○この歳にして、自分探し(2)・・・酢豚の味、チラシ寿司の味
親父について書いた日記はたくさんあるが、それにしてもおかしな男だった。彼が肝臓ガンでなくなった年齢を遥かに越えてみると、あんな男には絶対になるものか、と思って生きてきたにしては、いま、無論置かれた状況は異なるにしても、生活のうき沈みという観点から見ると、いかにも同じ遺伝子を持っている人間どうしだと感じざるを得ない。
教師になり立ての頃、そう、まだ6ヵ月しか経っていなかった、ある日曜日の午後に、長い間姿を消していた親父が、確か僕より2つ歳下のオナゴ(あの頃はまだ入籍はしていなかったか?二人でとんずらして数年後だ)と連れだって、どこをどうやって捜し当てたのか、僕の住処である見るも無残なボロアパートに唐突に訪ねてきたのである。金の無心。何十万単位。あるわけがない、と言ったら、おまえ、教師なんだろう?学校に貸してもらえないのか?だと。僕もまだ世間知らずだったのか、その場で学校の規定を調べてみたら、1年未満の就業では、学校からも共済組合からも借りることが出来なかったのである。いまは、どういう規定になっているのか知らないが、当時はそうだった。それを説明したら、親父はわけのわからんことを言い出した。自分の預金通帳を預けるから、何とかならんか?だと。何をどう言おうと、逆さに振っても鼻血も出ない。親父の情けなさもどうしようもなかったが、傍に座っているオナゴに恥をかかせてはいかん、と何故だか思い、金を貸せぬ自分に腹が立っていた自分がいた。二人はすごすごと帰って行ったが、夕暮れ時に、アパートの近くの餃子の王将で、いつもの酢豚定食と餃子で、ビールを2本。いまはまったくの下戸だが、その頃は何故だか飲んでいた。同じ味付けのはずなのに、その時の酢豚は酢がきき過ぎていて、妙にすっぱかった。心の底は根拠のない敗北感でほろ苦い味。目の前の酢豚を食べるとすっぱ過ぎた。それからまた、親父とは音信不通。
親父が58歳になる年の夏に肝臓にガンを発症して、入院。叔母から知らせを聞いて、長年会っていなかった親父を見舞いに京都から一人車で訪ねて行った。足の付け根から太いカテーテルを指し込まれて、肝臓のガン細胞を何かの物質で囲い込むのだと担当医から説明を受ける。が、その時の印象は、医学もなんとも原初的な治療法しかやらないんだな、という率直な思いと、それでは治らんだろうにという切ない感覚。痛がっていた親父の枕元に、病院の飯は合わないだろうから、うまい飯でも食えよ、という伝言を添えて、5万円入りの封筒をそっと枕元に置いて帰京した。
秋口には、医者も諦めたのか、退院させた。神戸の北区にある市営住宅まで訪ねていったら、教師になり立ての頃にやって来たオナゴが女房になっていて、女の子までいた。二人の言によると、僕の妹なのだそうだ。僕の下の息子と同じ歳だったから、妙な気分に陥る。昼飯に彼女がつくったチラシ寿司を食す。親父は左手で器用に大盛りのチラシ寿司をあっと云う間にたいらげた。僕はまだ半分。そう云えば、昔から飯を喰らうのが速かったが、ますます加速しているように思えた。何だか無理矢理口に押し込んでいるかのように。病気のせいというより、箸運びの速さに、僕の幼い頃からずっと変わっていない親父の、日常性への不全感を込めて、僕に誇示しているかのように。どう控えめに見ても親父は幸せそうには見えなかった。病気であるから、そうだとも思えなかった。チラシ寿司の味?無論、すっぱ過ぎた。たぶん、2度のすっぱさの過剰さは、親父の人生のドタバタ劇に自分を重ね合わせていたせいで、味覚がおかしくなっていたからだろう。その頃、僕はまだ教師であり、教師なりのジタバタはあったにせよ、生活はそれなりに成立していた。が、自分の日常性に対する不全感は、親父同様に、日々深まるばかりだったのである。その年の2月に親父が死去し、彼の死去の後に、僕の日常性は徐々にだが、確かな?瓦解をし始めるのである。血は争えぬ?確かに。親父が亡くなった年齢を越えて、僕の生活はドタバタの連続と相成った。こういうの、遺伝するものなのか、とかなり真剣に思ったね。馬鹿げてはいるが、これが本音である。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
