ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

やはり、安楽死は認めるべきだ、と思う

2008-01-31 23:53:37 | Weblog
本を読みながらうたた寝をしていたらしく、心臓の痛みで唐突に覚醒した。僕と同じくらいの年齢の人たちが、某か、体に異変を感じているのを聞くたびに、オレはな~んにもないよ。運動もしないし、別に体に良いことなどしないけど、何の異常もないぜ、と豪語していたが、実はそんな豪語に何の根拠もない。教師を辞めて以来今年で9年目入るが、それ以後健康診断というものをやったことがない。だから僕の「な~んにもない」には、何の根拠もない。現実は体の内部で、すでに大きな崩壊が始まっているのかも知れないし、要するに自覚症状がないだけの話で、何が起こっているのか、さっぱりわかりはしない。今日、やっと自覚症状らしきものが現れた。そういえば、母方の祖父が心筋梗塞で亡くなっている。親父が、僕自身がもうすぐに到達する58歳という年齢で癌で亡くなったので、僕も癌死なのか、と思い込んでいたが、心筋梗塞という死因もありか? と再認識した。まあ、癌で死ぬのは、親父を見ていてもかなり苦しそうだったし、手術も願い下げだし、ついでなら、医者を騙して、いまは錠剤のモルヒネも認可されたそうだから、それで痛みを抑えつつ死にゆこうか、と決め込んでいたが、心筋梗塞なら、願ってもない死に方で、あっけなくこの世を去れるというものだ。医者さえ余計なことをして、集中治療室などに放り込んで、くだらない延命治療さえしなければ、楽に死ねるとのに、と思う。闘病などという陳腐な行為は絶対にやらない。病は素直に受け入れる。それが死を意味するなら、その死も受け入れる。おまえには命の大切さが分かっていないのか! というお叱りの言葉も聞こえてきそうだが、僕はそんな薄っぺらなエセヒューマニズムが大嫌いなのだ。耳に栓をしておくことにする。
どこまでも生きていたい人はせいぜい長生きをすればよろしい。老人介護も受ければいいし、金が余っている人は、有料老人ホームにでも入って24時間体制とやらの、医療つきの施設で細々と生きていればよろしいではないですか。まだ聞いたことはないが、それにしても、たとえ150歳まで生き延びたとして、それが何なのか? という疑問は残る。やはり、人間には生きる権利もあるが、死にゆく権利もある、という考え方に変わりはない。質の悪い金貸しに手を出して、生命保険を懸けて殺されるように自殺するような死は、死の尊厳を無視されているという意味で、死にゆく自由とは反対概念だ。リストラで生活が立ち行かなくなって、ビルから飛び下りるお父さんたちの死も、ある種の殺しだ。彼らは自殺したのではなくて、殺されたのだ、と思う。
何を置いても、自分の生き死は、自分の意思で決めたいものである。若い身空で、よく知りもしない世の中に絶望して自殺するのは、いかにも勿体ないとは思う。希望も絶望も、身をもって体験してこその希望であり、絶望である。その意味では、最期まで生と抗いながら、生き、そして死にたいものだ。自分の死を悟ったとき、日本では、死ぬ術がない。これは如何なることか! あるのは医旅費の無駄使いも甚だしい延命治療だけだ。意識も失っているのに、何をもって息をさせようとするのか? これは死の尊厳に対する冒涜ではないのか? 命乞いは見苦しいが、尊厳を持って自己の死を選択したくとも、それが出来ない国が、この国なのである。生きているうちにギューギューに税金を搾り取っておきながら、政治家たちは、安楽死の問題を真面目に考えようともしない。日本には世界に例のないことをやれる政治家など一人もいない。何でも物真似だ。いまはアメリカの物真似がお得意である。二代保守政党制とやらも、アメリカの民主党と共和党の焼き直しだ。それなら、オランダやベルギーのように、安楽死を法制化せよ! と大声で訴えたい。自分の死を自覚したら、その人間に死を選ぶ権利を与えるべきだろう。無意味な延命治療だと分かっていながら、高くつく治療をやらざるを得ないのは、尊厳死に関する法律がないからである。それをやれば医師がエセ者のヒューマニストたちによって社会から葬られる。何ヵ月か前に、筋弛緩剤を自宅に持ちかえって、死を遂げた医師がいたが、役得もいいところだ。一般人にはそんな薬を手に入れることすら不可能に近い。病院に盗みに入っても、どれが筋弛緩剤なのかも分からない。ネットでもさすがに、これは手に入らない。
ともあれ、生あるかぎり、抗って生き抜き、死を悟ったら潔くこの世界から去りたい。そういう選択肢を何とかつくれないものか、と思う。政治家たちよ、都合のよい真似事だけをするなよ!

○推薦図書「ゆらゆら橋から」 池永 陽著。集英社文庫。池永はやはり卓抜な筆致でこん短編集を綴っていますが、表題になっている「ゆらゆら橋から」という作品は残念ながら、描写の巧みさで、人間存在の切なさが滲み出てはいますが、登場人物が出そろった時点で、最後の結末が見えてしまうので、池永にしては失敗作です。確かに失敗作には違いありませんが、人間の優しさや、生の哀しさを描いたら、この人の作品は抜かせません。敢えて紹介しておきます。他の作品はこれから僕も目を通すところです。中途半端な推薦で申し訳ありません。よければどうぞ。

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