ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○人との繋がりは、やはり下部構造を抜きにしては語れないのだろう。

2010-04-15 13:44:43 | 社会・社会通念
○人との繋がりは、やはり下部構造を抜きにしては語れないのだろう。

世の中が不景気である。暮らし向きはよろしくはない。いつなんどき仕事を失ってもおかしくない、というか、本当はおかしな話なのだが、失職することが起こり得るという常識が根付いてしまった。たぶん、こんな状況に陥った世界は遠からず崩壊する可能性大だろう。その理由は、少々暮らし向きがよくなり、上部構造としての形而上的な世界観に浸れることを覚えてしまった僕たちは、下部構造としての生活の基盤が危うくなると、もはやお手上げ状態だからである。上部構造が生きる目的の大きな部分を占めるようになって、たぶん、僕たちはかつて貧しかった時代には、世の中を何とか良い方向に変革しようと、各々の資質と能力に応じて頑張って生きてきたのだろうと思う。誤解のないように云い添えておくと、「世の中のため」と書いたが、あくまでその内実は、自分及び自分を取り巻く環境を少しでも良くすれば、自分の未来も開けるだろう、という純朴な考えが素朴に信じられていた、と云う意味である。そういう渦中において、人は下部構造としての生活の土台を築くことと、上部構造たる知性を練磨し、構築することとは、矛盾することなく車の両輪のごとくに相まって未来への展望らしきものを模索出来たのだろう、と思う。

下部構造としての生活の土台を確固としたものにするのに欠かせなかった重要な要素は、20世紀における科学振興への信頼だった。1970年の大阪千里の万国博覧会で庶民が夢見た未来像は、21世紀の現在のごとき、ちぐはぐなイメージではなかったはずなのだ。科学の進歩が人間の生活を豊かなものにし、生活が豊かになれば、豊かさを土台にした豊かな人間の絆が築けるものだ、と固く信じて疑わなかったはずである。しかし、現実のこの21世紀とはどういう時代なのか?すべての現象について語る能力もなければ、それに関する正しい判断も出来るとは到底思えないので、たった一つの切り口から現代という時代性の一端でも素描出来れば、と思う。

確かにインターネットツールの発達は、凄い。だって、こんなに簡単に自分の、それも何の洗練もされていない駄文をインターネットというツールを使えば、誰もが発信者になれるのだから、大したものなのである。インターネット上から登録さえしておけば、自分の嗜好に合った仕事の紹介メルマガがどんどん発信されてもくる。しかし、その一方で、就職先の情報が何故そんなに必要なのか、という現実的な側面から世の中を眺め返してみれば、まず、若い人たちの就職先が簡単には見つからないほどの不況。中年を遥かに越えて、今日まで頑張って会社のために貢献してきた、かなりなポストにいた人も、人件費削減とやらの煽りを食らって、簡単に首を切られる。家族の生活を抱え、家のローンも支払い半ばで、不動産の価値がやたらに下がったときに家を手離し、不動産の値打ちが下がった分、借金として残る。家はとられるわ、借金の支払いはあるわ、中高年ともなれば、再就職先など簡単には見つからないわで、僕たちの下部構造としての土台はガタガタなのである。まさに蛮行がまかり通っているわけだ。

インターネットの負の遺産については、しっかりと書いておかねば。確かにウェブ上での新たな人間関係の構築はいとも簡単に出来る。が、その関係性たるや、あまりに薄い。薄いという意味は、そこで構築された関係性には、互いの信頼関係が希薄過ぎるということである。いや、信頼関係どころか、不信を前提にした怖々の繋がりだ。さらに云うと、ウェブ上には確かな信頼関係が在るなどという主張する人ほど、きちんとした議論を避けたがる。反論されたら、さっさとどこかに姿をくらます。現実世界は弱者切り捨ての蛮行あたりまえの時代。政治家が悪いとも云っていられない。政治家を選ぶ素材は大抵はマスコミ情報だ。マスコミは何を勘違いしているのか、大衆などは簡単に操作できると思っているし、現実には、確かにその傾向は強く在る。この時代、下部構造としての生活の基盤はガタガタだが、しかし、だからこそ、上部構造としての思索を深化させなければ、僕たち庶民の未来はもはやない、と腹を括る必要がある。この時点からしか、人間の絆は、文字通りの絆は築けないに違いないし、人間の未来を再構築する可能性もまず希み薄である。自戒の言葉として書き遺す。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃


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