この1ヶ月、あまりにいろいろありすぎて、どう振り返ればいいのかもわからず、ブログも経緯が前後してしまっていますが(むしろ遡ってるし)やっぱり辛い闘病生活を思い返すまでには時間を要して…
それでも、いずれ記憶が薄れていってしまう前に、記録として残しておこうと思い、小次郎が懸命に頑張った証をここに記そうと思います。
3月初め頃、嘔吐は子猫の頃から1日2回なんて当たり前〜だった小次郎が、いつもと違う吐き方をし、回数も増え、2回ほど赤い泡のような嘔吐物を吐いたことから病院へ。
吐き過ぎによる逆流性食道炎の疑いありとのことで、とにかく吐かせないよう注意しなければならなくなりました。
あれだけしょっちゅう食べていた猫草も禁止。
でも、吐き気止め薬や胃薬を飲ませたものの、全く吐かないというわけにはいかず。
すると今度は、トイレに行ってはオチッコが出ない、出てもほんのちょっと、何度もトイレを行ったり来たり、そのうちトイレに座り込むという状態になり、膀胱炎の再発か!?と病院へ。
エコー検査や尿検査の結果、尿路結石の可能性は薄く、5日間通院し、皮下点滴と利尿剤を打ってもらい、そのうちオチッコトラブルは収束。
なんとなく小次郎の調子が上向きになってきたかなと思った矢先に、今度は小次郎の背中が曲がってることに気づきました。
本当に突然歪んでたんです。
そのうち、曲がった背骨のせいなのか後ろ足も曲がって来て、うまく歩けなくなっていきました。
ピクピクとしゃっくりのような小さな発作(?)も気になり、病院でレントゲン検査。
トータルに考えて、脳神経の影響かもと言われましたが、脳検査は全身麻酔をしなければならず高齢の小次郎には無理のため、先生からはあくまで可能性としての辛いお話もされました。
小次郎の下半身は、見る見る不自由になっていきました。
それと同時に、甲状腺機能亢進症の治療のために1年半続けてきたシリンジでの y/d缶の強制給餌を頑なに拒否し出し、何をしても受け付けてくれず、嘔吐やヨダレも始まり、小次郎自身がストレスですっかり元気をなくしてしまいました。
うまくいかない給餌に何度泣いたか…
それでも小次郎は泣く私の腕に何度も頭を擦りつけて慰めてくれたのです。
自分が一番嫌な思いをさせられているはずなのに。
私も母も「生きるために食べさせなければ」という思いと、本当にご飯を受け付けられなくなった小次郎の哀れな様子の板挟みに強制給餌の限界を感じ、病院に相談して経鼻チューブによる流動食給餌に切り替えました。
食事も薬も水分もこれでお互い楽に安心してあげられると思ったところ、薬を流し入れると必ず吐くようになりました。
今まで飲み続けてきたフォルテコールを3回に分けて少量にしてリキッドに混ぜても吐いてしまい、苦渋の選択として、リスクはあるけど薬を飲ませることをやめました。
それでも、嘔吐とヨダレは止まらず、とうとう全く歩けなくもなりました。
リハビリや鍼治療も施してくれる往診専門の病院を探し、自宅まで来ていただきましたが、リハビリ以前に、ヨダレを何とかしないとという事で前もって先生に問い合わせをし、注射や点滴を打ってもらいましたが、ヨダレが治まってたのは1日だけでした。
この先生には、いずれ小次郎が歩けるようになるためのリハビリを本気でお願いするつもりでいたのに、これっきりになってしまいました。
自分で寝返りも打てなくなり、よくこうして捻れて寝ていました。
トイレに行けば、30分〜1時間も這いずり回りながら、オチッコが出るまでもがき続ける日が続きました。
夜中もずっとトイレに行ってはもがき、オチッコが出ても、またすぐトイレに行こうとし…
そのたびにトイレと寝床に抱っこして連れていかなければならないので、私も母も寝られない日が続きました。
自力でオチッコを全部出しきれなくなってるということで、圧迫排尿を教わりました。
でも、私が仕事の時はどうしても長時間家を留守にしてしまうため、その間の小次郎のオチッコの処理は母に任せなくてはなりません。
なので、圧迫排尿のやり方を直接母にも教えてもらうために、また病院へ。
