ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○雑感その10

2010-12-28 12:03:06 | Weblog
○雑感その10
 不況や、それにともなう失職や、生活苦、孤独死などの問題は、とりわけ年の瀬ともなると、新聞紙上ではわざとらしく喧しい記事となって、年末を終わる。年明けには、また新たな年度の、あまり根拠のない希望的観測を含む記事が目立つようになる。不況も失職も生活苦も孤独死も、この時代、年がら年中、日本社会を覆い尽くしている現実なのに。新聞という報道媒体が、この種のルーティーンワークに甘んじていると、新聞報道から、物事の本質や、その本質をもとにして、未来を見通すなどということは出来なくなる。出来ごとの後追い記事ばかりが横行していて、これを報道などと言われてはたまったものではない。高い購読料を支払っているのだから、少なくとも日本は、日本独特の記者クラブ制度などは取っ払って、一日も早く記者の足を使って日本の現実、そこから世界の現実を報道しなければ、存在理由がなくなってしまうと思うのだが、どうだろうか?いま、出版されているかどうかは、定かでないが、立花隆氏の「アメリカジャーナリズム報告」(文庫)を読める機会があれば、ぜひとも目を通してご覧になるとよい。そもそもアメリカには、日本のように、警察署に各新聞社が控えている場などはいない。記者クラブというような制度自体の概念がそもそもないのである。だからこそ、かつてのアメリカ大統領のニクソンのウォーターゲート事件をたった二人の記者がスッパ抜けわけだ。それに比して、日本の大新聞は、制度上、政治家たち、経済界の大物、その他、社会に対して影響力を持ち得る人々に自ら利用されてしまう構造上の欠点がある。
 その意味では、日本における報道の自由という観点で云えば、比較論の範疇に過ぎないが、週刊誌の方がずっと大きな事件のスッパ抜きはお得意である。無論、売れてナンボの商売だから、書きなぐりのカスのような事件報道の方が圧倒的に多いにしても、読者にしてみれば、そこには何らかの発見の楽しさがある。そういえば、立花隆氏だって、元週刊文春の記者だったのである。いまや日本の知性の代表格のようになり上がってしまったが、立花が堕落しないのは、常に権力に擦り寄ることを自ら律してきたことが、立花をして、あらゆるジャンルに対する造詣を深め、それぞれの専門家たちとも対等に渡り合えるような個性になれたのだ、と思う。田中角栄のロッキード事件の真実を論証したのも立花だったし、執拗な赤旗の攻撃と党の嫌がらせに遭いながらも、非公然化時代、日本共産党の宮本顕治とソ連との繋がりや、スパイのリンチ殺害事件の真相に迫る著作はみごとなものだったと思う。
 さて、日本の4大紙も、地方紙も購読料は殆ど横並びなのだが、これはおかしいと思うのである。昨今の若者たちの中は、こういう報道に対して懐疑的で、むしろウェブ上から発信される報道を頼りにしている人が多いと思う。パソコンは無理をしても買うが、生活費を切り詰めようとすると、新聞購読料などは真っ先に削除される対象となるのは当然の結果なのかも知れない。昔のお父さんたちが、出勤前に、朝食をとりながら新聞を広げていた時代とは、生活感覚も違えば、労働の質も異なり、そもそもこの世界に生きるという定義そのものが、異なってきているように思う。新聞購読者が減ったというよりは、新聞を創る側の報道姿勢に問題があるからだし、もっと安く読めるようにしないと、賃金が低く抑えられている中で、現在の購読料は敢えて支払ってまでも、新聞を読むという気にならないのは必然である。NHKの受信料もしかり。高すぎる。NHKの記者、職員がどれだけの高給をもらっているかを知ったら、それこそアホらしくなるに決まっている。朝日新聞社の関連企業だと思うが、朝日文庫から、元朝日新聞記者の本多勝一氏が「NHK受信料拒否の論理」という本を出しているから、日本の放送法の問題とも絡めて、一度読んでご覧になるとよい。給与の低い若者も、何となく当然のように、NHK受信料を給与からの引き落としにされてしまっているようなので、まずは給与からの引き落としを止めてから、この書と向き合ってほしいものである。NHKこそは、企業努力をなすべき最も大きな組織だと僕は思うから。受信料を支払わなかった市井の人をNHK側が裁判にかけたのは、記憶に新しい。訴えられた5人のみなさんは、受信料を支払うことで折り合いをつけたようだが、まずは、NHK側は、本多氏が、受信料を支払った証明書を見せてもらいたいものである。サイレントマジョリティだけを受信料取り立てのターゲットにすることなかれ!そういう姿勢を卑劣というのである。
 受信料を支払わない理由として、NHKは観ないから、とか、テレビがないから、という理屈に対する屁理屈は、この人たちも被害者だと僕は思うが、受信料を取り立てる集金係には、マニュアル化して教え込まれている。だから、前記のようなことを言っても、集金人の人々は引き下がらない、いや、引き下がれないように教育されている。何ともつまらない現実だと思う。まとまりのない話になったが、年末ということで、こちらも思考が分散してしまうようである。当面は雑感ということで、書き散らしますが、悪しからず。

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