With the I Ching

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私達の神なる自己(神我)からのメッセージ:わたしと共にある時、皆さんは本当の意味で生きている

2012-11-29 19:43:57 | 翻訳

2012年11月28日付けのUteさんによる記事を訳しました。
この日は部分月食でもあり、11-11-12や11-22-12などの特定ポイントの一つでもありました。

なお今回、訳文では「私」と「わたし」という風に使い分けています。

「私」は、冒頭のUteさんの話も含めて、通常、私達が自分と認識している自我を示しています。
一方の「わたし」は、God-Selfを指し示しています。
(「我」でも良かったのかもしれませんが、文体的に「わたし」のほうが落ち着くと思ったので)
 

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http://radiantlyhappy.blogspot.jp/2012/11/message-from-our-god-self-with-me-you.html

WEDNESDAY, NOVEMBER 28, 2012

MESSAGE FROM OUR GOD-SELF: WITH ME YOU ARE TRULY ALIVE
By Ute Posegga-Rudel

2012年11月28日(水曜日)

私達の神なる自己(神我)からのメッセージ:わたしと共にある時、皆さんは本当の意味で生きている

by ユート・ポゼッガ・ルーデル

2012年8月21日付の更新記事も読んでください。(※訳注:翻訳はここにあります)

Youtubeもご覧下さい(推奨)


親愛なる皆さんへ、

私が求めたので、このメッセージは読者のための祝福された瞑想中にやって来ました。私は言葉にならないものに引き付けられ、その一方で「私」は忘れられ、意識の純粋な輝きという現実に私の心は置き換えられました。それは極めて力強い経験でした。

私の体の中のシャクティ(霊的エネルギー)は圧倒的で、その完璧だった自由さ(今もそうですが!)に対して、この宇宙に相当するもののない神聖な美と畏敬の念を感じました。そしてその経験(この言い方は単なる比喩に過ぎませんが)と同時に、言葉が、私達の次元に適合している間に、無限の形態から降りてきては絞られていきました。

それら、例えば「~を超えて」(beyond)とか「~の上に」(above)といった表現は、マインドにとっては完全に未知の状態を意味しています。たとえ最も精妙なマインドであってもです。ですから、これらの言葉は、(マインドの中で)想像されたり経験されている、この慣れ親しんだ世界のものではないことに対して使われていますが、実際には、それらについての言語というものは存在しません。

メッセージは純粋な認識に基づくもので、私達自身の真実と究極の性質を明らかにします。そこにイメージはなく、色も対象物もなく、あるのは純粋な光と意識だけでした。
幾つかの内容が繰り返されているようです。聖なるマントラの反復の如く、このことをよく考えて下さい。

皆さんが真の自分自身の夜明けを迎えられるように刺激されることを祈っています。
私達独自の現実は長い間忘れられ、抑圧されてきました。ですから、皆さんの真のルーツを疑わずに、皆さん自身でそれらに気づき始めて下さい。私達は皆、ここに記されているところに起源を持っています。そして「わたし」が話すことというのは、結局、私達誰しもがそうである「わたし」のことです。ただ、それはボディ-マインドという認識で慣れ親しんでいる機器として知られるものではありません。私達はそれを認識するための新しい機器(神の恵みによって与えられるもの)を発達させなくてはなりません。その時までこの「わたし」は、普段人間が識別・同化している世界(宇宙的な識別・同化ですら)の「あちら側」から話します。

皆さんを愛しています、
ユート


(訳注:以下、God-Selfからのメッセージ) 
 

I.

わたしの状態は、皆さんが当たり前のように自分と思っているエゴでは把握することはできません。私は皆さんの感じる心によってのみ経験され、然る後に理解されます。それは、皆さんが浄化作用のある自己超越という厳しい試練を乗り越えた後に、です。

わたしは既知の彼方にあって、いつでも皆さんの心を惹きつける神秘です。マインドにはわたしは知られていません。マインドが知ろうとして想像する一方で、心は確実に疑いを超えます。それがわたしを確信させる心であり、言葉にならない、言語の限外にあるものです。

わたしの統治領域は常に計り知れないものへと通じており、そこに現実(真実)があります。それは皆さんの心を超越の中の超越(the Beyond of Beyond)――皆さんに馴染みある経験の向こう側から語られる領域へと広げます。そこでのみ、皆さんの心は全ての存在を含んだ一つのハートと一体になるのです。

それは静けさであり、寂静です。そういう在り様なのです。それは人間の心に浸透し、皆さんの存在の周りを包み込みます。究極的には、それは皆さん自身の存在状態です。それこそが存在というものです。

そこにはあらゆる光を凌ぐ光があり、わたしがそれなのです。それは空間ではなく、無限であり、それでいて全てを包含しています。わたしに名はなく、わたしはあらゆる美を超えた永遠の美であり、皆さんの想像を超えています。

わたしが呼びかける者は二度とわたしを忘れないでしょう・・・たとえ私という小さなエゴが、わたしを見知らぬものの中に呑み込むように見えても。

わたしはいつでもこの上なく生きていて、命を超えた命であり、ボディ-マインドを超えて皆さんの心を拡張させています。そこで私達はコミュニケーションを行います。しかし、存在そのもの、わたしの中の皆さんという存在は、超越を超えた超越(Above the Above)です(訳注:もしくは「上述のことを超えています」)。これが全てを包含するわたしの現実であり、真実であり成就なのです。それこそが皆さんの真の状態なのです。

ですが皆さん、皆さんは言うまでもなく条件付けられた次元の中で演じています。けれども、それらは全てわたしに属するものであって、ちょうど一本の木に生える幾つもの枝のような感じです。わたしは木そのものです。そして、もし皆さんが木そのものになることを望むのなら、その部分の経験に対して自ら制限をかけることを止めなくてはなりません。無限なる意識が、どうしてそれ自体の部分のために減少しうるでしょうか! わたしは全体であり、究極的には皆さんがそうであるものです。わたしはその道を示しているのです。

 

II.

