フェデラーが「手本」にするスポーツ選手とは? 名前を挙げた「5人の偉人」 | THE ANSWER スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト
仲が良いと言っていたタイガー・ウッズの名前がないのはビジネス上の「忖度」が働いたからかどうかはさておき(まあネタ元の伊マスコミの信頼性さえ完全とは言えなさそうなので深くは突っ込まないが)、ちょっとマニアックで記憶のいい人なら、ローレウス世界スポーツ賞がらみのインタビュー等で既にフェデラーが挙げていた名前が中心になっているようだ。では何故フェデラーが彼らに注目するのだろうか?について、フェデラーの発言を徹底的に探す力仕事もいいが、「彼ら」が成し遂げた「記録された偉業」以外の、プロのスポーツ選手としての、他のビッグネームとの違い、その「特性」にちょっとフォーカスしてみたい。
ウサイン・ボルト、マイケル・ジョーダン、レブロン・ジェームズ、バレンティーノ・ロッシ、ミハエル・シューマッハ
正直なところ、ボルトについてはわからないところがあるのだが、他の4人の職業アスリートとしてのアプローチについて知られている共通点は、
1.自分がトップになることに対して持ち続けるあくなき貪欲さ
2.それでも独りでは「王朝」を築けないことをよく知っている
である。
「トップ」へのあくなき渇望
所謂ストイック(決意と献身の強さ)さはもう「常識」として皆備えているのだが、例えばジョーダンは(チームスポーツであるのだが)徹底的に自分がナンバーワン選手であることにこだわった。例えば、パーソナルトレーナーを雇って成果を出しても、その存在や恩恵をシェアするようになるのは、チームメイトを含め他のプレイヤーに十分な差をつけたと認識してからだったという。また、「個人」スポーツのトップであるロッシとシューマッハが見せる、年間チャンピオン獲得への執念はモータースポーツファンの間でも有名で、レーストラック内外で色々な逸話がある。ロッシに至ってはそんな自分の傾向を、ヘルメットに太陽と月のイラストを入れて茶化すことさえしている(これが彼の知性の高さも示しているのだが)。そして皆、視野を広く持ち、自分の能力を高める方法を貪欲に探し続け、いいものは偏見なくしっかり採り入れる柔軟さを備えている。だから、そんな意味でも「革新者」と呼ばれることが多い。そういうことができるのは、猛烈な闘争心とともに、自分を客観視できる冷静さも持っているからだろう。ジョーダンは、引退してからバイクのサーキットライディングスクールを受講したことがある。速く走りたい気持ちばかり先行してよく転んだらしいが、何故自分が失敗するのかを冷静に分析し、学習した。そしてさらにそのプロセスをインタビューできちんと説明することができた。コート上での見た目とはちょっと違う一面?である。(このとても興味深い記事は以前AMAのサイトに掲載されていたが、残念ながら見つからなくなってしまった。)そしてそんな彼らだから、史上最高のオールラウンドプレイヤーと呼ばれるレブロン含め、チームメイトや現場のスタッフに対する要求もかなり厳しいことが知られている。
「王朝」は優れた「体制」があってこそ
良いサポートスタッフやチームメイトがいなければ、勝ち続けることは不可能。チームスポーツでは勿論常識であり、最近のNBAでは、選手が他のチームで欲しい選手を個人的に勧誘してトレードの道筋をつけることさえやっているそうだ。
これを個人スポーツに持ち込んだ例として、僕が最初に思い出すのは、マルチナ・「バイオニック・ウーマン」・ナブラチロワだ。1980年代、彼女は専門家を集めてチームを結成し、食事やトレーニングについて徹底的な見直しを行った。結果はあきれるほどの勝率と、未だ記録的なキャリアの長さ(しかもビッグタイトルを獲っている)である。興味深いのは、彼女は素晴らしい運動能力を手に入れたが、あくまでそれはボールタッチ等恵まれたテニスセンスを活かすためであって、単にボールを強くヒットするため、速く走るため、持久力をあげるため、ではなかった。だから、彼女のプレイはスピードもあるが、とても美しく、エキサイティングである(今の女子テニスからはとんと消えてしまった要素だ…)。
