子どもの頃から、テレビで映画の放映のおかげで、いろんなことを知ったり感じたり。それが今でも続いています。といっても、この頃は何気にテレビをつけているだけで、これを見ようということもないのですが。中学生の時の教育テレビのレトロ映画特集にはまり、「天井桟敷の人々」「椿姫」「モロッコ」「ミモザ館」「うたかたの恋」「カサブランカ」などなど…。まさに、ガルボ、デートリッヒ、イングリット・バーグマンなど、「銀幕の大スタア」たちにため息をついていました。
さて、そんなレトロ映画の世界とは全く違うのですが、テレビで「東京リベンジャーズ」という映画をしていました。昨年公開され、動員数が一位の映画。全く知らなかったわけではないのです。昨年、テレビでも紙媒体でも派手な宣伝がされ、しかも、ちょっと昔のヤンキーの抗争ドラマか?と、キャストの風貌を見てすぐわかるのですが、その見た目から、「こんな映画が一位でそんなに見られてるの?」と、こちらには全然関係ない世界でした。ただ、キャストは今一番のっている若い役者たちで、主役の北村匠海はいい役者だな、と他のドラマを見て思っていたので、なんとなく、そのままテレビをつけて見ていました。
そしたら。
面白かったのです。元々、原作は少年マガジンの漫画で、その実写なので、何もかもオーバーで、対立する不良グループのケンカなんか、エンタメとしては面白いけど、いやいや、それはあり得ないとか…。だって主人公の「タケミチ」はずっと殴られ続けているけど、こんな殴られ方ではとっくに死んでますよ…とか、思わず母親目線で見たりしてましたが。良かった理由は以下の三点かと思いました。
①登場人物の「気持ち」がよくわかり、「何かをする」時の動機には、その「気持ち」がはっきりとある。
主人公はヤンキーなんですが、全く強くなく、ケンカをすればボコボコにされるし、立ち向かう勇気もない。ところが、この弱い彼には素敵な恋人、ヒナタがいる。なれそめは、コンビニでバイトしていた、ヒナタが、レジで、強面のお兄さんに絡まれていたところを助けたから。ところが、この助け方が、秀逸!で、相手に立ち向かっていくのでなく、文句を言っているのに、相手に直接言うのでなく、自分に返ってくるといった、非常に高度な、まるで一人芝居のような「立ち向かい方」をするのです。そして、強面の兄ちゃんは「こいつ頭が変…」と怖がって逃げていくのですが。私はこのシーンに妙に感動しました。彼女を助けるために、何かしなければならなくて、その必死で立ち向かった結果が、直接的なケンカという方法でなく、自分がのたうち回るところを見せた、というところ。
この主人公の姿勢は、ドラマの中でずっと一貫していて、絶えず、のたうち回っています。それも、毎回ボコボコにされて。けれども、それが全て、恋人ヒナタを守ることにつながるなら、なんとか、なんとかしなければならない、とずっとあがいて強くなっていくドラマなのです。
現代において、周りばかりを気にして、空気を読むことを、言われなくても自分に強いてしまう人、若者も多いでしょう。私もそうです。そんな弱さを本当はみんな、自覚している。自覚しているけど、「勇気」がない…。それは、主人公のように、「ボコボコ」にされることが怖いから。
ところが、不良の世界では、この「ボコボコ」されながらもいかに、立ち向かっていくか、というところに、存在意義がある、といった価値感があり(このあたりが妙に昔気質で面白い)の不良グループなので、主人公はその総長(吉沢亮)に認められ「ダチ」友達になるわけです。
自分がボコボコにされても、曲げられない何かがあるなら、殴られても動け!と,見ているこちらに聞いてきます。
これは、「何かを守るためには犠牲にならなければ」という文脈にすぐなってしまう危険もありますが、この映画はそうでなかった。
自分の勇気が、愛する人を生かし、自分も生きることになる。「生きる」ということは「ボコボコ」になること、けれど、その姿を見てくれる人や、愛する人がいれば、乗り越えられるということ。単純なことなんですが、ここがストレートで胸をうつのです。要は、隠したり、取り繕ったりしない本音がドラマを作っていて、セリフに力がありました。
②ファンタジーであるということ。
