ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○この歳にして、自分探し(1)

2011-12-09 14:46:33 | 観想
○この歳にして、自分探し(1)

過去の出来事、そして、その各々の出来事によって、自分が何を考え、どのような心的状況に置かれていたのかを、敢えて思い起したくはない、という心境もある一方で、嫌な思い出なんて早く忘れて、前を、未来だけを見ましょう!なんていう世間ずれした、無責任な励まし?の言葉なんて、とうの昔に信用できなくなってもいる。

よく考えてみれば分かることだが、いくら過去に悲惨な体験があったにしても、逆立ちしてもそれをきれいさっぱり忘れ去るなんてことは出来はしないのである。人間はそれほど単純には出来ていない。ただし、意味なく他者の過去をほじくり出すという行為は、その当人が忌避するならば、止めるに越したことはない。なにもそんなことをしなくても、当人には過去の出来事の一つ一つが、拭い難く脳髄の中に刻印されている。その深く刻み込まれた過去の跡を辿りつつ、それを土台にしながら未来を展望するのに、助けを求めているのなら、大いに手を貸してあげればよい。それが人としての優しさだ。ただ、人は常に前を向きたがっているとは限らない。思考停止状態でもよい、立ち止まっていたいときもある。自分にとって大切な人たちが、いま、どの時点にいるのかによって、自分のたち振る舞いのあり方を自在に変えること。これも人としての洞察力のなせるワザだ。

自分探しの旅に関する観想に、上記のようなことを書き添えるのは、自分探しの旅こそが、自己の内面に収斂していくような思想のベクトルでは決してなし得ぬことだからである。自己の内面に沈潜していく精神の彷徨にとって不可欠なファクターは、信頼出来る他者がいるかどうか、なのである。なぜなら、そこにこそ、世界からの、か細い光であれ、それが絶えることなく放射されているのであり、これを換言すれば、自分探しの旅が、世界と断絶することなく、探し当てた過去の残滓の中の、現在に通用するエッセンスが、すべて自己の未来と深くむすび付いているということと同義語であるからだ。

現実に起こった過去の出来事は変わりようがない。なぜなら、それは単なる現象に過ぎないからである。人は必ず生起した現象から影響を受ける。あるいは学ぶ。その影響の受け方、学び方こそが、自分探し(過去の総括をもとにしなければならないのは必然だ)のコア-である。つまり、こう言えるのである。過去の出来事は普遍である。しかし、その出来事から受けた自己の内面と思想の変化、その後の変奏の現象的側面を、僕の解釈から云えば、現象学というのである。現象学の大御所たるフッサールがこれを聞いたとした、たぶん、不満タラタラなのだろうが、そんなことはいまの僕にはどうだってよい。幸い、というか、不幸にも、というか、僕は学者ではなく、また学者になるだけの器量・才能もなかったわけだから。市井の人間の世迷い事、それを僕の自分探しの定義とする。それでなんら構わない。過去の出来事は人生の総括として、すでに書きつづってはきた。が、同じ現象であれ、その現象をどのように解釈し、評価するのか、はたまた、それらが、自己の未来に向けてどのような足がかりがあるのか、再確認する必要がある。同じ現象であれ、異なる角度から見返せば、様相はまるで違ったものにみえるものだろうから。あるいは、これまで語り得なかったことは、すべからく書き切ろうとも思う。何のために?無論、自分と、自分に関わってくれる大切な人たちのために、である。まだまだ、自分には未来が開ける可能性があると思っている。おとなしく、この人生舞台から降りるつもりはない。さて、今日は<自分探し>へのプロローグである。どこまでもエビローグに辿りつきそうな予測の立たないブロローグなのである。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