○この歳にして、自分探し(5)・・・その場、その場しか見えない単眼的人間として語る
70年安保の荒波(とはいっても、そんなものに呑み込まれもせずに、しっかりと前を見据えていた友人の方が多かったのが実情なんだけど)をまともに被る前は、まじめに大学の研究者になるか、はたまた世界中をマタにかけるような実業の世界で活躍したい、と思っていたわけである。いまにして思えばたわいもない戯言のようにも感じるけれど。しかし、僕は勇敢にも(ウソですよ。現実のしんどさよりも、空想的な革命論に逃げただけです。)、学業を放棄して、ヘルメットを目深に被り、顔にはタオルを巻き、真っ黒なサングラスをかけ、毎日アジっていたのでのである。当然、学校では完璧な脱落組ですね。自分のねばりのなさ、弱さを、時代の最先端を走っているという言い訳で誤魔化していただけのこと。角度を変えれば、確かにちょとした武勇伝にもなり得るけれど、たぶん、そういう書き方は、真っ赤なウソに限りなく近いものだろう。
さて、荒波?に呑み込まれなかった友人のこと。3人の思い出を少々語る。二人はまさに成績で争っていたライバルどうしで、かなりな仲よし。もう一人は頭の回転はよろしいが、能力的には落ちる仲よしのこと。高3になって(なんとか放校もされずにギリギリで進学してきたわけです、僕は。)、当時は大学解体などとウソぶいていたこともあり、大学受験を放棄した。実際は、もはや数学の問題はまったく解けず、理科もダメで、英語も嫌になるほど、成績下位者で、その現実から逃避するために芦屋のセイド―外語学院(いまでもあるはずです。知る人ぞ知る有名校だから)にフランス語をやりに行ってウサを晴らしていたわけで、とくに、前記した二人のライバルには到底かなわなくなっていた言い訳だな、やはりフランス語の勉強は。
一人は京大法学部から官僚になるべくがんばっていたけれど、母子家庭でもあり、現役合格が絶対条件。合格圏内にいたのに、大阪大学に落として合格。合格後に、京大の時計台を眺めて、泣いたとか。メソメソするくらいなら、腹を括って京大受験しろよ!とは決して言うべき立場ではない。幼い頃から彼は母親と苦労をともにしている。僕のようなアマちゃんとはわけが違うわけだから。いまは、神戸市役所の幹部になっているはずだ。いや、そうあってくれなくては困る!もう一人。神戸大の経済学部に。銀行マンになるべく、大学に入学したら、すぐにセイド―外語学院に入って、英語をやりはじめた。東洋信託銀行に入行してから、その能力を生かして、すぐにイギリスに為替担当で赴任だ。出世コースだな。素直にうれしかったね、僕は。ロンドンから手紙を受け取った。その頃、偶然にも僕は京都の私学の英語の教師になっていたが、当時の僕は、英語の手紙の宛先の書き方もロクに知らない無能な教師だったわけで、打てないタイプライターで、封筒を何枚もをダメにしながら、なんとか投函した。単なる見栄である。その後の銀行再編の波で、東洋信託銀行の名が消えたが、なんとか生き残り、出世してほしい。絶対に負けてほしくはない。心底そう思っている。
3人目は、神戸の家具屋の息子。お兄ちゃんが、2浪して地方の国立大の医学部に進学したが、この男は真面目だが、そういう能力はない。代わりに商売人気質を知らず知らず身に付けたような若者だった。東京の3流どころの私大に行った。学歴としては、大学も必要ないところだから、本人も東京時代を大いに楽しんだと思う。大学時代によくドライブに誘われた。その頃は僕も京都のどうでもいいような私大に入っていて、アルバイトに明け暮れていたので、彼の誘いは気分転換にはちょうどよかったわけである。しかし、ただ楽しかったわけではない。僕だって、家庭的には大いに問題ありの父親の息子だったのに、彼は、自分の父親のことをグチる、グチる。外に女をつくって大変だとか、まあ、そんなレベルなんだけど。それなら、僕の親父はどうなる?と彼に言いたかったが、礼儀としていつも聞き役に回る。それでよい、と思っていた。銀行に入った友人と三人で会う機会が、後年あり、彼はその頃すでに家具屋の社長で、飯を食いながら、商売談義である。僕は京都。二人は神戸住まい。で、銀行マンたる友人が結婚話を打ち明けたら、家具屋の息子の目が輝いた。自分のところで家具を買ってくれ!安くしとくから、と商談。長野、おまえも頼むだと。ところが、連絡先の名刺を二人に渡そうとして、名刺が一枚しかないことに気づいて、彼は躊躇なく銀行マンの友人に手渡したね。同じ神戸で、より確実な客だと判断したのだろう。まあ、商売人根性としては正当だな。でも、その時は、少々嫌な気分になったんだ、正直に言うと。
3人ともに、幸せな人生を歩んでいてほしい、と思う。こういう心境に立ち至るまでは、おぞましい僻み根性を扱いかねていたけれど、もはや、この歳になると、かつて交流があった親しき友人たちの、その後の人生が少しでも豊かなものであってほしい、と心底思う。こんなふうに思えるようになってから、僕の心はずいぶんと軽くなった。ありふれた観想だけど、書いておかねば、と思ったわけである。単眼的思考から少しは抜け出せたかな?読んでくださった方は退屈極まりなき話だったと思う。ご容赦あれ!
