○雑感その9
教師を辞めた大きな理由は、すでに何度か書いたので、もう書きとめる必要もないのだが、これから書くことは、あくまで離職の主因ではないにしろ、教師という存在にどうしても甘んじることが出来なかった観念的、あるいは同時にリアルな問題について、少々。
自分がアクティブに活動出来る殆どの時間を、同じ年齢の子どもたちに対して、同じ教科(同じ教科しか教えられないのは当然なのだが)を、それがカリキュラムの変更があっても、自分の教育理論をいかに変質させ、磨こうとも、基本的に同じことを、繰り返し、繰り返し教え続けることのつらさ、切なさったらないね。結局、自分をゴマカシ、ゴマカシしながら、23年も同じ教科をそれこそ、シジフォスのごとくに、山の頂上まで巨大な石を運び上げたら、その瞬間に石は無残にも山上から山の裾野へと転がり落とされる、そういう繰り返し。このような観想が、僕の生徒と向き合うことの出来る3年間という基本的な時間的制約。使い切ったネジを再び巻きもどすために必要な精神的エネルギー。この果てしない繰り返しを、喜びと感じることができるのか、あるいは、限りない徒労としか感得する感性しか持てないのかが、たぶん、人生の大半を、教育という仕事に自己を投入出来るかどうかの境目なのではないか、と思う。正直、僕はつらかった。いくら自分も変わり得るのだ、と言い聞かせても、あるいは、どんなに努力したところで、心の深いところでは、まさに自分は同じ次元を這いずりまわっている感、拭えず。世間さまは、安定した仕事だの、賃金がよろしいだのと言ってはくれるけれど、そう言われると、自分の中にとんでもない羞恥心が湧き起るから、こういう仕事についたのは、やはり根本的な間違いだったと認識せざるを得ない苦渋の日々だった。だからこそ、より新しい挑戦を!という気分にもなる。英語教育理論の洗練に関心を向けたこともあり、生徒指導の方法論に新たな観点を注ぎこもうとしたこともあり、あるいは、教育現場における労働組合という組織として、より意義ある教育づくり、教育環境の整備という課題に取り組んだこともあり。その集約が、学校法人に害毒を垂れ流す宗教法人を追放する、という運動論の組み立てだった。その結末は、最大の敗北だったのだけれど。
自己の能力の限界性を知り、既存権力の大きさ、ふてぶてしさ、不埒さ、いや、そんなことよりも、こういう敗北によって、教育現場を去った後の、元同僚たちの冷たい態度に絶望させられもした。さらに言うと、他の仕事は知らないので、何とも言いようもないが、少なくとも、教師どうしの関係性のあり方の、何とも表層的なものだったこと。どうして、あんな人間関係の中で、仲間とも思い、同僚とも思いしながら、一緒に仕事が出来たのか、不思議でならんな。みんなが割り切りの関係の中で、己れの生活を保守することばかりを考えている。それが教師たちの生態だと僕は思う。オモシロいことがあった。当時、比較的仲良くしている国語の教師がいて、そいつが、高齢の理科のクセのある女のセンセのことをいつもボロカスにけなしていたから、きっとその人のわら人形でもつくって、釘でも打ち付けているのではないか、などとあらぬ想像をしていた。そいつは、僕の最も嫌いな家族写真を年賀状にして送りつけてくる輩の一人で(なんで自分の家族の写真を同僚に見せる必要などあろうや?家族どうしの交流でもあるならまだしも、会うこともない家族の写真を見せられても、なんともはや、どうにもならんのに)、ある年初めに届いたやつからの年賀状に、どうしたわけか、もう一枚同じのがくっ付いてきたのである。何とも皮肉なことに、そのくっ付いてきた年賀状が、やつが日頃からくさしまくっていた例の理科の女教師への賀状だった。文言も僕へのそれとまったく同じ。お笑いである。やつに電話して、知らせてやろうか、と思ったが、そこまで僕は底意地悪くはないので、黙ってくっついた年賀状を上手に剥がして、そのままポストに入れておいた。数日遅れで、そのオバハンに(これはやつの言葉です!)届くだろうと思って。
無駄話が長すぎたので、最も伝えたきことを最後に。教師に甘んじ切れなかった最大の理由は、教師存在というのは、本質的に常に取り残される存在に過ぎんということに心底気づいたからである。さらに言うと、常に、生徒たちに先を越されてしまう存在だと言うことである。それを生徒の成長だとお気軽に、また厚顔に言う輩は、たっぷりと退職金をもらうまで、教育現場に居続けるのだろうが、僕には、こういう気づきが最もきつかったのである。置いてきぼりを食らうのって、嫌じゃあないですか?自分は同じところに常に留まっていなければならないのに。まじめな先生稼業に満足しておられる方々にはまことに申し訳ないのだが、僕には到底耐えられない、仕事。家庭を持ち、子どもをこの世に送り出したので、たぶん、経済的な要素が、長く同じ職場に居続けさせたのだろうと思う。子どもたちにとっては、つまらん父親だったとは思うが、僕の個性としては、よく耐えた方か、と総括せざるを得ないな。今日は、まあ、こんなところでしょうか。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム 長野安晃
