ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○雑感その1

2010-12-15 23:31:37 | Weblog
○雑感その1
 僕とは違う意味で変わりものだった、かつての学校時代の同僚の男が、自分が死したら、いまのような腐った坊主たちの読経があって、葬儀屋が切り盛りするような典型的に様式化された葬式なんてごめんやな、と昼飯を食っているときに、ぼやいたことがあった。彼は同時に、ぼやいた。そういうことを女房に言ったら、死にゆく人がごちゃごちゃ言わないものだし、後のことは、生きている人間に任せるものよ、という返答だったことに対して。しかし、これはもうだいぶ前の話だということが、今日のある昼のテレビ番組を観ていて、世の中の常識がかなり変化してきているのに気づいた次第。たとえば、死者の遺骨を粉上に砕いて、まるいガラスの容器に入れて、家に保存しておくとか、遺骨を加工して、ペンダントにするのだとかというのは、結構普通にあることらしい。海や山に散骨することは、かなり浸透しているし、そもそも新聞の死亡欄には、家族葬で済ますという記述がよく目に入る。世の中、変わってきたものだと思う。かつてのように、銭金の多さで、戒名の格が決まるなどというアホウなことが、なくなりつつあることは、とてもまともだろうと思う。
 ところで、話を最初にもどすが、かつての友人に対して、常識的なことを言った女房の方が、先に逝ってしまった。40代なのに不幸なことだった。大腸がんで、何度も転移を繰り返し、その度に手術を繰り返すものだから、葬式に行ったら、これがあの人か、と慨嘆させられた。医学も酷なことをやる。綺麗なまま、死なせてやればいいのに。医者には分かっていたはずなのに。驚きは、坊主に読経などされたくもない、と言っていた同僚が行った葬儀は、何ともあまりにもありふれたそれだったので、一体どうなっているのか?と感じ入った。参列者への挨拶も絵に描いたような、葬儀屋のプログラム通りのものだった。偏屈な男だったし、誰ともうまくいかなかった奴だったのに、世話女房が亡くなってからも、いまだに、僕が追放された学校にいる。4つ下だから、あと7年も教師を続けるつもりなのだろう。彼の発想はよかったが、思想に広がりがなくて、それが偏狭を招くので、誰にも受け入れられず、小さな世界の中で、自己満足的なことをやりつつ、損ねた機嫌がおさまるまで、自分をなだめているような人間だった。たぶん、いまも、そんな感じで、食うためにやっているのだろう。そいつが選んだ生き方なのだから、別にとやかく言うつもりはないが、おもしろくもない人生を送っているのだろう、とは思う。
 人間の生き方なんて、どう生きてもいいわけだけれど、限られた一回性の生なんだから、思い切りはじけたらいいんだと思うな。時代背景が違うにしても、黒沢明の「生きる」という映画の主人公の、ガンに侵されて残り少ない自己の生を、生まれて初めて自分の意思を貫いてつくった公園のブランコに揺られながら、切ない歌を歌っているようなエンディングは、映画の出来そのものもいただけないが、とりわけウンザリとさせられる。たぶん、黒沢映画が嫌いな主な原因は、この映画だろうと思う。生を忍従の中に押し込めるような思想は、どう考えても、人間の本性に反すると僕は思うからだ。今日の観想とする。
●しばらくは、雑感を書き綴りますので、その間は、推薦図書はありません。

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