文学ノートかつてぼくはここにいた
長野安晃
70年安保の荒波(とはいっても、そんなものに呑み込まれもせずに、しっかりと前を見据えていた友人の方が多かったのが実情なんだけど)をまともに被る前は、まじめに大学の研究者になるか、はたまた世界中をマタにかけるような実業の世界で活躍したい、と思っていたわけである。いまにして思えばたわいもない戯言のようにも感じるけれど。しかし、僕は勇敢にも(ウソですよ。現実のしんどさよりも、空想的な革命論に逃げただけです。)、学業を放棄して、ヘルメットを目深に被り、顔にはタオルを巻き、真っ黒なサングラスをかけ、毎日アジっていたのでのである。当然、学校では完璧な脱落組ですね。自分のねばりのなさ、弱さを、時代の最先端を走っているという言い訳で誤魔化していただけのこと。角度を変えれば、確かにちょとした武勇伝にもなり得るけれど、たぶん、そういう書き方は、真っ赤なウソに限りなく近いものだろう。
さて、荒波?に呑み込まれなかった友人のこと。3人の思い出を少々語る。二人はまさに成績で争っていたライバルどうしで、かなりな仲よし。もう一人は頭の回転はよろしいが、能力的には落ちる仲よしのこと。高3になって(なんとか放校もされずにギリギリで進学してきたわけです、僕は。)、当時は大学解体などとウソぶいていたこともあり、大学受験を放棄した。実際は、もはや数学の問題はまったく解けず、理科もダメで、英語も嫌になるほど、成績下位者で、その現実から逃避するために芦屋のセイド―外語学院(いまでもあるはずです。知る人ぞ知る有名校だから)にフランス語をやりに行ってウサを晴らしていたわけで、とくに、前記した二人のライバルには到底かなわなくなっていた言い訳だな、やはりフランス語の勉強は。
一人は京大法学部から官僚になるべくがんばっていたけれど、母子家庭でもあり、現役合格が絶対条件。合格圏内にいたのに、大阪大学に落として合格。合格後に、京大の時計台を眺めて、泣いたとか。メソメソするくらいなら、腹を括って京大受験しろよ!とは決して言うべき立場ではない。幼い頃から彼は母親と苦労をともにしている。僕のようなアマちゃんとはわけが違うわけだから。いまは、神戸市役所の幹部になっているはずだ。いや、そうあってくれなくては困る!もう一人。神戸大の経済学部に。銀行マンになるべく、大学に入学したら、すぐにセイド―外語学院に入って、英語をやりはじめた。東洋信託銀行に入行してから、その能力を生かして、すぐにイギリスに為替担当で赴任だ。出世コースだな。素直にうれしかったね、僕は。ロンドンから手紙を受け取った。その頃、偶然にも僕は京都の私学の英語の教師になっていたが、当時の僕は、英語の手紙の宛先の書き方もロクに知らない無能な教師だったわけで、打てないタイプライターで、封筒を何枚もをダメにしながら、なんとか投函した。単なる見栄である。その後の銀行再編の波で、東洋信託銀行の名が消えたが、なんとか生き残り、出世してほしい。絶対に負けてほしくはない。心底そう思っている。
3人目は、神戸の家具屋の息子。お兄ちゃんが、2浪して地方の国立大の医学部に進学したが、この男は真面目だが、そういう能力はない。代わりに商売人気質を知らず知らず身に付けたような若者だった。東京の3流どころの私大に行った。学歴としては、大学も必要ないところだから、本人も東京時代を大いに楽しんだと思う。大学時代によくドライブに誘われた。その頃は僕も京都のどうでもいいような私大に入っていて、アルバイトに明け暮れていたので、彼の誘いは気分転換にはちょうどよかったわけである。しかし、ただ楽しかったわけではない。僕だって、家庭的には大いに問題ありの父親の息子だったのに、彼は、自分の父親のことをグチる、グチる。外に女をつくって大変だとか、まあ、そんなレベルなんだけど。それなら、僕の親父はどうなる?と彼に言いたかったが、礼儀としていつも聞き役に回る。それでよい、と思っていた。銀行に入った友人と三人で会う機会が、後年あり、彼はその頃すでに家具屋の社長で、飯を食いながら、商売談義である。僕は京都。二人は神戸住まい。で、銀行マンたる友人が結婚話を打ち明けたら、家具屋の息子の目が輝いた。自分のところで家具を買ってくれ!安くしとくから、と商談。長野、おまえも頼むだと。ところが、連絡先の名刺を二人に渡そうとして、名刺が一枚しかないことに気づいて、彼は躊躇なく銀行マンの友人に手渡したね。同じ神戸で、より確実な客だと判断したのだろう。まあ、商売人根性としては正当だな。でも、その時は、少々嫌な気分になったんだ、正直に言うと。
3人ともに、幸せな人生を歩んでいてほしい、と思う。こういう心境に立ち至るまでは、おぞましい僻み根性を扱いかねていたけれど、もはや、この歳になると、かつて交流があった親しき友人たちの、その後の人生が少しでも豊かなものであってほしい、と心底思う。こんなふうに思えるようになってから、僕の心はずいぶんと軽くなった。ありふれた観想だけど、書いておかねば、と思ったわけである。単眼的思考から少しは抜け出せたかな?読んでくださった方は退屈極まりなき話だったと思う。ご容赦あれ!
文学ノートかつてぼくはここにいた
長野安晃