親父について書いた日記はたくさんあるが、それにしてもおかしな男だった。彼が肝臓ガンでなくなった年齢を遥かに越えてみると、あんな男には絶対になるものか、と思って生きてきたにしては、いま、無論置かれた状況は異なるにしても、生活のうき沈みという観点から見ると、いかにも同じ遺伝子を持っている人間どうしだと感じざるを得ない。
教師になり立ての頃、そう、まだ6ヵ月しか経っていなかった、ある日曜日の午後に、長い間姿を消していた親父が、確か僕より2つ歳下のオナゴ(あの頃はまだ入籍はしていなかったか?二人でとんずらして数年後だ)と連れだって、どこをどうやって捜し当てたのか、僕の住処である見るも無残なボロアパートに唐突に訪ねてきたのである。金の無心。何十万単位。あるわけがない、と言ったら、おまえ、教師なんだろう?学校に貸してもらえないのか?だと。僕もまだ世間知らずだったのか、その場で学校の規定を調べてみたら、1年未満の就業では、学校からも共済組合からも借りることが出来なかったのである。いまは、どういう規定になっているのか知らないが、当時はそうだった。それを説明したら、親父はわけのわからんことを言い出した。自分の預金通帳を預けるから、何とかならんか?だと。何をどう言おうと、逆さに振っても鼻血も出ない。親父の情けなさもどうしようもなかったが、傍に座っているオナゴに恥をかかせてはいかん、と何故だか思い、金を貸せぬ自分に腹が立っていた自分がいた。二人はすごすごと帰って行ったが、夕暮れ時に、アパートの近くの餃子の王将で、いつもの酢豚定食と餃子で、ビールを2本。いまはまったくの下戸だが、その頃は何故だか飲んでいた。同じ味付けのはずなのに、その時の酢豚は酢がきき過ぎていて、妙にすっぱかった。心の底は根拠のない敗北感でほろ苦い味。目の前の酢豚を食べるとすっぱ過ぎた。それからまた、親父とは音信不通。
親父が58歳になる年の夏に肝臓にガンを発症して、入院。叔母から知らせを聞いて、長年会っていなかった親父を見舞いに京都から一人車で訪ねて行った。足の付け根から太いカテーテルを指し込まれて、肝臓のガン細胞を何かの物質で囲い込むのだと担当医から説明を受ける。が、その時の印象は、医学もなんとも原初的な治療法しかやらないんだな、という率直な思いと、それでは治らんだろうにという切ない感覚。痛がっていた親父の枕元に、病院の飯は合わないだろうから、うまい飯でも食えよ、という伝言を添えて、5万円入りの封筒をそっと枕元に置いて帰京した。
秋口には、医者も諦めたのか、退院させた。神戸の北区にある市営住宅まで訪ねていったら、教師になり立ての頃にやって来たオナゴが女房になっていて、女の子までいた。二人の言によると、僕の妹なのだそうだ。僕の下の息子と同じ歳だったから、妙な気分に陥る。昼飯に彼女がつくったチラシ寿司を食す。親父は左手で器用に大盛りのチラシ寿司をあっと云う間にたいらげた。僕はまだ半分。そう云えば、昔から飯を喰らうのが速かったが、ますます加速しているように思えた。何だか無理矢理口に押し込んでいるかのように。病気のせいというより、箸運びの速さに、僕の幼い頃からずっと変わっていない親父の、日常性への不全感を込めて、僕に誇示しているかのように。どう控えめに見ても親父は幸せそうには見えなかった。病気であるから、そうだとも思えなかった。チラシ寿司の味?無論、すっぱ過ぎた。たぶん、2度のすっぱさの過剰さは、親父の人生のドタバタ劇に自分を重ね合わせていたせいで、味覚がおかしくなっていたからだろう。その頃、僕はまだ教師であり、教師なりのジタバタはあったにせよ、生活はそれなりに成立していた。が、自分の日常性に対する不全感は、親父同様に、日々深まるばかりだったのである。その年の2月に親父が死去し、彼の死去の後に、僕の日常性は徐々にだが、確かな?瓦解をし始めるのである。血は争えぬ?確かに。親父が亡くなった年齢を越えて、僕の生活はドタバタの連続と相成った。こういうの、遺伝するものなのか、とかなり真剣に思ったね。馬鹿げてはいるが、これが本音である。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