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時刻表検定1級
10km33:04、フルマラソン2:46:31

コスモタイガー漂走記~旧中山道編(13)

2014-01-17 | 旧中山道run!!

7月も下旬にさしかかったものの、連日の暑さは小休止。
今日は曇天で、まぁ比較的走りやすい一日となりそうだ。

朝、大高駅に車を置き、東海道本線・中央本線と乗り継げば、それほどの不便を感じることなく、11時前には釜戸駅に到着。
ここは、自分にとって、思い出深い場所の1つだ。

「中山道東濃駅伝」。
単に中山道駅伝とか、東濃駅伝と略称することもあるけれど、毎年11月に開催され、岐阜県のみならず、東海地区を代表する駅伝の1つだ。
歴史も古く、昨年(2008年ね!)で、第55回を数える。
中津川駅前(中津川市)→多治見市役所(多治見市)間を7区間53.15kmで争われる。
(2008年現在:コース変更等により、距離については過去に何度か若干の変更あり)

コスモタイガーも若かりし頃、幾度となく走った経験があり、特にこの釜戸駅近くの釜戸中継所から瑞浪中継所までの5区6.9kmは、もっとも多く経験し、かつ相性も良く、区間賞も経験できた思い出深いコースだ。

ウォーミングアップで何度も走った釜戸の地を、今日は少しゆっくり散策してみよう。

釜戸駅前の道を直進すると、50mもしないうちに突き当たり、そこを右折してまもなく、右側に「東濃信用金庫釜戸支店」がある。
ここが釜戸中継所やね。
レース当日は、独特の緊張感の中、選手や付添の人、応援の方、大会関係者等でそれなりに活気あるけれど、今日は普段のままの静かな集落だ。

そもそもこの釜戸地区、駅伝から離れた目線で見渡してみると、実に静かで、歴史が眠っていそうな集落だ。
それもそのはず。
実は駅伝のコースにもなっている目の前の道は「下街道」といって、東濃地区と、御三家筆頭尾張藩の藩都、名古屋を結ぶ街道筋なのだ。

「中山道駅伝」自体は、景色も楽しめるし、走りやすいコースと、程よいぬくもり感のある素晴らしい大会で、大好きなんだけど、ネーミングに関しては、いささか疑問に思う点ではある。

本物の中山道と、中山道駅伝が、まぁ比較的リンクしているのは、1区と2区、中津川~恵那間くらいで、3区以降は、まったくと言って良いほど、中山道とはかけ離れている。
そもそも向かってる先が違うから当然だけど。
駅伝は恵那から先、多治見に向かって走るけど、中山道は、御嵩宿・太田宿を目指してるからさ。

むしろ3区以降は、大半が「下街道run」状態で、むしろ「下街道駅伝」の方が正確な気がする。
でも知名度的にイマイチだから、「中山道」を拝借したであろうことは推察できるけど。
この駅伝に関わった青少年たちが、「中山道は多治見に向かってる」などと誤った歴史認識を持ったりしないか?と、いらぬ心配をしてしまうコスモタイガーなのだ。

かつて走った道を、ゆっくり歩くのも、不思議な感覚だ。
今度は駅前から反対に、駅伝コースを逆走する形で歩いてみると、ますます旧街道らしい独特の道なりが続いている。
そんなこんなで、あっという間に時間は過ぎ、すでに12時を過ぎてしまった。

駅前に再び戻って本日の中山道トレーニングをようやく開始!
まずは山のはるか上、大湫宿まで出ないと!

並走する国道19号を「中大島」の信号で渡る。
ここにも観音堂と神明神社があるのは、下街道時代からの歴史があるからこそだよね。

あとは県道65号を延々と3.5km超登るのみ。
つまり前回下った分、登るってことやね(泣)。

実はこの左手の山中に「竜吟の滝」という素敵なパワースポットがあるんだけどね。
ここもかつて、駅伝のウォーミングアップ中に見つけて気になってしまい、後日ブラッと訪問した経緯があるけれど。
今回も気にはなるけど、寄り道ばかりでキリがないからね、省略だ。

とにかく休むところなく、ヘアピンカーブを登って登って登りまくる。
登りは苦手なんだよ~。
右手に小さな川が流れているのが、わずかばかりの慰めだ。

やっと着いた!
前回のコースアウト地点の大湫宿高札場跡。
まだ「中山道」は1歩も走ってないうちから汗ダクダクなんだけど。

この高札場が、大湫宿の西側入口らしい。
ここも実はすでに2回ほど、訪問済みなんだけどね。
何度来てもここは落ち着きを感じられるスポットやね~。
小さい宿場ながら、かつてを偲ぶ史跡もいくつか保存され、楽しめるエリアだ。