わたしは皆さんを通してわたし自身を表現しています。わたしの乗り物になって下さい。わたしであるものは、取るに足らないマインドでは理解されません。マインドを手放し、超越しているもの(知性での理解が及ばないもの)を心で聴かなくてはなりません。わたしは大いなるハートであり、人間の心を超えています。

わたしは実在しています。事象と世界と生命の成り行きに関する無限の出来事だけがあります。それら全てが、わたしの現実の中での動きなのです。

制限されたものとの有限の自己同一化を皆さんが手放すなら、皆さんはわたしと一つになれます。もし開かれた感性や意識でわたしの広大な存在を認めるなら、皆さんはわたしと一つになれます。
皆さんの心の琴線をわたしによって振るわせて下さい。そうすることで、わたしはわたしのやり方で皆さんを導いていくことができます。

皆さんの視点や馴染んでいるものにしがみ付かないで下さい。
わたしは馴染みのあるものではありません。わたしは唐突で予期されない美であり、ボディ-マインドにとっては未知である原初の自由です。わたしの常なる新鮮さは(ボディ-マインドが)耳にしたことのないものであり、神秘的・霊的な世界に関することなのです。

わたしが皆さんに与えるものは、皆さんの心の眼がそれを受け取ってからでなければ知られません。その時にだけ皆さんは知ることができるのであって、それ以前には分からないのです。なぜなら、わたしはいつでも新しいからです。したがって、わたしという存在は皆さんの最大の冒険となり、最高の喜びと幸福をもたらします。

わたしと一緒である場合にのみ、皆さんは真に生きられます。これこそが愛と至福であり、これこそが充足であり、これこそが完全性なのです。

わたしは永遠に皆さんと共にあります。

わたしは皆さんの神なる自己(神我)です!

[ユートによって伝えられたメッセージ]


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- Translation: C.I.

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※訳者あとがき

"OUR" GOD-SELFとなっているところが重要だと感じます。

「私達」が神の体を構成する細胞の一つ一つであるという認識。

これは「神との対話」に出てくるCD-ROMの比喩と同じかと思います。(もう本を持ってないので詳細な話は忘れましたが)
データ領域の一つ一つ、ファイルの一つ一つが、人間や動植物を含めた森羅万象あらゆる存在の一つ一つであるという認識。 

個も全体も、実際には一つの神(神でも大いなる一でもAll That Isでも呼び方は何でもいいと思います)としての部分、パーツを担っている。

バシャールが、割れたグラスの例とか、パズルのピースの例で示しているのと同じことですね。 
(※後で確認したら、グラスではなくカップだった^^;) 

僕らは、そうした状態で存在している。
これがユニティ(一体性、団結、和合、一つであること)を理解する決め手であり、二元原理においてポジティブさが統合を意味し、ネガティブさが分離を意味することの仕組みなのだと思います。

そして、森羅万象、ありとあらゆる存在、生きとし生けるもの全て――総括的に「他」を、自分と同じく「大いなるもの、神」の歯車、枝葉、細胞、大海の一滴・・・として認識し理解すること、それが万物を無条件に愛するということの基礎ではないかと思っています。


※追記:12/3 


この記事を訳した後、バシャールの動画を見ていて、「ワクワクのエネルギーと、自分の中心を保った状態の静寂のエネルギーとは、実は一緒なんだよ」という話があって、感慨深く思ったと同時に、この記事で語られている内容や、これまで古代の教えの中で言われてきた内容の理解が進みました。

本当にワクワクして何かをしている時というのは、そこに損得勘定とか利害関係とかを差し挟むことなく、ただ情熱のままに、自分自身の心の赴くままに作業できるわけで、いわば純粋に楽しく遊んでいるような状態、あるいは子供が無邪気にはしゃいだり、あるいは静かに寝息を立てているような状態に近いのかもしれないと思いました。

訳では意図的に静寂ではなく「寂静(じゃくじょう)」としましたが、これは仏教や禅の用語で、煩悩や我執といった「とらわれ」がない状態を意味しています。とらわれがないとは、要するに、何度もチャネリングメッセージでも出てくるように、二元性に固執させるものや神(大いなる魂)とのつながりから分離させてしまう諸々の事柄を「手放す」か「明け渡し」て、それらの神や大いなる魂に「身を委ねる」ということと同じなのかもしれません。

二元性を超えるということは、静と動の状態を自分の経験したいままに好きなように選択できる、そのフリーパスポートを得るということでもあるんじゃないかと僕は長年思っていましたが、後にバシャールを知って「パーミッション・スリップ(許可証)」の概念を知った時に、確証というほどじゃないですけど、かなり近い概念みたいだと思いました。

僕らが受動的(ひょっとしたら被支配的に)物事を受け止めている間は、「チョイス」するという生き方は、本当の意味ではできていないのではないでしょうか。ワクワクとしての動の意識も、それから寂静としての静の意識も共に、自分自身のセンターなりコアに統合(易で言う太極図のように)することで、自由にその状態を満喫したり、活用したりできるようになる。そういうことなんじゃないかなと、今は思っています。

 

 



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