ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

2枚の写真から 

2022-07-26 | その他
朝からゆっくり新聞を読む余裕もなく、日々のニュースはテレビやネットから知る生活…。朝刊夕刊はどんどんたまり…そして、時間ができた時、一気に読み、気になる記事や書評は切り取っておく…というようなことを続けているのですが。
先日、整理をしながら、何のつながりもない写真が、そのシルエットが、自分の中で混ざり…それは混沌として、憐れで、なのになぜか不思議な力があり、それは前にいくような、振り返るような、大きく飛ぶような、なんともいえない感覚と感情があらわれて…生きているような、既に死んでいるような、私は何を見ているのだろうという気持ちになりました。
一つは夕刊の文化欄の写真です。マリオ・ジャコメッリというイタリアの写真家のものでした。不覚にも私は、この写真家を知りませんでした。東京都写真美術館にあるその写真のタイトルは『自分の顔を撫でる手もない』から。モノクロの写真で、雪の上で輪になって踊る、イタリアの神学校の生徒たちを写したものです。神学校の服は、牧師が着るような黒い服ですから、当然、雪の上の輪舞は、白と黒の世界であり、その動きが白い風景に溶けるような様もあり…。なのに、「踊っている」のにどうしてこんなに「死」の気配がするのか…。高度に演出された舞台を見ているような。ただ、それは、若い頃、テレビで見て目を奪われた、ポーランドの偉大な演劇人、カントールの「死の演劇」とも違う…「死」の感覚なのです。
二つ目の写真は、奈良は西大寺駅前で起きた事件の写真で、もう既にあらゆるメディアの渦中の男性を、SPがかかえている写真です。斜めに体を倒し、足が不自然に曲がっています。
もしか、この二つの写真をそれぞれに別々に見ていたなら、私は、先に述べたような、不思議な感覚を持たなかったかもしれません。たまたま、まとめておいた新聞を整理していたら、この二つの写真の新聞が近くにあり、同じような時間に、同時に目にしただけのことなのです。
その同じ時間に見た、全くもって、何の関わりもない、この二つの写真に、どうしてこんなに胸をつかまれ、ざわざわと揺さぶられるのか…。これは「芸術」の力なのか?私たちは「芸術」という形のものから、「死」を学ぶことが多い。それは歌でも絵画でも写真でも。その「死」が「生」と表裏一体であることも、作品を読んだり見たりしていると、「なんとなく」わかる…。というか、時間をかけてわかるようになっていく…。「死」を孕んでいない芸術はおそらくないし、「死」があるからこそ、なにかしら作品を生もうとするのかもしれない…。そして「死」の近くには「詩」があって、先のイタリアの神学校の写真には、確かに「詩」があるのです。「死」と「詩」の在処を問うことは、私たちの身近にはなく、問う術となる「芸術」を話題にすることも、暮らしの中で日常的とはいえない。でも、作品から、なにかしら「死」と「詩」を感じられたなら…それは、明確な言葉に出来なくても、いや…逆に、生きていけるかも、と思えるような気がしてならないのです。
報道写真の渦中の人となってしまった彼の写真を見るたび、この行為に到るまでに、言葉、歌、絵、もろもろ…こういったものが彼の中でどこかで何か意味を持つようなシーンがなかったのか、と、そんなことばかり思ってしまいます。芸術は、余裕がある人たちだけがやっていること、と言われても仕方ない現実…。私たちのしていることは何の役にもたたないのか…。
いえ…それでも、芸術が大事と思うのは、私がこの何のつながりもない2枚の写真が並んだ時に感じたものが、あってはならないこの度の事件を,少なくとも考え続ける始まりになる、ということです。
神学校の生徒の輪舞と事件の彼の硬直した体軀のシルエット…。
そして、前者の写真、ジャコメッリの写真のタイトルは『自分の顔を撫でる手もない』というのです。
このタイトルが、報道写真に重なる時、何かしら大きな大きな渦がおきて、答えを持ってきてくれるようなそんな気持ちになるのはなぜでしょう。
そしてこの関係ない二つの写真が自分の中で一つになってセリフになります。
「踊ろうか」
「踊りながら死んでいるね」
「死んでから踊る?」
「いや、誰か止めてくれたなら…」
「そうだね。でもやっぱり踊ろうか。」

…傷ついた人たちが皆、少しずつ落ち着いていけますように。
一方で、私の中におこった二つの写真のさざ波は、落ち着かなくて…いつか大きな波になって戯曲になれば…。


朝日新聞夕刊7/12




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