さて、「自己の能力向上以外」にフォーカスして実績を挙げた顕著な例が、まずシューマッハだろう。ロス・ブラウンやロリー・バーンなど、トップクラスの人材を決して離さなかった。シューマッハが勝つための要素を緻密に分析し、揃えて成功し続けたわけだ(だから彼が勝てない要素は極力排除する…)。
そして次の世代になるロッシはさらにその先を行った。自分が勝つだけでなく、所属する競技ビジネス自体を革新し、拡大したのだ。乱暴に言えばシューマッハは、自分が勝てば(そして儲かれば)それでOKだった。一方、ロッシが居る世界GP(現在のMotoGP)は、1980年以降、暴力的なまでのマシン性能と、強烈な能力と闘争心を持ったトップライダー達によって、傍目から見ても真剣な競技になり過ぎてしまった。1990年代中盤までにそれが極限まできてしまい、特に最大排気量クラスは、(身も心も本当に燃え尽きてライバル達が去った後でひとり生き残り)連覇を続ける絶対王者とその他、の構図が定着してしまい、世界的スポーツ興行を上手く扱えない日本からの参加企業達の抱える問題もあって、寂しい状況になってしまっていた。
そんなところに登場したロッシは、頭脳的なレース運びとともに、サーキットに「華やかさ」と「楽しさ」を持ち込んだ。長身の美少年が、表彰台にロビンフッドやスーパーマンの仮装、はてはチーフメカニックの禿頭そっくりに頭を剃って登場。先輩ライダーとの不仲が話題になれば、それをからかうために、バイクの後ろにダッチワイフを乗せてウィニングラップを行った。誤解から生じた「インタビュー企画」でイタリアのTV局を素人芝居で騙す爆笑物のエピソード等々…驚くべきは、これらの「プロモーション(悪ふざけ)」を、ビジョナリーであるロッシが、従来のプロモーション会社ではなく、ロッシの地元の悪友達と次々に考案して実行していったことである。こうしてロッシは(優秀なスタッフを抱えた)バイクレースのトップ選手というだけでなく、バイクレースのアンバサダーであり、強力なPR機能そのもの、世界的なスポーツアイコンになった。
(金持ち程さらに金回りがよくなる中で、圧倒的にスポーツビジネスが進化している米国では、選手のプロデュースシステムも効率化しており、様々な「リソース」の調達もしやすいようだが、)とにかく今の時代、単に個人的な競技力がずば抜けているだけでは十分ではない。何が人をトップたらしめているかをしっかり認識し、自分自身で仕組み自体をプロデュースする意志と実行力が不可欠なのだ。でないと、同じ競技のライバルや他の娯楽分野に、成績もファンも(お金も)あっという間に奪われてしまう。プロの世界において、日本で言う「XX職人」「その道しか知らないXXバカ」は、他人がこしらえた神輿の上にふんぞりかえる甘ったれである。
フェデラーは、対戦相手の偵察や情報収集を熱心に行うのと同様、こんな他ジャンルのトップ達をよく観察していたのだろう。だからフェデラーもとても「抜け目ない」。自分の会社で管理するブランディングおよびブランドライセンスビジネスはもちろん、本業でもトレーナーのフィットネスコーチのピエール・パガニーニと「付き人」セヴェリン・ルティは長い間不動の存在だ。興味深いのは、長い間のライバルであるナダルは、同じような体制を、地元のマヨルカ島で、一族郎党を中心に構成していることだ。というより、まず一族があって、その実行部門であり、最大のスターがラファエル・ナダルなのだ。
さて、殆ど言及しなかったウサイン・ボルトの「魅力」とは、フェデラーにとってなんなのだろう?多分、常識ではネガティブとされていた要素をポジティブな要素にひっくり返して大偉業を達成したことではないかと思う。短距離走には不向きと思われていた2m近いサイズ、脊椎側弯症と、「ミスターパーフェクト」にとってはとても興味深い事例なのだと思う。そして、現代のスポーツビジネスずれしていないそのキャラクター。やや息苦しくなっている現在のプロテニス界にいると、余計新鮮に見えるのかも知れない。