「オチッコを出し切らないといけない」というプレッシャーを感じてたんだけど「完全に出し切るのは我々医師でも難しいです」「最初のうちは、こまめに出してあげればいいし、マッサージしてあげるだけでもいい」という先生の言葉を聞いて、少し肩の力が抜けた感じ。
ウンチはいつの間にか寝ながらしてくれてるので助かりました。
食べて(正確には勝手に胃に流し込まれて)オチッコして、ウンチ出して…
こんな当たり前の事が、生きていく上でどれだけ大切か。
ただ、私も母も圧迫排尿になかなか慣れず。
それでも、寝床でそのまま圧迫排尿(もどき)をしてあげると、たまに気持ち良さそうに目を閉じて枕に頭を横たえて大人しくしてくれてる事もあったから、まんざらヘッタクソなわけでもないのかなぁ…なんて思ってたんですが、そのうち圧迫排尿する前にオチッコをお漏らしで出してしまうようになりました。
なので、常にペットシートを下半身の下に敷き、トイレは不要になりました。
たまにえづく事はあっても、だいぶ回数は減ったんですが、ヨダレはどんどん酷くなり、1日中、口をピチャピチャして辛そうでした。
寝てる時だけが小次郎の休まる時間でした。
起きている時間はずっとヨダレに苦しみ、病院でも原因はわからず、小次郎はもう自力で何も出来ない状態にまで弱りました。
業を煮やして別の病院で診てもらい、やっと『消化器型リンパ腫』と診断されました。
末期なら余命は1〜2週間とか、希望が持てない情報ばかりがネット検索で目に入りました。
それでも、せめてヨダレが少しでも治まって、今小次郎を苦しめている痛みや気持ち悪さが和らいでくれれば…との思いで、処方された痛み止め薬を飲ませた結果、激しい発作を起こして、苦しみながら亡くなりました。
この1ヶ月の小次郎の容体は日1日と変化し、さちの時のように対応が間に合わないほどで、こんなに弱ってしまっているなんて思いませんでした。
ついこの間まで元気に歩いて甘えてきてくれたのに、なんでなんで!?という思いばかりで、なんとか回復してもらおうといろいろ試みましたが、小次郎の老体はもう限界だったようです。
たくさん嫌な思いをさせてしまったのに、小次郎は最期まで頑張ってくれて…
本当に耐え抜いてくれて…
今思うと、さちが亡くなってからの1年9ヶ月、食欲不振や舐めハゲなど病院に厄介になってばかりだったけど、さちを失って悲しんでる私たちを慰めるために、ここまで生き延びてくれてたんじゃないかと思えるんです。
私たちはもっともっと一緒にいられると思っていたけど、小次郎は本当ならもっと早く天に召されてもおかしくない身体だったのかも。
勝手な思い込みですが。
小次郎には懺悔の気持ちと共に感謝してもしきれない。
いつだって小次郎の存在に勇気付けられました。
昨年の引越しも心配したけど、引越しした当日、ずっと鳴き喚いて挙動不審だったのに、夜になって母と私と弟と、家族が揃ってる様子を見て安心したのか、すぐ新居に慣れてくれました。
小次郎が確実に「家」ではなく「家族」に懐いてくれてたんだって嬉しくもありました。
毎日、小次郎が待ってくれている家に帰宅するのが楽しみでした。
あんな形で小次郎を失ってしまった我が家。
母に言われました。
「アンタはこれからはもう保護猫カフェとかで猫と触れ合うだけにしてよ。もう猫は飼えないからね」」
…やっぱり来た!
私が「そんな風に言ったら小次郎が自分のせいだと思って可哀想じゃん!」と言ったら、母は「もう猫を飼っても面倒見きれないでしょ。あんた1人になっても出来る?」と。
確かに、さちの時もコジの時も、母がいたから私は仕事に行けたし、母も私が家にいる時間に出掛けられたし、小次郎のように24時間介護が必要になった時、母が先立って私が1人になったら、どこまで行き届いた世話をしてあげられるんだろう。
単に「もうこんな悲しい思いをしたくないから飼わない」ということだけではない母の言葉は重かったです。
そして、私自身もさちと小次郎の看護・介護を通して、飼い主失格だと思い知らされました。
母も弟も口には出さないけど、私のこと呆れてるんじゃないだろうか。
正直、動物を看取ることへの恐怖心も芽生えました。
私じゃ、最期を苦しませるだけだと自信も失いました。
それでも…
それでも…
猫のいない生活にどこまで耐えられるだろう?
