横濱・櫻木町コティベーカリーぶろぐ

街のこと店のこと今昔物語

有線放送電話~昭和の農村の通信機~

2011年12月06日 16時10分08秒 | 農事

今ではインターネット通信が発展して、
地球の裏側でさえ、瞬時に情報が伝わる世の中になりました。
子供の頃には想像さえも及ばなかった“未来”に
生きていることを実感する昨今です。

昭和30年代の横浜の農村では、有線放送電話が唯一の通信手段でした。
これは電話とラジオが一体となったもので
当時、生活の中は正式な名ではなくて『有線放送』と呼んでいました。
一定の時間だけNHKラジオが放送されていた記憶があります。

電話は村内の農協組合員だけの連絡に使用するもので
交換手の女性が
「29番さーん、鈴木さーん」
といった調子で呼びかけて来る、のどかなものでした。
この交換手の女性もまた農協の組合員でした。

今では見ることができなくなってしまった有線放送電話、
なんとかもう一度、あの懐かしい「有線放送電話」を見たいと思い
ネットを探し続けていて、ついに見つかりました。

立命館大学産業社会学部教授・坂田謙司先生の
「声」の有線メディア
ラジオ共同聴取・有線放送電話・親子ラジオ

というサイトです。

坂田先生にお借りした画像で、感動の再会です!

私の記憶の中にあるのはこのタイプの機種でしたとても懐かしいです。




 
当時は有線放送電話もいろいろな機種があった事を知りました。

当時は炊事は“かまど”で行っていましたので
かまどに火を燃やし続けながら有線放送のラジオ番組を楽しんでいました。

この“かまど”も見ることができないものと思っておりましたら
小林 哲朗さんの『廃墟ディスカバリー』で再会することができました。
当時のままの「かまど」に再会できて感動です。


坂田謙司先生の著書
『「声」の有線メディア史―共同聴取から有線放送電話を巡る“メディアの生涯”』 
送料無料の楽天市場でも発売されています。


※この記事を書くにあたり、
貴重な研究資料を快く提供して下さった坂田謙司先生に心より御礼申し上げます。


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アメリカザリガニの発祥地☆その②

2008年07月30日 11時13分34秒 | 農事
                食材としてのアメリカザリガニ          
              
昭和のはじめに日本に導入されたアメリカザリガニは終戦後の頃になると大繁殖していました。アメリカザリガニの発祥地の周辺でも、終戦後の一時期アメリカザリガニを食べていたそうです。父も母も農家だったので食料に不足する事は無かったのですが、あまりにも沢山のザリガニがいたので食用にしていた様です。

アメリカザリガニは昼間は不活発になるので、バケツを持ってザリガニ獲りに行くと、アッという間にバケツに山盛りになるくらい獲れたそうです。食べる楽しみというより、捕まえるのが面白かったとのことでした、夏の遊びの一つだったようです。当時どのように食べていたのかというと…

              ザリガニ3分クッキング~?
        1、捕まえたザザリガニを殻ごと塩茹でにする。
        2、殻をむいて、そのまま、またはお醤油をつけて食べる。
          剥き身をかき揚げや、天ぷらにする。
      ☆味は普通のエビと変わる事が無く、美味しかったそうです。

その後「アメリカザリガニは毒があるから食べないほうがいい」というウワサが周辺に広まり、皆一斉に食べなくなったそうです。事の真相は、肺臓ジステマという寄生虫の卵を持っているザリガニがいたので、生食をするとジストマにかかることがあり、そのことを「毒」と言っていたようです。外来種で天敵が少ない上に、最大の天敵・人間からも免れて、日本はアメリカザリガニにとって住み心地の良い場所になり、ますます繁殖してゆきました。
             
※岩瀬の浄土宗・西念寺、このお寺の前にも池があり、カエルもザリガニもたくさんいました。
             

 
ところが戦後の復興で、昭和30~40年頃になると農業の近代化で農薬が使われるようになりました。するとザリガニの数は激減、更に高度成長経済の中で農村の宅地化がすすみ、田んぼや池・沼もなくなり、発祥地周辺では、ついにアメリカザリガニの姿を見ることがなくなりました。


アメリカザリガニ料理法 このサイトではプロがザリガニを調理しています。





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新茶の季節です♪

2008年05月13日 20時41分56秒 | 農事
新茶はすがすがしい初夏の風物詩、お茶屋さんには、香り高い新茶が販売されています。現代はお茶は買う物ですが、私の母の子供時代、昭和初期の農家では、お茶はそれぞれの家で作られていたそうです。
            
               ※当時お茶の木は畑の風景の一部でした。
当時はどこの農家でも、畑の端には必ずお茶の木が植えられていて、自宅で飲むお茶は全て自宅で製茶していました。収穫された茶の葉を蒸篭で蒸して、「ほいろ」で乾燥し、撚って製茶します。               
                                                
              ※古民家・民族資料館に展示されている「製茶ほいろ」
今は民族資料館でしか見られなくなった「ほいろ」ですが、当時の農家には、土間や物置に必ずこの「ほいろ」があり、初夏になると製茶の為に使われました。「ほいろ」の中にはクヌギの木で作られた上質な桜炭が焚かれました。現代の電気ほいろ で、その構造をご確認下さい。

上部の木枠には和紙が張られ、その上に茶葉をのせ、手の平で揉みながら乾燥させるので、かなりな力仕事で祖父は汗だくになって製茶していたそうです。紙は貴重品であった時代ですので、木枠に張る和紙は和紙製の“こいのぼり”を使用していたそうです。今では「ほいろ」を見る機会はありませんが、本郷ふじやま公園 の古民家の土間には、当時のままの姿が保存されていました。 
             ご参考に名人の製茶をこちらで、ご覧下さい。
             
                      ※ふじやま公園内の旧小岩井邸 
新茶はその年の最初に生育した新芽を摘み取ったお茶のことで「一番茶」とも呼ばれています。新茶のさわやかですがすがしい香りは、「二番茶」「三番茶」に比べて苦渋いカテキンやカフェインが少なく、旨み、甘みの成分であるアミノ酸(テアニン)が多い傾向にあるのが、その理由のようです。
立春(2月4日)から数えて88日目の日を「八十八夜」に摘み採られたお茶を飲むと、一年間無病息災で元気に過ごせると言い伝えがあります。
                                       
現代では、お茶はペットボトルでしか飲まない家庭も増えていると聞きます、急須が家にないことも当たり前な生活になってゆくのかも知れません。でも淹れ方で味わが変化する茶葉は美味しく、とても楽しいですし、地球にも優しいですね♪

美味しいお茶を更に美味しくする常滑焼の急須については、コチラ をご覧下さい。




                   
       横浜桜木町シベリアのコテイベーカリーHP 

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