仲が良いと言っていたタイガー・ウッズの名前がないのはビジネス上の「忖度」が働いたからかどうかはさておき(まあネタ元の伊マスコミの信頼性さえ完全とは言えなさそうなので深くは突っ込まないが)、ちょっとマニアックで記憶のいい人なら、ローレウス世界スポーツ賞がらみのインタビュー等で既にフェデラーが挙げていた名前が中心になっているようだ。では何故フェデラーが彼らに注目するのだろうか?について、フェデラーの発言を徹底的に探す力仕事もいいが、「彼ら」が成し遂げた「記録された偉業」以外の、プロのスポーツ選手としての、他のビッグネームとの違い、その「特性」にちょっとフォーカスしてみたい。
ウサイン・ボルト、マイケル・ジョーダン、レブロン・ジェームズ、バレンティーノ・ロッシ、ミハエル・シューマッハ
正直なところ、ボルトについてはわからないところがあるのだが、他の4人の職業アスリートとしてのアプローチについて知られている共通点は、
1.自分がトップになることに対して持ち続けるあくなき貪欲さ
2.それでも独りでは「王朝」を築けないことをよく知っている
である。
「トップ」へのあくなき渇望
所謂ストイック(決意と献身の強さ)さはもう「常識」として皆備えているのだが、例えばジョーダンは(チームスポーツであるのだが)徹底的に自分がナンバーワン選手であることにこだわった。例えば、パーソナルトレーナーを雇って成果を出しても、その存在や恩恵をシェアするようになるのは、チームメイトを含め他のプレイヤーに十分な差をつけたと認識してからだったという。また、「個人」スポーツのトップであるロッシとシューマッハが見せる、年間チャンピオン獲得への執念はモータースポーツファンの間でも有名で、レーストラック内外で色々な逸話がある。ロッシに至ってはそんな自分の傾向を、ヘルメットに太陽と月のイラストを入れて茶化すことさえしている(これが彼の知性の高さも示しているのだが)。そして皆、視野を広く持ち、自分の能力を高める方法を貪欲に探し続け、いいものは偏見なくしっかり採り入れる柔軟さを備えている。だから、そんな意味でも「革新者」と呼ばれることが多い。そういうことができるのは、猛烈な闘争心とともに、自分を客観視できる冷静さも持っているからだろう。ジョーダンは、引退してからバイクのサーキットライディングスクールを受講したことがある。速く走りたい気持ちばかり先行してよく転んだらしいが、何故自分が失敗するのかを冷静に分析し、学習した。そしてさらにそのプロセスをインタビューできちんと説明することができた。コート上での見た目とはちょっと違う一面?である。(このとても興味深い記事は以前AMAのサイトに掲載されていたが、残念ながら見つからなくなってしまった。)そしてそんな彼らだから、史上最高のオールラウンドプレイヤーと呼ばれるレブロン含め、チームメイトや現場のスタッフに対する要求もかなり厳しいことが知られている。
「王朝」は優れた「体制」があってこそ
良いサポートスタッフやチームメイトがいなければ、勝ち続けることは不可能。チームスポーツでは勿論常識であり、最近のNBAでは、選手が他のチームで欲しい選手を個人的に勧誘してトレードの道筋をつけることさえやっているそうだ。
これを個人スポーツに持ち込んだ例として、僕が最初に思い出すのは、マルチナ・「バイオニック・ウーマン」・ナブラチロワだ。1980年代、彼女は専門家を集めてチームを結成し、食事やトレーニングについて徹底的な見直しを行った。結果はあきれるほどの勝率と、未だ記録的なキャリアの長さ(しかもビッグタイトルを獲っている)である。興味深いのは、彼女は素晴らしい運動能力を手に入れたが、あくまでそれはボールタッチ等恵まれたテニスセンスを活かすためであって、単にボールを強くヒットするため、速く走るため、持久力をあげるため、ではなかった。だから、彼女のプレイはスピードもあるが、とても美しく、エキサイティングである(今の女子テニスからはとんと消えてしまった要素だ…)。