一生面倒を見れずとも、里親に託すつもりで保護するってことも出来なくはない。
でも、絶対情が移るから、やっぱり一生一緒にいたいって思うだろう。
だって、小次郎とのお別れの時に言っちゃったんだもん。
「小次郎、さちと一緒にまたうちに戻っておいでね」って。
それでも、いずれ記憶が薄れていってしまう前に、記録として残しておこうと思い、小次郎が懸命に頑張った証をここに記そうと思います。
3月初め頃、嘔吐は子猫の頃から1日2回なんて当たり前〜だった小次郎が、いつもと違う吐き方をし、回数も増え、2回ほど赤い泡のような嘔吐物を吐いたことから病院へ。
吐き過ぎによる逆流性食道炎の疑いありとのことで、とにかく吐かせないよう注意しなければならなくなりました。
あれだけしょっちゅう食べていた猫草も禁止。
でも、吐き気止め薬や胃薬を飲ませたものの、全く吐かないというわけにはいかず。
すると今度は、トイレに行ってはオチッコが出ない、出てもほんのちょっと、何度もトイレを行ったり来たり、そのうちトイレに座り込むという状態になり、膀胱炎の再発か!?と病院へ。
エコー検査や尿検査の結果、尿路結石の可能性は薄く、5日間通院し、皮下点滴と利尿剤を打ってもらい、そのうちオチッコトラブルは収束。
なんとなく小次郎の調子が上向きになってきたかなと思った矢先に、今度は小次郎の背中が曲がってることに気づきました。
本当に突然歪んでたんです。
そのうち、曲がった背骨のせいなのか後ろ足も曲がって来て、うまく歩けなくなっていきました。
ピクピクとしゃっくりのような小さな発作(?)も気になり、病院でレントゲン検査。
トータルに考えて、脳神経の影響かもと言われましたが、脳検査は全身麻酔をしなければならず高齢の小次郎には無理のため、先生からはあくまで可能性としての辛いお話もされました。
小次郎の下半身は、見る見る不自由になっていきました。
それと同時に、甲状腺機能亢進症の治療のために1年半続けてきたシリンジでの y/d缶の強制給餌を頑なに拒否し出し、何をしても受け付けてくれず、嘔吐やヨダレも始まり、小次郎自身がストレスですっかり元気をなくしてしまいました。
うまくいかない給餌に何度泣いたか…
それでも小次郎は泣く私の腕に何度も頭を擦りつけて慰めてくれたのです。
自分が一番嫌な思いをさせられているはずなのに。
私も母も「生きるために食べさせなければ」という思いと、本当にご飯を受け付けられなくなった小次郎の哀れな様子の板挟みに強制給餌の限界を感じ、病院に相談して経鼻チューブによる流動食給餌に切り替えました。
今まで飲み続けてきたフォルテコールを3回に分けて少量にしてリキッドに混ぜても吐いてしまい、苦渋の選択として、リスクはあるけど薬を飲ませることをやめました。
それでも、嘔吐とヨダレは止まらず、とうとう全く歩けなくもなりました。
リハビリや鍼治療も施してくれる往診専門の病院を探し、自宅まで来ていただきましたが、リハビリ以前に、ヨダレを何とかしないとという事で前もって先生に問い合わせをし、注射や点滴を打ってもらいましたが、ヨダレが治まってたのは1日だけでした。
この先生には、いずれ小次郎が歩けるようになるためのリハビリを本気でお願いするつもりでいたのに、これっきりになってしまいました。
自分で寝返りも打てなくなり、よくこうして捻れて寝ていました。
トイレに行けば、30分〜1時間も這いずり回りながら、オチッコが出るまでもがき続ける日が続きました。
夜中もずっとトイレに行ってはもがき、オチッコが出ても、またすぐトイレに行こうとし…
そのたびにトイレと寝床に抱っこして連れていかなければならないので、私も母も寝られない日が続きました。
自力でオチッコを全部出しきれなくなってるということで、圧迫排尿を教わりました。
でも、私が仕事の時はどうしても長時間家を留守にしてしまうため、その間の小次郎のオチッコの処理は母に任せなくてはなりません。
なので、圧迫排尿のやり方を直接母にも教えてもらうために、また病院へ。
ウンチはいつの間にか寝ながらしてくれてるので助かりました。
食べて(正確には勝手に胃に流し込まれて)オチッコして、ウンチ出して…
こんな当たり前の事が、生きていく上でどれだけ大切か。
ただ、私も母も圧迫排尿になかなか慣れず。
それでも、寝床でそのまま圧迫排尿(もどき)をしてあげると、たまに気持ち良さそうに目を閉じて枕に頭を横たえて大人しくしてくれてる事もあったから、まんざらヘッタクソなわけでもないのかなぁ…なんて思ってたんですが、そのうち圧迫排尿する前にオチッコをお漏らしで出してしまうようになりました。
