1862(文久2)2月27日、『新選組』の前身『壬生浪士組』が京都で結成された…ということで今日は新撰組の日。そこで横浜の新選組ゆかりの地をご紹介します。
正面
みなとみらい地区をのぞむ紅葉ヶ丘に『神奈川奉行所跡』の碑が立っています。横浜奉行所は横浜開港に備えて安政6年6月に開設されました。当時は戸部役所と呼ばれ外内国司法の事務が扱われていました。現在は神奈川県立青少年センターが建っています。
文久3年(1863年)、篠原泰之進、加納鷲尾ら12名の浪士が一時期、神奈川奉行所に雇われていました。篠原らは後に伊東甲子太郎の配下となって新撰組に加わります(やがて分裂して『高台寺党』)。元治元年(1863年)10月15日、この歌を残して伊東らは京都に旅立って行きます。
「残し置く言の葉草のさはなれといはて別るる袖の白露」
横浜病院跡
慶応4年(1868年)、1月14日夕刻、近藤勇や負傷兵を乗せた「富士山丸」は横浜に入港しました。鳥羽・伏見の戦いで負傷をおった隊士22人は島田魁の付き添いで、この地にあった横浜病院に収容されます。横浜病院は旧幕府のフランス語伝習所内に設けられた仮設病院でした。フランス人医師団による医療が施されているため近藤勇も江戸からこの病院に治療を受けに来ていたそうです。幕臣・会津藩の負傷兵も収容されていました。中区元浜町4の辺りにありましたが、現在はこのように何も残っていません。
赤門の名で親しまれている、横浜市西区の東福寺には新選組隊士・近藤芳助の墓があります。江戸の試衛館で剣術を学んだ芳助は元治元年10月入隊して伍長となります。慶応4年(1868年)鳥羽・伏見に戦いで負傷し江戸帰還、流山・宇都宮と転戦し仙台で降伏しました。維新後は川村三郎と名乗り、横浜市会議員などを歴任し大正11年に80歳で亡くなりました。
※尚、個人墓なので見学はできません。
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正面
みなとみらい地区をのぞむ紅葉ヶ丘に『神奈川奉行所跡』の碑が立っています。横浜奉行所は横浜開港に備えて安政6年6月に開設されました。当時は戸部役所と呼ばれ外内国司法の事務が扱われていました。現在は神奈川県立青少年センターが建っています。
文久3年(1863年)、篠原泰之進、加納鷲尾ら12名の浪士が一時期、神奈川奉行所に雇われていました。篠原らは後に伊東甲子太郎の配下となって新撰組に加わります(やがて分裂して『高台寺党』)。元治元年(1863年)10月15日、この歌を残して伊東らは京都に旅立って行きます。
「残し置く言の葉草のさはなれといはて別るる袖の白露」
横浜病院跡
慶応4年(1868年)、1月14日夕刻、近藤勇や負傷兵を乗せた「富士山丸」は横浜に入港しました。鳥羽・伏見の戦いで負傷をおった隊士22人は島田魁の付き添いで、この地にあった横浜病院に収容されます。横浜病院は旧幕府のフランス語伝習所内に設けられた仮設病院でした。フランス人医師団による医療が施されているため近藤勇も江戸からこの病院に治療を受けに来ていたそうです。幕臣・会津藩の負傷兵も収容されていました。中区元浜町4の辺りにありましたが、現在はこのように何も残っていません。
赤門の名で親しまれている、横浜市西区の東福寺には新選組隊士・近藤芳助の墓があります。江戸の試衛館で剣術を学んだ芳助は元治元年10月入隊して伍長となります。慶応4年(1868年)鳥羽・伏見に戦いで負傷し江戸帰還、流山・宇都宮と転戦し仙台で降伏しました。維新後は川村三郎と名乗り、横浜市会議員などを歴任し大正11年に80歳で亡くなりました。
※尚、個人墓なので見学はできません。
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