ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

自己愛の必要性について語りたい

2008-03-12 23:39:15 | 観想
○自己愛の必要性について語りたい

自己愛というと、大抵の人々は、自分のことを愛すること、と考える。勿論、その解釈に間違いはない。ただ、僕が問題にしたいのは、自己愛が、その人の人生の中でどのように発展すべきなのか? あるいは、誤った自己愛がもたらす悲劇的な出来事についての考察を試みたい、とことである。

自分を大切に思えるというのは一つの能力である。この考え方を前提としたい。そして、自分の存在の意義が大切に思えるには、その人が幼い頃から、どれほどの愛情を受けたか、ということと比例する。愛が欠如していたから、自己愛が深まるのではない。愛が豊饒であったから自己愛という観念が人の裡に芽生えるのである。愛の豊饒がもたらし、形成された自己愛は、世界に対して開いた観念である。反対に、愛が欠如したが故に、その欠落感を埋めるための、疑似的に創り出された自己愛は、その人の心の内面で閉じていて、世界との通路がはじめから閉ざされている存在である。だから、気をつけないといけないのは、人が他者を愛するという言動には大きく分けて二種類あることに気づくことである。

愛の豊饒故に形成された自己愛が他者に求める愛とは、そもそものはじまりからして、他者に対して開いた感情であるからこそ、自他供に、各々の新たな価値意識としての愛が生育されていく。その行く末には、豊かで明るい世界観が開かれている。しかし、受けるべき時期に、愛を受容できなかった人が、自分を守るためだけに、裡に形成した自己愛は、世界から自分を切り離して成り立つものであるが故に、本質的に他者を拒絶しているのである。世界から切り離された自己愛が、他者を求めるあり方は、かなり歪曲したものになってしまうのは必然である。愛とは他者との関係性を切り結ぶ行為なのである。愛を交わす男女の世界が、開かれたものであるという前提こそが、愛という名に値する、深い感情の相互交流なのである。生育歴の中のどこかで愛という観念から疎外された人の自己愛は、己れの世界が閉じているからこそ、愛の対象者に対しても、閉じた愛の表現しか出来はしない。それは殆ど狂気の世界観と言っても過言ではない。世界から切り離された自己愛しか身についていない人の愛の表現は、独占欲であったり、支配欲であったりする。独占とか支配という概念が生み出す行為は、世の中に溢れるように横行している、異性に対する暴力、憎悪、さらには殺意にまで発展する。閉ざされた世界しか持ちえない人間の自己愛が求めるのは、その人間にとってのみ必要な愛の様相なのであり、それが満足に実現されない現実に直面すると、前記したような暴力も愛憎も殺意すらも愛する? 対象者に向けて発せられることになる。閉じた自己愛は、己れに対する満たされない愛を、自分勝手に追い求めていることになり、愛の対象者の意識などがどこに在るのかという、とても大切な前提がすっ飛ばされる。だから、この手の輩の抱く自己愛によって愛されたかに見える異性は、一つ歯車が狂いだすと、恐ろしい狂気の行為のもとに晒されることになる。

まとめる。他者を愛するには、まず開かれた世界観としての自己愛の形成が不可欠なのである。開かれた自己愛こそが、他者としての異性の世界を認めることが出来るのである。こうして二人の世界は広がりをもった世界像へと誘われるのである。だから、自己愛とは本来、肯定されるべき大切な要素である。むしろ、自己愛を形成出来なかった人々の、世界を肯定することを諦めたところからはじまる自己愛が危険なのである。こういう彼あるいは彼女の自己愛とは、自分だけが大切なのであり、自分の利益に反すると感じるや否や、その瞬間から自己防衛の鬼と化す。そこに愛が熟成する土壌など存在しない。不毛な感情の縺れと、それがもたらす不幸が待ち構えているだけである。

愛とは他者を幸福にしてこその愛であろう。他者を幸福にするために、自己愛という訓練が必要なのである。それもどこまでも世界に開かれた自己愛の育成が望まれるのである。そこにこそ、愛の芽生えが在る。今日の観想である。

○推薦図書「彼女について知ることのすべて」 佐藤正午著。光文社文庫。殺人を企てた男女。裏切ったのは、男なのか、あるいは女なのか? というミステリータッチの小説ですが、底には、男女の愛の形の食い違いによる悲劇が主要な要素として描かれています。読みごたえのある書です。

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