○ラ・ロシュフコーの箴言から学ぶことは多いな。
「かつて美しく愛らしかった老婦人が陥る最も危険な滑稽さは、自分がもはやそうでないことを忘れてしまうことである」という箴言が矢のように僕の脳髄の中に突き刺さる。無論、表現上は、女性の美の衰えを自覚し得ぬ老女への箴言であるかのようでいて、本質はもっと深きところに在るからだ。
自分が生の大半の時間を空費してきて、空費してきた事実に気づいたのも、長年ルーティーンのようにこなしてきた仕事を中途半端な時期に失い、失ったとき、時既に遅しで、な~んにもなれない自分の存在を、無能さゆえに、とことん身に沁み入るように諒解せざるを得なかったわけで、それならそれで、自分の不徳さとして感じ入り、おとなしく人生を閉じる準備でもしていればいいものを、まだ何かしらなし得るはずだ、と、もがき苦しんだことが、今さらながらアホらしくなる。なにより馬鹿げているのは、自分が根拠なき展望を持とうと焦っていたことに対して、意味を付加しようと躍起になって、ついこの間まで生きてきたことだろうか。前記した、ラ・ロシュフコーの箴言の一つは、美の喪失を自覚し得ないままに生きていることの滑稽さについての言及だが、それにしても、この言葉は、僕にはかなりな質量を持った言葉として、からだ全体に圧しかかる。
この箴言は、人生の爛熟期を経て、思想の熟成が内的に起こるべきことに無自覚であるゆえに、人間が生きることの意味を遂に知り得ないまま、歳老いていくことの醜悪さについての戒めであろう。この種の醜さの、まったき具現化としての自己の存在が、時代を超えた、いま、ここに在ることの無意味性を自覚せしめられるほど、僕にとって、酷薄なものはない。生きるという、終わりが見えないという幻想の、化けの皮を剥がす直截的な素材としては、逆説的に云えば、申し分なき、箴言であるからだ。
生きることに何の意味があるの?という、青年期の憤懣がいまだに体内に毒素のように溜まり、前を向こうとする意思をことごとく蝕んでいく。さすがに若き頃のように、常態化はしていないにしても、このような義憤は、かなり頻繁に立ち現れる亡霊のごとき存在だ。
いま、この時点で前向きに生きる意味とは、生きることを、生の終焉というゴールを見据えながら発見していく新たな価値意識のことだろう、と思っている。換言すれば、死をリアルな存在として認識しながら、生の意味を見出そうとすることである。かなり難解なことだが、やり抜きたい。そうでなければ、失敗多き自分の人生との折り合いがつかないからである。これは、したり顔でうそぶくような、悟りなどとは、まるで違う生に対する切り口だ。僕はあくまで、ここから、再度生き抜くことに挑戦する。これが、僕にとっての、生きるという意味だと心の深いところで認識しているからである。そういう意味で、前を向こう!と、僕は自分に昨今常に云い聞かせているのである。がんばりますよ。限定つきだけれど、まだまだ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
「かつて美しく愛らしかった老婦人が陥る最も危険な滑稽さは、自分がもはやそうでないことを忘れてしまうことである」という箴言が矢のように僕の脳髄の中に突き刺さる。無論、表現上は、女性の美の衰えを自覚し得ぬ老女への箴言であるかのようでいて、本質はもっと深きところに在るからだ。
自分が生の大半の時間を空費してきて、空費してきた事実に気づいたのも、長年ルーティーンのようにこなしてきた仕事を中途半端な時期に失い、失ったとき、時既に遅しで、な~んにもなれない自分の存在を、無能さゆえに、とことん身に沁み入るように諒解せざるを得なかったわけで、それならそれで、自分の不徳さとして感じ入り、おとなしく人生を閉じる準備でもしていればいいものを、まだ何かしらなし得るはずだ、と、もがき苦しんだことが、今さらながらアホらしくなる。なにより馬鹿げているのは、自分が根拠なき展望を持とうと焦っていたことに対して、意味を付加しようと躍起になって、ついこの間まで生きてきたことだろうか。前記した、ラ・ロシュフコーの箴言の一つは、美の喪失を自覚し得ないままに生きていることの滑稽さについての言及だが、それにしても、この言葉は、僕にはかなりな質量を持った言葉として、からだ全体に圧しかかる。
この箴言は、人生の爛熟期を経て、思想の熟成が内的に起こるべきことに無自覚であるゆえに、人間が生きることの意味を遂に知り得ないまま、歳老いていくことの醜悪さについての戒めであろう。この種の醜さの、まったき具現化としての自己の存在が、時代を超えた、いま、ここに在ることの無意味性を自覚せしめられるほど、僕にとって、酷薄なものはない。生きるという、終わりが見えないという幻想の、化けの皮を剥がす直截的な素材としては、逆説的に云えば、申し分なき、箴言であるからだ。
生きることに何の意味があるの?という、青年期の憤懣がいまだに体内に毒素のように溜まり、前を向こうとする意思をことごとく蝕んでいく。さすがに若き頃のように、常態化はしていないにしても、このような義憤は、かなり頻繁に立ち現れる亡霊のごとき存在だ。
いま、この時点で前向きに生きる意味とは、生きることを、生の終焉というゴールを見据えながら発見していく新たな価値意識のことだろう、と思っている。換言すれば、死をリアルな存在として認識しながら、生の意味を見出そうとすることである。かなり難解なことだが、やり抜きたい。そうでなければ、失敗多き自分の人生との折り合いがつかないからである。これは、したり顔でうそぶくような、悟りなどとは、まるで違う生に対する切り口だ。僕はあくまで、ここから、再度生き抜くことに挑戦する。これが、僕にとっての、生きるという意味だと心の深いところで認識しているからである。そういう意味で、前を向こう!と、僕は自分に昨今常に云い聞かせているのである。がんばりますよ。限定つきだけれど、まだまだ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