○こんな夢を見た。
中学生の頃の断片的な出来事のいくつかを夢に見た。その一つをとりあえずは書き遺す。同級生に在日の友人がいた。彼は在日二世だ。末っ子だったと思う。勉強はよく出来た。しかし、彼が住んでいたのは、運河沿いの、満潮が来れば殆ど床下すれすれまで海水がせり上がってくる、板を打ち付けただけの不法建築の家だ。上水道だけがあって、下水道のない、台所から汚れた水が垂れ流しの、彼の家に遊びに行けば、子どもながらに馴染めない異臭に堪えなければならないところだった。父、母は在日一世で、日本語が危うい。母は気丈な性格で、いつも「チョーセン、チョーセン、ナゼワルイ!オナジメシクテ、トコ、チガウ!」(朝鮮、朝鮮というが、それのどこが悪い!同じ飯を食っているのに、人間としてどこが違うというのだろうか!)という慨嘆を漏らすのが彼女の常である。彼女のこういう憤りにたじたじとしながらも、いつも僕が遊びに行くと、歓待してくれて、ホルモンを焼いてくれたし、キムチは見たこともない、白菜自体がピンク色の超激辛だった。彼女に言わせると、「コレ、ホンマモン、キムチ、ニポンジン、クッテルノハ、キムチチガウ!」だったが、確かに激辛だったけれど、ホルモン焼きとこのキムチで飯がすすんだ。うまかった、のひと言に尽きる。彼は性格のいい、まじめな男で、公立の工業学校に進学した。時代の波に乗っかって、どこかの会社でいいポジションをとっていることだろう。心からそう願う。平成のリストラの嵐になんかに巻き込まれていなければいいけれど。
いじめは当時もあった。たとえば、赤や黄色のチョークで坊主頭に軽蔑語を書きつけられるのである。これがなかなか消えない。こういうバカなことをやるのが、図体だけが大きくてからっきし勉強が出来ない、それでも憎めない悪ガキと相場が決まっていた。野蛮だが、素朴なこの男も、学歴社会と高度成長の到来とともに、確実に社会の底辺を支える労働力としてしか生きていけないはずの命運を背負っていた、と思う。いじめる側も、いじめられる側も社会という枠組みから見直せば、確実に差別される側の人間だ。前記した在日二世の友人もいじめに遭っていた一人だ。差別は常に下降志向として働く。人はそのような性向を持っている。だからこそ、差別がある方が都合のよい、搾取する側の人間たちは、差別を構造化するのである。職業的差別、人種的差別、性的差別等々。数え上げたらキリがない。武家社会の士農工商、エタ、という職業的差別構造は、典型的な差別の構造化だ。そこに男尊女卑が加われば、差別者たちが、富を独占するシステムが崩れることはない。巧妙ゆえに、いつの世もこの種のバリエーションは消えることなく在る。在日二世の同級生と親友になったのは、無論、腕力でいじめを阻止したからだが、僕一人の力で救えるものなどタカが知れている。結局僕も、その場限りの正義感を振りかざしただけの人間に過ぎないが、彼の両親は中学生の僕をオトナ扱いしてくださった。彼の父は時折、床下から、ドブロクの壺を取り出して来ては、湯呑茶碗に入れて飲ませてくれた。米粒が混ざった白く濁った酒だ。あの甘みはなんとも言えずうまかった。無論不法だが、そんなことはどうでもよかったし、彼らの住んでいる家そのものが不法建築なのだ。不法とは何か?という疑問が当時の僕の悩ましげな問題だっただけだ。合法を装った不法の方が遥かに悪質ではないのだろうか、と幼い頭で考えた。夢の中で、ドブロクを恐る恐る飲んでいる僕をやさしげな顔で見守っている彼の父の顔が鮮明に思い浮かんだ。あの頃に食ったホルモンも、キムチの味も、超一流だ。ドブロクはさらにうまかった。
差別の構造化の中で、それが折れ曲がって、逆差別も生まれた。しかし、それもありだろう。いま、学校や職場の中で、いじめが横行している。勿論、いじめている側が悪いに決まっているが、それをよしとしているのは、僕らの目には見えないところで、差別的構造化の中で、利権を貪っている輩たちだろう。差別が下降志向をもともと持っているにしても、そのことに自覚的になれる人が一人でも増えることが未来を明るくする大きな光ともなる。いま、僕に何が出来るのかを考えながら、ともかくも社会の片隅ででも何ほどかの実践が出来ることを自分の残り少ないだろう生のひとつの課題としたい、と心から思う。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