このドラマの冒頭は現在で、主人公はフリーターをしながら、何も楽しみもなく、バイト先でも蔑まれ、口からは「すみません」としか言えない、生きることを捨てているような、若者。ところがテレビでかつての恋人、ヒナタが殺されたとニュースがあり、そこからドラマが始まります。構造的には過去に戻って、昔の自分が、現在の運命を変えれば、恋人ヒナタが死なないのだから、そんな未来を作るために、過去の自分が動くのです。未来につながる伏線や出来事が沢山あり、そこに敢えて、火中の栗を拾うように、事件の渦中に主人公は入っていきます。こんな段取りで、過去と現在を行ったりきたりして、ご都合主義とはいえますが、それがあまり気にならなかったのは、主人公の必死さと、向き合う相手との気持ちのやりとりが、とてもリアルだから。ファンタジーという枠ならではの、誰もが思う「あの時、あの選択をしていたら、今は違っていたかも…」といった感覚に、アピールしたと思います。ほんと、あの時、自分がこうだったら…誰もが思い当たりますよね。その「後悔」に主人公はリベンジしていきます。なのでこの「リベンジ」というのは、他者でなく、弱かった自分への「リベンジ」なのです。
③肉体がぶつかるということ。
私の中高生時代は、ドラマ「金八先生」の「腐ったみかん」で有名な頃で、田舎育ちの私の学校にはなかったですが、学校のガラスが割られ、廊下をバイクが走り…といった話をよく聞きました。していることはハチャメチャで良くはないですが、自分の「体」はつながっています。映画の中でのケンカのシーンは、もちろん、エンタメなんですけど、「殴られた痛い」「傷つけ傷つけられたら痛い」実感は伝わってきます。ケンカを肯定するつもりは全くない、けれど、一方、体の感じる痛み、ひいては心が感じる痛みを、私たちは、触感的に、既に遠いところに置いているような気になります。何もかもがバーチャルで、自分に痛みが届かない匿名の世界で生きている私たち。そんな中、映画の人物は、名前も体も一番前に置いて、ケンカをします。良くはない、が、ケンカする肉体の「痛み」を、私はとっくに忘れているようで、ずっと見ていました。「後の祭り」と言う言葉はよくない意味ですが、それも含めて「祭り」のようにケンカシーンを見ていました。
私たちは「体」で「五感」で痛みを感じる…。痛みをわかるところに自分の「肉体」を置きたいな…そんなことを感じながら、若者たちのケンカ、祭りであり、戯れであり、爆発であり…を見ていました。
万が一、その爆発が間違っていても、それが後に何かを得たとなれるように、周りの大人たちに度胸がすわっていればよいのですが、私など、何か起きないように予防線をはってばかり…。
以上、「東京リベンジャーズ」面白く見ました。
昔の高倉健の任侠映画に若者が熱狂した感覚とは違っても、それでも何かしら重なるものも感じます。
健さんは強くて虚無的だった。令和のヒーローは弱くてずっこけながら、人をいっぱい愛しています。
追記…映画の始めの方で、主人公タケミチのバイト先の店長が出てきます。嫌な役柄でタケミチにひどいことを言いますが、この店長、ものすごく印象に残る…。誰?見たことない…。スタッフさん?いやぁ、目がいきました。
さて、そんなレトロ映画の世界とは全く違うのですが、テレビで「東京リベンジャーズ」という映画をしていました。昨年公開され、動員数が一位の映画。全く知らなかったわけではないのです。昨年、テレビでも紙媒体でも派手な宣伝がされ、しかも、ちょっと昔のヤンキーの抗争ドラマか?と、キャストの風貌を見てすぐわかるのですが、その見た目から、「こんな映画が一位でそんなに見られてるの?」と、こちらには全然関係ない世界でした。ただ、キャストは今一番のっている若い役者たちで、主役の北村匠海はいい役者だな、と他のドラマを見て思っていたので、なんとなく、そのままテレビをつけて見ていました。
そしたら。
面白かったのです。元々、原作は少年マガジンの漫画で、その実写なので、何もかもオーバーで、対立する不良グループのケンカなんか、エンタメとしては面白いけど、いやいや、それはあり得ないとか…。だって主人公の「タケミチ」はずっと殴られ続けているけど、こんな殴られ方ではとっくに死んでますよ…とか、思わず母親目線で見たりしてましたが。良かった理由は以下の三点かと思いました。
①登場人物の「気持ち」がよくわかり、「何かをする」時の動機には、その「気持ち」がはっきりとある。
主人公はヤンキーなんですが、全く強くなく、ケンカをすればボコボコにされるし、立ち向かう勇気もない。ところが、この弱い彼には素敵な恋人、ヒナタがいる。なれそめは、コンビニでバイトしていた、ヒナタが、レジで、強面のお兄さんに絡まれていたところを助けたから。ところが、この助け方が、秀逸!で、相手に立ち向かっていくのでなく、文句を言っているのに、相手に直接言うのでなく、自分に返ってくるといった、非常に高度な、まるで一人芝居のような「立ち向かい方」をするのです。そして、強面の兄ちゃんは「こいつ頭が変…」と怖がって逃げていくのですが。私はこのシーンに妙に感動しました。彼女を助けるために、何かしなければならなくて、その必死で立ち向かった結果が、直接的なケンカという方法でなく、自分がのたうち回るところを見せた、というところ。