左の階段を駆け上がると、大湫宿観音堂。
高台のため、展望台のように遠くまで見通せる。

続いて神明神社。
ここには樹齢約1300年とされる大杉があり、かなりの威容を誇っている。


3軒ほど隣、やや奥まった所にあるのが、脇本陣跡。
代々、保々家が営んだとされ、現在も史跡として、建物や門が保存されている。

右手にちょっとした休憩所がある。
ここに無料休憩所が設置され、小さな売店もある。

今日も給水対策はしてきたけどさ、一応ここでジュースを購入。

向かい側には旧大湫小学校で、これがかつての本陣跡、ということらしい。
説明板に寄ると、和宮様もここで宿泊したとか。

すぐに突き当たり、右折。
右手に郵便局があるのが目印だ。

ここを右折する。
ここからまた、前回以上の峠の連続が始まるんだよ(泣)。
江戸の頃、ここから次の大井宿(恵那市)までは、「十三峠」と呼ばれていたらしいから、それほど厳しいということやね。
大湫宿は、厳しいクロカンコースの中の、ほんの一滴のオアシスのようなもの。

右手高台にあるのが宗昌寺。
大湫宿のシンボル的な古いお寺で、この辺りが宿場の東端になるのかな。

あとは案内板に従い、どんどん登る。
まるで「壁のような」と表現したくなるぐらいの急坂だ。
何やら説明板によると、「十三」どころか、実際には20以上の峠があるとのこと。
数えた人も凄いけど。

後ろを振り返ると、さっきまで居た大湫宿を見下ろす形になり、ある意味絶景ではあるけれど、前を見ると気分が鬱になる。
まぁ、案内板も整備されているし、この辺りは1本道だから、迷う心配はないけれど。

ちょっと広い舗装道路に出るけれど、100mほどでまた山の中へと分岐する中山道。
いつまで続くの?と言いたくなる山道を走ると、可愛らしいお地蔵さんに癒される。

「尻冷やし地蔵」と呼ばれているらしい。
後方に清水があって、お尻を冷やしているように見えたそうな。

さらに少し走って「三十三観音」。
石垣?に包まれた牢屋のような祠が、特徴的だ。

ここで道は2手に分岐。
左を選択。

と思ったらまたすぐに分岐路。
今度は右。

起伏ばかりで景色も楽しむ余裕ないけど、とにかく案内板通りに走る。
すぐに両側にゴルフ場が見えてきた。

どちらの側にも金網ネットが張られているけれど、まるでゴルフ場内のカート道のような雰囲気もなくはない。
起伏は相変わらずで、このあたりは「びあいと坂」と呼ばれているらしい。

さらに進むと、「巡礼水」と呼ばれる湧水があり、何やら年一回、8月1日だけ水が湧き、飲むとどんな病も治る、というらしい。

ゴルフ場を脱出?するとすぐ、「権現山一里塚」。

ここも両側が現存している貴重な史跡だ。

ここを過ぎると、ひたすら山中のトレイルラン状態。
こりゃ、きっついトレーニングやね~。
途中、「観音坂」の表示もあった。

いったん、舗装路に出る。
ちょっと視野が開け、左手には神社があるらしいけれど、階段を随分登ったところに本殿があるらしい。
さすがに付き合いきれん。
中山道だけで、お腹いっぱい!

また標識に従い、100mほど先から、右に分岐するトレイル道に入る。
こんなんばっかやね…。

しばらく走ると集落に出る。
「大久後」という地区らしい。

ここに公衆便所があるから、安心して?用をたすなら、ここだよね。
前回今回と、山中のトレイル状態が大半なため、自販機やトイレは、極めて限定的に存在しているだけだからさ。
「できるところでしておく」ことも大切なのさ。

案内板に従い、再び右の山道へ。
見所も特になく、再びトレーニングモード。
いつのまにか、恵那市に入ったらしい。

やがて国道418号に合流。
あ~、418といえば、ちまたで有名な「酷道」の代表的存在だ。
何やらこの道を北上していくと、木曽川を超えて、「八百津町」に入り、その先の丸山ダム周辺は、マニアックな場所と化しているらしい。