中学生の頃の断片的な出来事のいくつかを夢に見た。その一つをとりあえずは書き遺す。同級生に在日の友人がいた。彼は在日二世だ。末っ子だったと思う。勉強はよく出来た。しかし、彼が住んでいたのは、運河沿いの、満潮が来れば殆ど床下すれすれまで海水がせり上がってくる、板を打ち付けただけの不法建築の家だ。上水道だけがあって、下水道のない、台所から汚れた水が垂れ流しの、彼の家に遊びに行けば、子どもながらに馴染めない異臭に堪えなければならないところだった。父、母は在日一世で、日本語が危うい。母は気丈な性格で、いつも「チョーセン、チョーセン、ナゼワルイ!オナジメシクテ、トコ、チガウ!」(朝鮮、朝鮮というが、それのどこが悪い!同じ飯を食っているのに、人間としてどこが違うというのだろうか!)という慨嘆を漏らすのが彼女の常である。彼女のこういう憤りにたじたじとしながらも、いつも僕が遊びに行くと、歓待してくれて、ホルモンを焼いてくれたし、キムチは見たこともない、白菜自体がピンク色の超激辛だった。彼女に言わせると、「コレ、ホンマモン、キムチ、ニポンジン、クッテルノハ、キムチチガウ!」だったが、確かに激辛だったけれど、ホルモン焼きとこのキムチで飯がすすんだ。うまかった、のひと言に尽きる。彼は性格のいい、まじめな男で、公立の工業学校に進学した。時代の波に乗っかって、どこかの会社でいいポジションをとっていることだろう。心からそう願う。平成のリストラの嵐になんかに巻き込まれていなければいいけれど。
いじめは当時もあった。たとえば、赤や黄色のチョークで坊主頭に軽蔑語を書きつけられるのである。これがなかなか消えない。こういうバカなことをやるのが、図体だけが大きくてからっきし勉強が出来ない、それでも憎めない悪ガキと相場が決まっていた。野蛮だが、素朴なこの男も、学歴社会と高度成長の到来とともに、確実に社会の底辺を支える労働力としてしか生きていけないはずの命運を背負っていた、と思う。いじめる側も、いじめられる側も社会という枠組みから見直せば、確実に差別される側の人間だ。前記した在日二世の友人もいじめに遭っていた一人だ。差別は常に下降志向として働く。人はそのような性向を持っている。だからこそ、差別がある方が都合のよい、搾取する側の人間たちは、差別を構造化するのである。職業的差別、人種的差別、性的差別等々。数え上げたらキリがない。武家社会の士農工商、エタ、という職業的差別構造は、典型的な差別の構造化だ。そこに男尊女卑が加われば、差別者たちが、富を独占するシステムが崩れることはない。巧妙ゆえに、いつの世もこの種のバリエーションは消えることなく在る。在日二世の同級生と親友になったのは、無論、腕力でいじめを阻止したからだが、僕一人の力で救えるものなどタカが知れている。結局僕も、その場限りの正義感を振りかざしただけの人間に過ぎないが、彼の両親は中学生の僕をオトナ扱いしてくださった。彼の父は時折、床下から、ドブロクの壺を取り出して来ては、湯呑茶碗に入れて飲ませてくれた。米粒が混ざった白く濁った酒だ。あの甘みはなんとも言えずうまかった。無論不法だが、そんなことはどうでもよかったし、彼らの住んでいる家そのものが不法建築なのだ。不法とは何か?という疑問が当時の僕の悩ましげな問題だっただけだ。合法を装った不法の方が遥かに悪質ではないのだろうか、と幼い頭で考えた。夢の中で、ドブロクを恐る恐る飲んでいる僕をやさしげな顔で見守っている彼の父の顔が鮮明に思い浮かんだ。あの頃に食ったホルモンも、キムチの味も、超一流だ。ドブロクはさらにうまかった。
差別の構造化の中で、それが折れ曲がって、逆差別も生まれた。しかし、それもありだろう。いま、学校や職場の中で、いじめが横行している。勿論、いじめている側が悪いに決まっているが、それをよしとしているのは、僕らの目には見えないところで、差別的構造化の中で、利権を貪っている輩たちだろう。差別が下降志向をもともと持っているにしても、そのことに自覚的になれる人が一人でも増えることが未来を明るくする大きな光ともなる。いま、僕に何が出来るのかを考えながら、ともかくも社会の片隅ででも何ほどかの実践が出来ることを自分の残り少ないだろう生のひとつの課題としたい、と心から思う。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