ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○雑感その2

2010-12-17 00:29:23 | Weblog
○雑感その2
 かつて僕が関わった学校法人としての学園を、寺の坊主たちが実質的に支配してきた、浄土真宗本願寺派が、教団の「憲法」としての宗法を抜本的に見直すのだという。そういう記事が新聞に掲載されていた。
この宗教教団が学校を支配してきたという意味は、少なくとも僕が関わった総合学園としての学校が、能力ある人材を広く門戸を開いて募集したのは、実質的に数年間に過ぎなかったということである。さらに言うなら、教職員採用に際して、浄土真宗本願寺派に忠誠を尽くすべく、踏み絵を踏ませるごとき面接をしなかったのは、正確にはたった一年だけのことだったと記憶している。それ以降は、徐々に締め付けが厳しくなり、まさに踏み絵を踏まなければ、採用に至ることはなかった。なんの因果か、僕がこの学園に就職したのは、宗教的強要を排除した、そのたった一年の隙間に採用されたのだから、彼らの大好きな「ご縁」があったのか、悪縁だったのかは、よく分からない。さらに言えば、僕が能力ある人材だったなどとは到底思っていない。簡単な言葉で云えば、まぐれで入ったのだろうと思う。この学園を去ることになったのは、長きに渡る宗教教団に対する抗いが高じてのことだった。その抗いの理由とは、坊主でなければ、管理職になれないというアホウな規定があり、逆に言えば、どんなアホウでも坊主であれば、管理職になり得るということでもあったからだ。こんな規定のもとで、まともな教育など行えるはずがない。
 この学園にいると、寺に生まれたという輩たちの特権意識が鼻について仕方がなかった。坊主で教師、坊主で事務員という輩は、総じて世襲制という制度の中で生きてきた連中ゆえに、自分たちの立場が坊主であることによって、たとえいかに無能であっても職にありつけたのだから、この学園と関わったお陰で、僕はとりわけ浄土真宗本願寺派という大宗教教団が大嫌いになった。そもそも宗教が世襲制度によって守られているということが、宗教的堕落を生じしめる、というリアルな視点などは、絶対に認められることがなかったのである。ありていに言えば、寺に生まれた人間たちのよき就職先が、学校法人としての学園だったというわけである。優れた人材が集まる素地がそもそもないのである。
 さて、最初の新聞記事の内容に話をもどそう。宗法を抜本的に見直す理由は、門徒(信者)が激減しているからである。僕から言わせれば、宗教の世襲制度の限界がやっと明らかになってきたに過ぎないということになるが、坊主たちは焦っている。権限の集中化を目指し、特に都市部の信者を増やすのがその目的なのだそうな。その理由は、少子高齢化に伴って、特に地方における信徒の激減が加速しているので、せめて都市部で、歯止めをかけるのだという。しかし、それは無理というものだ。信徒が激減しているのは、自分たちが世襲制に胡坐をかき、葬式仏教で銭を儲け、税金の減免を当然のことのように考え、宗教的意義を訴えるでもなく、本山はただただ、末寺からの、ヤクザまがいの上納金にしか関心がなかったからだ。信徒が減っては、末寺からの上納金も当てにならなくなり、銭集めのために中央集権化するのだという。まるで、悪名高き高級官僚の思考回路そのものだ。宗教的な救いを求める民衆から遊離してしまった宗教教団などに、存在理由はないのである。教団が全国の末寺1万280カ所に実施したアンケートだって、回収率は60%を切っている。坊主たち自身に関心がないのがモロに出ているではないか。政治にしろ、宗教にしろ、世襲制度などをとったら、必ず堕落する。そういう自堕落さが、信徒を減らしているのに気づきもしない。まさにアホウの集まりだ。僕にはそうとしか思えないね。

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