○<作法としての忘却>について少し。
心を開きあった間柄における心的関係性についての短い考察です。過去の苦悩に満ちた、忌まわしき出来事を忘却の彼方へとおしやる心的エネルギーのことを、たとえば、ここで、作法と呼んでおきます。人との出会いは、互いにどのようなタイミングで起こるのかは予測不可能です。それゆえに、互いに越え難き憂き目に遭遇する以前に出会えれば、これほど幸福なことはありません。また、その出会いが、互いの生き方に不可欠な要素を与えあい、生きる力に昇華し得る関係性であれば、なおさらのことでしょう。
さて、人間は誰しも、よほどの無菌室状態にでも置かれていなければ、生の過程で何ほどかの心の傷を負います。こころとからだは切り離して考えることが出来ませんから、当然、その傷は、心身に大きな影響を与え、現在に暗い影を落としている場合が殆どではないのでしょうか。この世界は、心的外傷を負わずして生き抜くことなど到底不可能と云っても過言ではないのではないでしょうか。それほどに、世界は生き難きファクターに満ち溢れています。生を投げ出そうとする動機が出てきて当然です。それでも何とか生き残ったとして、人は大抵、ソローのように、森の中に籠もるような生活は出来ません。泣きの涙で、世間に身を晒して生きていかなければならないのです。それが生きるということです。
傷だらけの人生の過程においても、人は他者と出会い、その他者と絆を紡ごうという希望を抱く存在です。互いに古き、悪しき、かつての絆の傷跡があろうと、また新たなそれを構築しようとします。これが生きる力です。また、別の角度から云うと、生きる力に根ざした絆を愛と呼びならわしているのです。ボッと火がついて燃え尽きる愛もありますけれど、ここで書きたい愛のかたちとは、絆を育んでいくようなものです。
余分な要素をすべて剥ぎとります。すると僕には、構築すべき愛のあり方は、かなり限定されたありようとして、感得できるのです。許しとか、受容と云った概念がすぐに思い浮かびますが、それらの概念の根底を支えるものとは一体何なのでしょうか?
それを忘却と云います。新たな関係性の中に、深き絆を構築しようと決意したとき、僕たちは、かつて身に沁みた苦い体験を、新たなパートナーのために忘却の彼方に投げ捨てようとします。分かり切ったことですが、それが苦い体験であればあるほど、人の脳髄の中に刻印され、言葉の意味どおりには、忘れ去ることなど出来るはずがないのです。それでも、投げ捨てようとする意思を持つのです。愛の対象者のために。それを<作法としての忘却>と称します。昨今、品格とか作法という、日本人が長きに渡って使わなかった言葉が頻出する時代ですけれど、たとえば、作法という言葉の使い方として、愛を構築するための<忘却の作法>ほど、的確な表現はないのではないか、と僕は思うのですが、さて、みなさんはいかがでしょうか?
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
心を開きあった間柄における心的関係性についての短い考察です。過去の苦悩に満ちた、忌まわしき出来事を忘却の彼方へとおしやる心的エネルギーのことを、たとえば、ここで、作法と呼んでおきます。人との出会いは、互いにどのようなタイミングで起こるのかは予測不可能です。それゆえに、互いに越え難き憂き目に遭遇する以前に出会えれば、これほど幸福なことはありません。また、その出会いが、互いの生き方に不可欠な要素を与えあい、生きる力に昇華し得る関係性であれば、なおさらのことでしょう。
さて、人間は誰しも、よほどの無菌室状態にでも置かれていなければ、生の過程で何ほどかの心の傷を負います。こころとからだは切り離して考えることが出来ませんから、当然、その傷は、心身に大きな影響を与え、現在に暗い影を落としている場合が殆どではないのでしょうか。この世界は、心的外傷を負わずして生き抜くことなど到底不可能と云っても過言ではないのではないでしょうか。それほどに、世界は生き難きファクターに満ち溢れています。生を投げ出そうとする動機が出てきて当然です。それでも何とか生き残ったとして、人は大抵、ソローのように、森の中に籠もるような生活は出来ません。泣きの涙で、世間に身を晒して生きていかなければならないのです。それが生きるということです。
傷だらけの人生の過程においても、人は他者と出会い、その他者と絆を紡ごうという希望を抱く存在です。互いに古き、悪しき、かつての絆の傷跡があろうと、また新たなそれを構築しようとします。これが生きる力です。また、別の角度から云うと、生きる力に根ざした絆を愛と呼びならわしているのです。ボッと火がついて燃え尽きる愛もありますけれど、ここで書きたい愛のかたちとは、絆を育んでいくようなものです。
余分な要素をすべて剥ぎとります。すると僕には、構築すべき愛のあり方は、かなり限定されたありようとして、感得できるのです。許しとか、受容と云った概念がすぐに思い浮かびますが、それらの概念の根底を支えるものとは一体何なのでしょうか?
それを忘却と云います。新たな関係性の中に、深き絆を構築しようと決意したとき、僕たちは、かつて身に沁みた苦い体験を、新たなパートナーのために忘却の彼方に投げ捨てようとします。分かり切ったことですが、それが苦い体験であればあるほど、人の脳髄の中に刻印され、言葉の意味どおりには、忘れ去ることなど出来るはずがないのです。それでも、投げ捨てようとする意思を持つのです。愛の対象者のために。それを<作法としての忘却>と称します。昨今、品格とか作法という、日本人が長きに渡って使わなかった言葉が頻出する時代ですけれど、たとえば、作法という言葉の使い方として、愛を構築するための<忘却の作法>ほど、的確な表現はないのではないか、と僕は思うのですが、さて、みなさんはいかがでしょうか?
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