この主人公の姿勢は、ドラマの中でずっと一貫していて、絶えず、のたうち回っています。それも、毎回ボコボコにされて。けれども、それが全て、恋人ヒナタを守ることにつながるなら、なんとか、なんとかしなければならない、とずっとあがいて強くなっていくドラマなのです。
現代において、周りばかりを気にして、空気を読むことを、言われなくても自分に強いてしまう人、若者も多いでしょう。私もそうです。そんな弱さを本当はみんな、自覚している。自覚しているけど、「勇気」がない…。それは、主人公のように、「ボコボコ」にされることが怖いから。
ところが、不良の世界では、この「ボコボコ」されながらもいかに、立ち向かっていくか、というところに、存在意義がある、といった価値感があり(このあたりが妙に昔気質で面白い)の不良グループなので、主人公はその総長(吉沢亮)に認められ「ダチ」友達になるわけです。
自分がボコボコにされても、曲げられない何かがあるなら、殴られても動け!と,見ているこちらに聞いてきます。
これは、「何かを守るためには犠牲にならなければ」という文脈にすぐなってしまう危険もありますが、この映画はそうでなかった。
自分の勇気が、愛する人を生かし、自分も生きることになる。「生きる」ということは「ボコボコ」になること、けれど、その姿を見てくれる人や、愛する人がいれば、乗り越えられるということ。単純なことなんですが、ここがストレートで胸をうつのです。要は、隠したり、取り繕ったりしない本音がドラマを作っていて、セリフに力がありました。
②ファンタジーであるということ。
このドラマの冒頭は現在で、主人公はフリーターをしながら、何も楽しみもなく、バイト先でも蔑まれ、口からは「すみません」としか言えない、生きることを捨てているような、若者。ところがテレビでかつての恋人、ヒナタが殺されたとニュースがあり、そこからドラマが始まります。構造的には過去に戻って、昔の自分が、現在の運命を変えれば、恋人ヒナタが死なないのだから、そんな未来を作るために、過去の自分が動くのです。未来につながる伏線や出来事が沢山あり、そこに敢えて、火中の栗を拾うように、事件の渦中に主人公は入っていきます。こんな段取りで、過去と現在を行ったりきたりして、ご都合主義とはいえますが、それがあまり気にならなかったのは、主人公の必死さと、向き合う相手との気持ちのやりとりが、とてもリアルだから。ファンタジーという枠ならではの、誰もが思う「あの時、あの選択をしていたら、今は違っていたかも…」といった感覚に、アピールしたと思います。ほんと、あの時、自分がこうだったら…誰もが思い当たりますよね。その「後悔」に主人公はリベンジしていきます。なのでこの「リベンジ」というのは、他者でなく、弱かった自分への「リベンジ」なのです。
③肉体がぶつかるということ。
私の中高生時代は、ドラマ「金八先生」の「腐ったみかん」で有名な頃で、田舎育ちの私の学校にはなかったですが、学校のガラスが割られ、廊下をバイクが走り…といった話をよく聞きました。していることはハチャメチャで良くはないですが、自分の「体」はつながっています。映画の中でのケンカのシーンは、もちろん、エンタメなんですけど、「殴られた痛い」「傷つけ傷つけられたら痛い」実感は伝わってきます。ケンカを肯定するつもりは全くない、けれど、一方、体の感じる痛み、ひいては心が感じる痛みを、私たちは、触感的に、既に遠いところに置いているような気になります。何もかもがバーチャルで、自分に痛みが届かない匿名の世界で生きている私たち。そんな中、映画の人物は、名前も体も一番前に置いて、ケンカをします。良くはない、が、ケンカする肉体の「痛み」を、私はとっくに忘れているようで、ずっと見ていました。「後の祭り」と言う言葉はよくない意味ですが、それも含めて「祭り」のようにケンカシーンを見ていました。
私たちは「体」で「五感」で痛みを感じる…。痛みをわかるところに自分の「肉体」を置きたいな…そんなことを感じながら、若者たちのケンカ、祭りであり、戯れであり、爆発であり…を見ていました。
万が一、その爆発が間違っていても、それが後に何かを得たとなれるように、周りの大人たちに度胸がすわっていればよいのですが、私など、何か起きないように予防線をはってばかり…。
以上、「東京リベンジャーズ」面白く見ました。
昔の高倉健の任侠映画に若者が熱狂した感覚とは違っても、それでも何かしら重なるものも感じます。
健さんは強くて虚無的だった。令和のヒーローは弱くてずっこけながら、人をいっぱい愛しています。
追記…映画の始めの方で、主人公タケミチのバイト先の店長が出てきます。嫌な役柄でタケミチにひどいことを言いますが、この店長、ものすごく印象に残る…。誰?見たことない…。スタッフさん?いやぁ、目がいきました。