ミサイルでなく、花を、歌を。