などと人ごとのようなこと言いながら、実はコスモタイガーも、20代の頃かな?
面白半分で酷道418、ドライブしたなぁ。
しかも4駆とかじゃなく、普通のセダン(カローラ)!
助手席に乗っていた(当時の)カノジョを恐怖のどん底に突き落とした苦い経験あるからね~。
(若人よ!真似しちゃダメよ♪)

おっとっと、また話が逸れちゃった!
で、この合流点の少し手前にあるのが「深萱立場跡」。
峠をいくつも越え、ヘトヘトになった旅人たちは、ここで一息、お茶したってわけ。
でも現在は案内板とベンチが建つのみ。

すぐ先には、国道沿いに、藤村高札場跡が復元されている。

100mほど走って、右折。
小さな川を越えて左折。

走り続けてしばらく、石畳になって雰囲気は素晴らしいけれど、やっぱり登り坂ね。
登りきった所にあるのが、「紅坂一里塚」。

ここも両側が現存している。

これだけ一里塚が揃ってると、嬉しいね。
石畳もここで終了。
あとは普通にトレイル道に戻り、ひたすら道なりに。
まだ登りは続くけど。

分岐路が途中にあるけど、ここは左。
幸い、この辺り、東海自然歩道とカブッてるため、案内板も整備されていて、ありがたいけど。

景色はすばらしい!
まさに日本の原風景って感じだけどね。

人家がようやく見えてきた。
「竹折」集落というらしい。

小さな川を渡る。
「乱れ橋」というらしい。
飛脚さんたちが共同出資して作った橋らしい。
そしてここからまた、登り。
「乱れ坂」というらしい。

ほんとはね、今まで登ったり下ったりした坂にも、いちいち名前付いてるらしいんだけど、もうどうでも良くなってるし。
キリないもん!

やがて道沿いに「首なし地蔵」。
2体のうち、1体は首がないけれど、1756(宝暦6)年建立の古いものらしい。
当時から、旅人の安全を願いつつ、静かに見守ってくれている。

続いてすぐに「姫御殿跡」。
またもや和宮様ゆかりの史跡やね。

さて、今日の大きなチェックポイントが見えてきた。
「槙ヶ根立場跡」
立場、というからには、かつてここが休憩所だったということで、確かにちょっとこの辺り、視界が広がっている。(冒頭写真)

と同時にここは、今日のスタート地点の釜戸集落でも出てきた、「下街道」との追分でもある。
分岐して下りていく道には、「下街道」を示す案内板も設置されている。


下街道は、現在の国道19号の前身と位置付けられる道だ。
国19は、JR中央本線とともに、東濃や木曽方面と名古屋を結び、東海地区の人間には馴染み深い主要道なわけなんだけど。

江戸期においては、表向きには「ご禁制」の道だったんだよね。
幕府公認の宿場町に「お金を落として」くれないと、困るからさ。

あくまでも「公認ルート」は、(江戸から来た場合)このまま中山道を行き、御嵩・伏見宿を通って「上街道」(尾張藩管理の道:現在の国道41の前身)経由で名古屋へ向かうことになっていたらしい。

地図を広げれば理解できるけど、現代に例えると、ここから名古屋に向かうのに、わざわざ国21と国41を通って行きなさい!と言ってるようなもの。
立場上渋々従った人たちも居ただろうけれど、庶民の大半が、この下街道を通過。
そりゃそうだよね、こっちの方が近いし、平坦だし!
峠と言えば内津峠ぐらいだもんね。

困るのは、閑古鳥が鳴くことになる、中山道沿いの宿場の人たち。
たまりかねて幕府に嘆願し、幕府もそれを受けて度々お触れを出すものの、一時的な効果はあっても結局は元の木阿弥、の繰り返しだったらしい。

江戸幕府が終焉となるとともにご禁制も解け、この「下街道」は晴れて名実ともに主要道となった。
その後の日本の道路や鉄道政策も、当然、この下街道ルートを重要視。
国道19号、中央自動車道、JR中央本線は、すべて下街道を踏襲するかのように、土岐・多治見を経由し、名古屋へと向かっている。

下街道の案内の先には、何やら鬱蒼とした森の中へと道は続いており、いかにも「裏の道」らしい雰囲気で、興味をそそられる。

やがて舗装道路と合流し、道なりに進み、案内板に従い、右の小道に入る。
またまた山の中を進むと、パッと視界が広がる感じで、そこには「槙ヶ根一里塚跡」。

ここも、頂上に立つ樹木(榎)こそ失われているものの、塚そのものは現存し、県の史跡に指定されているらしい。

ちょっとした休憩スペースになているらしく、屋根付きのベンチもあるけれど、どこからやってきたのか、ベンチでお弁当食べて盛り上がっている。
脇には車が止まっている。
ここ、車で入ってこれるの?
ただ、右手の視界が開け、願望は抜群だ。


