たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

青麦

2015年04月08日 | 日記

時ならぬ桜寒波がやってきた。今日は午後から晴れました。
今日はわが家の末孫の高校入学式だった。母親が参加した。爺さんは歳取って場違いであるのと、病気の後遺症で激ヤセしみっともないので欠席した。夕方孫が下校したので入学祝を5千円やりました。年金が減らされて厚生年金と国民年金を合わせても、税金を天引きされると淋しい金額しか貰えないので。 

今日は天皇、皇后両陛下がパラオ共和国へ戦没者慰霊のため訪問された。終戦になって在所の母方の本家の、従兄に当たる長男が戦争から帰還した。彼は幸運にも生きて帰還でき、ある日、家の斜め前の通りを軍隊マントを羽織って一人歩いて村に入った。その姿を認めた私の母が「よう帰って来られたな。ご苦労やった。どこへ行っていたかや」と問いかけると、従兄は「パラオ」と笑顔で答えたのを鮮明に覚えている。私は小学校2年生だったはずだ。

この従兄は、貧しい我が家の代掻きなど馬を飼っていたので、何かと力になってくれた。その従兄も10年ほど前88歳の祝いの前日、弟と前祝で宿泊した奥飛騨温泉の宿の浴槽で発作を起こし、あっけなく仕舞っていった。一晩泊まって翌早朝一人で朝風呂に行き、その後弟が行ったら浮いていたという。弟は救急車を呼んでもらい人工呼吸をやったが蘇生しなかったと聞いた。

パラオは1914~1994年までの約30を年間日本統治にあった島で親日的らしい。今日のテレビでも日本語教育を受けた現地の老婆たちが70年前の日本語をしっかり話したり、歌ったりするので驚きました。
精糖業が主幹産業で日本は国策会社を作って事業展開し、約3万5千人の日本人が一時居留した。太平洋戦争では激戦地となり、約1万6000千人の日本人が亡くなった。

天皇が明日訪問される、約1万人が戦死したペリリュー島の知事から依頼を受け、歓迎のとき島民が振る日の丸の小旗1800本を作って協力した人を新聞が紹介した。青森市内でアウトドアショップを経営する横浜慎一さんという人で、財政が厳しく自前で用意できないと訴えられ、60万円の寄付金が集った。横浜さんも両陛下の訪問に合わせ、遺族らとパラオに向かうそうです。