ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

何故日本の新聞は記者の名前を明記しないのか?

2007-01-26 23:20:20 | Weblog
もうあたりまえのように感じてしまうことなのですが、日本の新聞には記事の末尾にその記事を書いた記者の名前がありません。社説でさえ、記者の名前が書かれることはありません。これは新聞社がその記事に全責任を持っているような安心感も与えますが、取材能力という一人一人の新聞記者の意欲と書き手としての責任能力と、取材に対する密度の濃さとを奪い去ってしまうことになります。この状況下では、かつてのニクソン元大統領のウォーターゲート事件のような大スクープの可能性はまずありません。あの時ニクソンを実質的に失脚にまで追い込んだ(実際に失脚したのは脱税容疑でしたが)のは名前は忘れましたが、堂々とそのスクープに名前を書き込んだ二人の記者でした。これは映画にもなりましたから、映画で知っている方々も大勢いらっしゃることでしょう。
勿論記事を書いた記者名を入れるにしても、新聞社としての最終チェックが入ることは日本もアメリカも同じことです。しかし、こうして僕自身も物を書いていますが、もし自分の名前を書かないでブログを書いていたとしたら、もっと無責任な記事になっていたか、力の入らない文章になっているかしています。こんな次元の人間にでもその違いが出るのですから、ましてや、大きな影響力を持っている新聞記事ともなれば、その違いは歴然として出てくるのは間違いありません。それに、またデスクと言われる担当部署の責任者の性格によっても記事の有り様は異なってくることは目に見えています。まず、自由な取材があって、その自由な取材にもとづいて書き手である記者が自分の名前を明記した記事をデスクが評価するのと、初めから書き手の名前が載らない前提で書かれた記事と、どちらが記事のインパクトがあるかは、書き手の端くれとしての僕にも容易に想像がつきます。
それからこの事実もたいへん大きな問題を孕んでいます。それは、警察などはあらかじめ各新聞社の部署が用意されていて、ある事件や事故が起こると、警察発表に基づいて記事が書かれるのでスクープが生まれる可能性は非常に低いとも言えるのです。アメリカでは、こんなおとなしい新聞社は存在しません。事件は記者の足そのもので真実を探します。わざわざ警察署に控えていて警察発表をメモしながらの記事作成などというおよそ権力側の一方的な発表によって書かれる記事はどの新聞も同じような角度でしか記事が書けません。だからこそ、日本のマスコミ報道は活発に見えますが、同じことの繰り返しにしかなりません。どんな新聞を買っても同じ角度からしか出来事の真相が見えてきません。読売や産経のような少し右傾化した新聞もありますので、社説や記事の載せ所が異なることはあっても、本質は同じです。
本来真実というのはその真実を見る角度によって全くとらえ方が異なってくる場合があります。真実とはある意味で角度を変えれば、真実のあり方も変わるという性格があります。どの角度から見ても変わらないのはあくまで真理であって、真の事実ではありません。僕たちは事の真実を見極めるために毎日の大切な時間を新聞やテレビ報道に割いていますが、いつも、どの時間のテレビを観ても同じ繰り返しであるのは、たまに会社を休んで寝ながらテレビを観ていて嫌になることがしばしばあるので、みなさんには十分過ぎるほどお分かりだと思います。これでは戦前の報道官制が続いているのと、時代性と民主主義という衣を被っているだけで本質は戦前と少しも変わりません。軍部の検閲がないだけですが、資本主義の宿命である、経営戦略が検閲をかけているのと同じ働きをしていることになります。
僕はサラサラと新聞記事には目を通しますが、一番楽しいのは新聞の下の欄にある本の宣伝です。気に入った本が時折宣伝欄に出ていて、その時はうれしくてすぐに本屋に電話して注文してしまいます。こんな不真面目な読者がいてもいいような記事がめじろおしですから。

〇推薦図書「放逐ウォーターゲート事件」筑紫哲也著。朝日文庫。ウォーターゲート事件の真相が真面目なジャーナリストの目で書かれた良書です。筑紫哲也はテレビの報道番組でもおなじみですが、彼の広い視野は他の報道番組とは一味違います。

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