今度は下りになり、少し走ると、西行塚の看板があった。
階段登るのも面倒だし、どうもこっち系は興味ないんだよね。
要するに、西行法師に纏わる史跡、ということやね。
いつのまにか、足元は石畳になっている。

右側に中央自動車道が近づいてきた。
ここまで来ると、山の中から出てきた感じになる。

石畳も終了し、舗装路になった。
道なりに右折し、中央道の下を潜る。
小さな川を渡って、左折。

今度は中央本線が近付き、右折して線路を踏切で渡り、広い幹線道路(旧19号)に出る。
ここはインターチェンジのような構造になっていて、直進すると、19号バイパスに侵入することになる。
迷わず左折を選択。

ん?
またここで見覚えのある風景に…。

しばらく走ると右手に「西行硯水」。
小さな公園として整備され、西行法師の「道の辺に 清水ながるる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」の歌碑が建てられている。

で、なぜ見覚えがあるかというと、ここも中山道東濃駅伝の恵那中継所だった場所。
(正確には、隣にある某建設会社の前、ただし、2005年大会より一部コース変更となり、現在、恵那中継所は東へ1.5kmほど移動)

まぁ、この辺までは看板通り、「中山道」に沿ったコースになってるってことやね。
ここからはさっきのインターチェンジからバイパスに上り、「下街道」沿いの「武並」集落までの3区5.2kmを走った記憶がある。
この西行硯水をきっかけに、ウォーミングアップの際、中山道に興味津々で走ってた気がする。

400mほど先に、右へ分岐する小道に入る。
何やら裏路地みたいになってるけど。

すぐに歩道橋があるから、これを渡る。
交差点名は「坂の上」。
ここはちょっとわかりづらいけど。

歩道橋を降り、そのまま道なりに進む。
次の信号で、右斜めの道に入る。

小さな川を渡ると、正面にあるのが「中野観音堂」。
そのまま左の狭い道を行くのが中山道らしい。

一気に住宅地の雰囲気になった。
大井宿に入ったらしい。
すぐにあるのが、かつての中野村庄屋の旧宅。
現在は、法律事務所として利用されているらしい。

中山道は1本道だから、迷う所もなく進む。
大井宿もそこかしこに古さを残し、走ってて楽しいエリアだ。
特に恵那市の中央を突っ切る、県道415号を「中央通1」の交差点で渡るとそれは顕著になる。

右手(南)奥には、大型ショッピングセンターがあり、その手前には、中山道広重美術館、なんてのもあるらしい。
残念ながら、美術系はちょっと疎いんだよね…。
そして左側は、恵那駅だ。

「大井橋」を渡り、すぐに枡型。
大井宿の特徴は、枡型の多いこと。
左折し、すぐにまた右折。
案内板も整備され、観光ポイントごとにも説明板が建っているから、楽しめる。
途中、白木番所なんてのも発見!

大井宿、意外にも、見所満載、史跡が目白押しだ。
だて続きに立派なお屋敷。
かつての庄屋、古屋家住宅。
今も地元では名士らしく、子孫は代議士らしい。

突き当たってまた右折。
要するに「コ」の字型に走り、右手に立派な和風旅館「いち川」のところで元の道に出る。
ここもかつての大旅籠「角屋」ということらしいけど。

脇本陣高木家跡、大旅籠林家笹屋跡、立ち止まってばかりで、どんどん時間は過ぎていく。

やがて、宿場の中心に入り、何やら豪勢な酒蔵のような建物が現れた。
「中山道ひし屋資料館」。

すでに15時半を過ぎた。
資料館の閉館時間は17時。
そうだ!
今日はここをゴールにして、見学して行こう。


実走距離は、20km越えている気がする。
釜戸駅からの上りもきつかったし、その後の峠の連続技もあり、タフなコースだった!

ひし屋資料館は、かつての庄屋、古山家住宅をそのまま資料館として転用しているんだね。
なかなかボリュームのある資料館で、1時間超、楽しむことが出来た。

あ~疲れた!
徒歩約10分。
恵那駅まで戻り、あとはJRで帰宅するのみだ。


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