○人間の強さ、弱さって、いったいどういうことなんだろうか?
新党大地代表の鈴木宗男が仮釈放で、今日出所してきたそうな。二度目の収監からの復帰である。一度目などは、収監中に胃ガンが見つかり、手術して、ガンすら乗り切った。鈴木は強面の中川一郎の秘書だった。ところが、当の中川一郎は、総裁選で敗北して、それが原因だったのかどうかは分からぬが、ホテルのバスルームのドアノブにタオルをかけて縊死した。どう控えめに見ても、自死するようなタイプには見えなかったのに。鈴木宗男が犯罪者として裁かれたということは、政治家として権力を恣意的に行使し過ぎたからだが、それにしても、一度目の収監後の総選挙では当選しているわけで、まあ、逞しいとしか、形容のしようがない。中川一郎の息子の中川昭一と熾烈な選挙戦を闘ったが、そのときは、選挙地盤を受け継いだ中川昭一に敗北したと記憶する。それでも、その後衆院議員となるわけだから、鈴木宗男という人の精神の強靭さをどう解釈したらよいものか、よく分からない、というのが僕の本音である。もはや、政治家としての資質の問題などという次元を超えて、唖然とするほどにこの人の精神性に興味が湧く。たぶんアル中だっただろう、政治家としては、サラブレッドだった中川昭一は、すでにこの世の人ではない。変死だった。
そう云えば、田中角栄は、総理大臣として憲政史上初めて、ロッキード事件で有罪判決を受けて収監されて、その後も影の総理などと言われてはいたが、腹心の竹下登に裏切られて、いまはバカみたいに安い酒になってしまった、当時の高級酒の代表格だったオールド・パーの過飲にて、脳溢血で倒れ、政界から実質的に引退せざるを得なかった。政治の栄光も汚辱もすべてを一身に引き受けた、古典的なタイプの、庶民的な強さを売りにしていた、あの田中角栄が倒れるかなあ、という素朴な驚きを味わった人は僕だけではなかっただろう。無論、「田中角栄研究」における立花隆の田中角栄批判の立論には賛意を称しつつも。
人間の精神の強靭さ、脆弱さは、いったいどのようにして決定されるものなのか、まったく分からないという方が、事の本質から云って妥当な判断の仕方ではなかろうか。難関辛苦も何のその、という感じで、前に前に突き進む。そのまま生き残るかと思えば、ある日ポキリと折れる。あるいは、まったくヤワな感性なのか、と思っていた人が、折れそうで折れずに、生き残る。極端な比較だが、こういうことが人生においてはしばしば起こる。人間の精神とは如何に不可思議なものなのか?
僕はここで、人生の辛苦に耐える術を述べるつもりなど毛頭ない。敢えて言うなら、そういうことの無意味さだけは、よく分かっているだけである。自分でもなぜいままで生き残ってきたのか、よく分からない生き方だった、と思う。感傷主義的な思い入れではなく、実際に、生と死の境を行き来するようなタイトロープのごとき生の軌跡だった、と思う。他者に伝えるべき、生きるための、生き抜くための、なにほどの方法論も持ち合わせてもいない。無責任なようだが、人生など、一瞬先は闇なのである。生きるとは、闇の中を手探りで突き進むことそのものではないか?闇の中で足が滑って、自死へ傾斜して、何度かそういう経験を踏んで、やはり生き残った限りは、また人生という闇の中へ、今度は足を踏みしめながら、入り込んでいくしかないのだろう。一瞬先は闇にしても、漆黒の闇の中で、しっかりと足を踏みしめてさえいれば、なんとかなりそうな気がしている今日この頃である。今日の観想として、書き遺しておこうと思う。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
新党大地代表の鈴木宗男が仮釈放で、今日出所してきたそうな。二度目の収監からの復帰である。一度目などは、収監中に胃ガンが見つかり、手術して、ガンすら乗り切った。鈴木は強面の中川一郎の秘書だった。ところが、当の中川一郎は、総裁選で敗北して、それが原因だったのかどうかは分からぬが、ホテルのバスルームのドアノブにタオルをかけて縊死した。どう控えめに見ても、自死するようなタイプには見えなかったのに。鈴木宗男が犯罪者として裁かれたということは、政治家として権力を恣意的に行使し過ぎたからだが、それにしても、一度目の収監後の総選挙では当選しているわけで、まあ、逞しいとしか、形容のしようがない。中川一郎の息子の中川昭一と熾烈な選挙戦を闘ったが、そのときは、選挙地盤を受け継いだ中川昭一に敗北したと記憶する。それでも、その後衆院議員となるわけだから、鈴木宗男という人の精神の強靭さをどう解釈したらよいものか、よく分からない、というのが僕の本音である。もはや、政治家としての資質の問題などという次元を超えて、唖然とするほどにこの人の精神性に興味が湧く。たぶんアル中だっただろう、政治家としては、サラブレッドだった中川昭一は、すでにこの世の人ではない。変死だった。
そう云えば、田中角栄は、総理大臣として憲政史上初めて、ロッキード事件で有罪判決を受けて収監されて、その後も影の総理などと言われてはいたが、腹心の竹下登に裏切られて、いまはバカみたいに安い酒になってしまった、当時の高級酒の代表格だったオールド・パーの過飲にて、脳溢血で倒れ、政界から実質的に引退せざるを得なかった。政治の栄光も汚辱もすべてを一身に引き受けた、古典的なタイプの、庶民的な強さを売りにしていた、あの田中角栄が倒れるかなあ、という素朴な驚きを味わった人は僕だけではなかっただろう。無論、「田中角栄研究」における立花隆の田中角栄批判の立論には賛意を称しつつも。
人間の精神の強靭さ、脆弱さは、いったいどのようにして決定されるものなのか、まったく分からないという方が、事の本質から云って妥当な判断の仕方ではなかろうか。難関辛苦も何のその、という感じで、前に前に突き進む。そのまま生き残るかと思えば、ある日ポキリと折れる。あるいは、まったくヤワな感性なのか、と思っていた人が、折れそうで折れずに、生き残る。極端な比較だが、こういうことが人生においてはしばしば起こる。人間の精神とは如何に不可思議なものなのか?
僕はここで、人生の辛苦に耐える術を述べるつもりなど毛頭ない。敢えて言うなら、そういうことの無意味さだけは、よく分かっているだけである。自分でもなぜいままで生き残ってきたのか、よく分からない生き方だった、と思う。感傷主義的な思い入れではなく、実際に、生と死の境を行き来するようなタイトロープのごとき生の軌跡だった、と思う。他者に伝えるべき、生きるための、生き抜くための、なにほどの方法論も持ち合わせてもいない。無責任なようだが、人生など、一瞬先は闇なのである。生きるとは、闇の中を手探りで突き進むことそのものではないか?闇の中で足が滑って、自死へ傾斜して、何度かそういう経験を踏んで、やはり生き残った限りは、また人生という闇の中へ、今度は足を踏みしめながら、入り込んでいくしかないのだろう。一瞬先は闇にしても、漆黒の闇の中で、しっかりと足を踏みしめてさえいれば、なんとかなりそうな気がしている今日この頃である。今日の観想として、書き遺しておこうと思う。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