なので、常にペットシートを下半身の下に敷き、トイレは不要になりました。
たまにえづく事はあっても、だいぶ回数は減ったんですが、ヨダレはどんどん酷くなり、1日中、口をピチャピチャして辛そうでした。
寝てる時だけが小次郎の休まる時間でした。
起きている時間はずっとヨダレに苦しみ、病院でも原因はわからず、小次郎はもう自力で何も出来ない状態にまで弱りました。
業を煮やして別の病院で診てもらい、やっと『消化器型リンパ腫』と診断されました。
末期なら余命は1〜2週間とか、希望が持てない情報ばかりがネット検索で目に入りました。
それでも、せめてヨダレが少しでも治まって、今小次郎を苦しめている痛みや気持ち悪さが和らいでくれれば…との思いで、処方された痛み止め薬を飲ませた結果、激しい発作を起こして、苦しみながら亡くなりました。
この1ヶ月の小次郎の容体は日1日と変化し、さちの時のように対応が間に合わないほどで、こんなに弱ってしまっているなんて思いませんでした。
ついこの間まで元気に歩いて甘えてきてくれたのに、なんでなんで!?という思いばかりで、なんとか回復してもらおうといろいろ試みましたが、小次郎の老体はもう限界だったようです。
たくさん嫌な思いをさせてしまったのに、小次郎は最期まで頑張ってくれて…
本当に耐え抜いてくれて…
今思うと、さちが亡くなってからの1年9ヶ月、食欲不振や舐めハゲなど病院に厄介になってばかりだったけど、さちを失って悲しんでる私たちを慰めるために、ここまで生き延びてくれてたんじゃないかと思えるんです。
私たちはもっともっと一緒にいられると思っていたけど、小次郎は本当ならもっと早く天に召されてもおかしくない身体だったのかも。
勝手な思い込みですが。
小次郎には懺悔の気持ちと共に感謝してもしきれない。
いつだって小次郎の存在に勇気付けられました。
昨年の引越しも心配したけど、引越しした当日、ずっと鳴き喚いて挙動不審だったのに、夜になって母と私と弟と、家族が揃ってる様子を見て安心したのか、すぐ新居に慣れてくれました。
小次郎が確実に「家」ではなく「家族」に懐いてくれてたんだって嬉しくもありました。
毎日、小次郎が待ってくれている家に帰宅するのが楽しみでした。
あんな形で小次郎を失ってしまった我が家。
母に言われました。
「アンタはこれからはもう保護猫カフェとかで猫と触れ合うだけにしてよ。もう猫は飼えないからね」」
…やっぱり来た!
私が「そんな風に言ったら小次郎が自分のせいだと思って可哀想じゃん!」と言ったら、母は「もう猫を飼っても面倒見きれないでしょ。あんた1人になっても出来る?」と。
確かに、さちの時もコジの時も、母がいたから私は仕事に行けたし、母も私が家にいる時間に出掛けられたし、小次郎のように24時間介護が必要になった時、母が先立って私が1人になったら、どこまで行き届いた世話をしてあげられるんだろう。
単に「もうこんな悲しい思いをしたくないから飼わない」ということだけではない母の言葉は重かったです。
そして、私自身もさちと小次郎の看護・介護を通して、飼い主失格だと思い知らされました。
母も弟も口には出さないけど、私のこと呆れてるんじゃないだろうか。
正直、動物を看取ることへの恐怖心も芽生えました。
私じゃ、最期を苦しませるだけだと自信も失いました。
それでも…
それでも…
猫のいない生活にどこまで耐えられるだろう?
一生面倒を見れずとも、里親に託すつもりで保護するってことも出来なくはない。
でも、絶対情が移るから、やっぱり一生一緒にいたいって思うだろう。
だって、小次郎とのお別れの時に言っちゃったんだもん。
「小次郎、さちと一緒にまたうちに戻っておいでね」って。
症状が治る前にどんどん次の症状が始まるから、何をどうしていけばいいのかわからなくなっちゃうんだよね。
でも最期の薬を流してしまったことはやっぱり後悔
ただあの時の私は小次郎の辛さを和らげたい一心だったから、あの選択に迷いはなかったんだよね…
動物を飼ってる人は皆、最期を迎える辛さと隣り合わせで生きていかなきゃいけないから、その覚悟の持てる人だけが飼ってほしい。
病気になったら捨てるとか、医療費がかかるから捨てるとか、そんな弱った身体と心の動物を平気で見放せる人は動物に近づかないでほしいな。
小さい生き物がそばにいるだけであったかいよね。
闘病から看取るまで、ほんとに大変だったね。
私もきっと葛藤すると思う。
猫と暮らしてる友だちも最近亡くしたり、いま闘病中で毎日病院へ通ってる人もいるよ。
どれが正しかったのかなんてわかんない。でも星野が猫飼い失格なんて思わないよ。
小次郎も生ききったと思う