さて、「自己の能力向上以外」にフォーカスして実績を挙げた顕著な例が、まずシューマッハだろう。ロス・ブラウンやロリー・バーンなど、トップクラスの人材を決して離さなかった。シューマッハが勝つための要素を緻密に分析し、揃えて成功し続けたわけだ(だから彼が勝てない要素は極力排除する…)。
そして次の世代になるロッシはさらにその先を行った。自分が勝つだけでなく、所属する競技ビジネス自体を革新し、拡大したのだ。乱暴に言えばシューマッハは、自分が勝てば(そして儲かれば)それでOKだった。一方、ロッシが居る世界GP(現在のMotoGP)は、1980年以降、暴力的なまでのマシン性能と、強烈な能力と闘争心を持ったトップライダー達によって、傍目から見ても真剣な競技になり過ぎてしまった。1990年代中盤までにそれが極限まできてしまい、特に最大排気量クラスは、(身も心も本当に燃え尽きてライバル達が去った後でひとり生き残り)連覇を続ける絶対王者とその他、の構図が定着してしまい、世界的スポーツ興行を上手く扱えない日本からの参加企業達の抱える問題もあって、寂しい状況になってしまっていた。
そんなところに登場したロッシは、頭脳的なレース運びとともに、サーキットに「華やかさ」と「楽しさ」を持ち込んだ。長身の美少年が、表彰台にロビンフッドやスーパーマンの仮装、はてはチーフメカニックの禿頭そっくりに頭を剃って登場。先輩ライダーとの不仲が話題になれば、それをからかうために、バイクの後ろにダッチワイフを乗せてウィニングラップを行った。誤解から生じた「インタビュー企画」でイタリアのTV局を素人芝居で騙す爆笑物のエピソード等々…驚くべきは、これらの「プロモーション(悪ふざけ)」を、ビジョナリーであるロッシが、従来のプロモーション会社ではなく、ロッシの地元の悪友達と次々に考案して実行していったことである。こうしてロッシは(優秀なスタッフを抱えた)バイクレースのトップ選手というだけでなく、バイクレースのアンバサダーであり、強力なPR機能そのもの、世界的なスポーツアイコンになった。
(金持ち程さらに金回りがよくなる中で、圧倒的にスポーツビジネスが進化している米国では、選手のプロデュースシステムも効率化しており、様々な「リソース」の調達もしやすいようだが、)とにかく今の時代、単に個人的な競技力がずば抜けているだけでは十分ではない。何が人をトップたらしめているかをしっかり認識し、自分自身で仕組み自体をプロデュースする意志と実行力が不可欠なのだ。でないと、同じ競技のライバルや他の娯楽分野に、成績もファンも(お金も)あっという間に奪われてしまう。プロの世界において、日本で言う「XX職人」「その道しか知らないXXバカ」は、他人がこしらえた神輿の上にふんぞりかえる甘ったれである。
フェデラーは、対戦相手の偵察や情報収集を熱心に行うのと同様、こんな他ジャンルのトップ達をよく観察していたのだろう。だからフェデラーもとても「抜け目ない」。自分の会社で管理するブランディングおよびブランドライセンスビジネスはもちろん、本業でもトレーナーのフィットネスコーチのピエール・パガニーニと「付き人」セヴェリン・ルティは長い間不動の存在だ。興味深いのは、長い間のライバルであるナダルは、同じような体制を、地元のマヨルカ島で、一族郎党を中心に構成していることだ。というより、まず一族があって、その実行部門であり、最大のスターがラファエル・ナダルなのだ。
さて、殆ど言及しなかったウサイン・ボルトの「魅力」とは、フェデラーにとってなんなのだろう?多分、常識ではネガティブとされていた要素をポジティブな要素にひっくり返して大偉業を達成したことではないかと思う。短距離走には不向きと思われていた2m近いサイズ、脊椎側弯症と、「ミスターパーフェクト」にとってはとても興味深い事例なのだと思う。そして、現代のスポーツビジネスずれしていないそのキャラクター。やや息苦しくなっている現在のプロテニス界にいると、余計新鮮に見えるのかも知れない。
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