教師を辞めた大きな理由は、すでに何度か書いたので、もう書きとめる必要もないのだが、これから書くことは、あくまで離職の主因ではないにしろ、教師という存在にどうしても甘んじることが出来なかった観念的、あるいは同時にリアルな問題について、少々。
自分がアクティブに活動出来る殆どの時間を、同じ年齢の子どもたちに対して、同じ教科(同じ教科しか教えられないのは当然なのだが)を、それがカリキュラムの変更があっても、自分の教育理論をいかに変質させ、磨こうとも、基本的に同じことを、繰り返し、繰り返し教え続けることのつらさ、切なさったらないね。結局、自分をゴマカシ、ゴマカシしながら、23年も同じ教科をそれこそ、シジフォスのごとくに、山の頂上まで巨大な石を運び上げたら、その瞬間に石は無残にも山上から山の裾野へと転がり落とされる、そういう繰り返し。このような観想が、僕の生徒と向き合うことの出来る3年間という基本的な時間的制約。使い切ったネジを再び巻きもどすために必要な精神的エネルギー。この果てしない繰り返しを、喜びと感じることができるのか、あるいは、限りない徒労としか感得する感性しか持てないのかが、たぶん、人生の大半を、教育という仕事に自己を投入出来るかどうかの境目なのではないか、と思う。正直、僕はつらかった。いくら自分も変わり得るのだ、と言い聞かせても、あるいは、どんなに努力したところで、心の深いところでは、まさに自分は同じ次元を這いずりまわっている感、拭えず。世間さまは、安定した仕事だの、賃金がよろしいだのと言ってはくれるけれど、そう言われると、自分の中にとんでもない羞恥心が湧き起るから、こういう仕事についたのは、やはり根本的な間違いだったと認識せざるを得ない苦渋の日々だった。だからこそ、より新しい挑戦を!という気分にもなる。英語教育理論の洗練に関心を向けたこともあり、生徒指導の方法論に新たな観点を注ぎこもうとしたこともあり、あるいは、教育現場における労働組合という組織として、より意義ある教育づくり、教育環境の整備という課題に取り組んだこともあり。その集約が、学校法人に害毒を垂れ流す宗教法人を追放する、という運動論の組み立てだった。その結末は、最大の敗北だったのだけれど。
自己の能力の限界性を知り、既存権力の大きさ、ふてぶてしさ、不埒さ、いや、そんなことよりも、こういう敗北によって、教育現場を去った後の、元同僚たちの冷たい態度に絶望させられもした。さらに言うと、他の仕事は知らないので、何とも言いようもないが、少なくとも、教師どうしの関係性のあり方の、何とも表層的なものだったこと。どうして、あんな人間関係の中で、仲間とも思い、同僚とも思いしながら、一緒に仕事が出来たのか、不思議でならんな。みんなが割り切りの関係の中で、己れの生活を保守することばかりを考えている。それが教師たちの生態だと僕は思う。オモシロいことがあった。当時、比較的仲良くしている国語の教師がいて、そいつが、高齢の理科のクセのある女のセンセのことをいつもボロカスにけなしていたから、きっとその人のわら人形でもつくって、釘でも打ち付けているのではないか、などとあらぬ想像をしていた。そいつは、僕の最も嫌いな家族写真を年賀状にして送りつけてくる輩の一人で(なんで自分の家族の写真を同僚に見せる必要などあろうや?家族どうしの交流でもあるならまだしも、会うこともない家族の写真を見せられても、なんともはや、どうにもならんのに)、ある年初めに届いたやつからの年賀状に、どうしたわけか、もう一枚同じのがくっ付いてきたのである。何とも皮肉なことに、そのくっ付いてきた年賀状が、やつが日頃からくさしまくっていた例の理科の女教師への賀状だった。文言も僕へのそれとまったく同じ。お笑いである。やつに電話して、知らせてやろうか、と思ったが、そこまで僕は底意地悪くはないので、黙ってくっついた年賀状を上手に剥がして、そのままポストに入れておいた。数日遅れで、そのオバハンに(これはやつの言葉です!)届くだろうと思って。
無駄話が長すぎたので、最も伝えたきことを最後に。教師に甘んじ切れなかった最大の理由は、教師存在というのは、本質的に常に取り残される存在に過ぎんということに心底気づいたからである。さらに言うと、常に、生徒たちに先を越されてしまう存在だと言うことである。それを生徒の成長だとお気軽に、また厚顔に言う輩は、たっぷりと退職金をもらうまで、教育現場に居続けるのだろうが、僕には、こういう気づきが最もきつかったのである。置いてきぼりを食らうのって、嫌じゃあないですか?自分は同じところに常に留まっていなければならないのに。まじめな先生稼業に満足しておられる方々にはまことに申し訳ないのだが、僕には到底耐えられない、仕事。家庭を持ち、子どもをこの世に送り出したので、たぶん、経済的な要素が、長く同じ職場に居続けさせたのだろうと思う。子どもたちにとっては、つまらん父親だったとは思うが、僕の個性としては、よく耐えた方か、と総括せざるを得ないな。今日は、まあ、こんなところでしょうか。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム 長野安晃