昨晩2月12日のテレビ・日テレ系「くりぃむしちゅーの歴史新発見 織田信長59通の手紙」は面白かった。信長の居城岐阜城を岐阜市の反対側から毎日眺める位置に住する私は見逃すわけにはいかない番組だった。
7時~9時の2時間スペシャルでNHKのニュースにつづきクローズ現代が面白くなかったのでチャンネルを切り替えて、30分ほど遅れで信長の手紙を見た。
くりぃむしちゅーとは、上田晋也と有田哲平の2人からなる日本のお笑いコンビ。それに熊本出身の倉科カナがドラマ仕立てで歴史の新発見をリポートした。
“1964年に肥後細川家の蔵で発見、2009年に熊本大が解読した織田信長の手紙から見えてきた新たな謎に迫る。見つかったのは細川藤孝(幽斎)の子息、忠興に宛てられた信長の直筆の感謝状を含む59通。
そこからは信長の意外な心遣いが浮かび上がる。さらに本能寺の変の直前まで明智光秀に信頼を寄せていたと読める文面もあり通説が履る可能性も出てきた。“(毎日:視聴室)
手紙は忠興宛てばかりではなく、藤孝宛てもあった。信長は光秀を袖にしたのを恨んで本能寺の変が起きたのが通説だった。
ネットで検索すると番組にも映された永青文庫では重文指定されたこの手紙を記念展示している。
折から読んでいた梅原猛著「親鸞四つの謎を解く」の第2の謎「法然門下に入った謎について」の章、親鸞はわずか9歳で比叡山屈指の傑僧であった慈円の元に入門したが、その慈円とはどういう人であったか梅原先生は詳しく解説されている。
その文中に細川幽斎の(1534~1610)の書いた慈円の歌の感想文が紹介されていた。
慈円の歌は百人一首に収められている和歌で
「おほけなく 浮世の民に おほうかな わがたつ杣(そま)に 黒染の袖」
(身のほどもわきまえずに思うことは、憂い多きこの世の民を救いたいと願うことです。比叡山に仕えるこの私の墨染めの袖で)
梅原先生は幽斎の八代集抄の一部を紹介し、幽斎はこの慈円の歌にいたく感心したことを述べておられた。