With the I Ching

易経や四柱推命、暦、占星術などの運命学の記事がメインです。

クンドゥン

2010-05-08 00:32:04 | 日記/随筆
昨日の今日ですが、如月マヤさんのYoutube動画「4月25日によせて」で紹介されていた「クンドゥン(Kundun)」が気になったので今しがた観ました。日本語字幕がなかったので全篇英語オンリー(字幕なし)、しかも普段聞くような英語とはかなり違う癖のある発音に苦しみながらの鑑賞でした^^;(※後に英語字幕があることに気が付きましたが、まだ観てません)

チベット人も中国人も、一部を除いて誰も彼もが英語を話すことに少なからず違和感を覚えました…が、まあそれは国際的に広く作品を観てもらうためには仕方ないことなんでしょう。出演者の多くが実際の亡命者の方々ということで宜なるかなとも思いますし、逆によくあれだけのキャストを集めたものだとも感嘆します。ダライ・ラマサイドの全面協力があったからこそなんでしょうけど。それだけ作品に込める思いが強いのだと思います。

内容に関しては、実は観終わってからWikipediaの「クンドゥン」であらすじを読んだ時に、「ああ、そういうことを言っていたのか」と確認することも多く、現段階ではストレートに理解できてないかもしれません。

それはそうと、この映画、たぶん以前に観たことがあります。たぶん2000年前後だと思いますが、深夜番組だったかで放送されていたように記憶してます。で、その時に途中で出てくる残酷なシーンに耐えられなくなってテレビを消してしまった気がする。

チベットと中国を取り巻く問題は、作品の中にも出てくるように「複雑」で、とても一言で言い表せるものではないのだろうと思います。
ただ、ダライ・ラマ14世らがインドへ亡命するに至る過程と、その中でダライ・ラマ本人の主観として描かれるドラマに思いを馳せると、如月マヤさんが述べているような、“どんな苦境にあってもその責任を全うし続けなければならない立場の人”の苦悩とは、僕のような凡人にはなかなか計り知れないものだと感じます。

ところで、作品の中で毛沢東がダライ・ラマに「宗教は毒(Poison)だ」と忠告する場面があります。僕はチベット仏教をはじめ、本来の精神を保っている仏教が毒であるとは思えませんが、広い意味では宗教は思想ですので、それを信じる個人や集団、または国家間において、見解の相違から対立を生む要因にもなることは否めません。

それは仏教に限らず、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教など、どの思想や教えにおいてもそうだろうと思います。日本においては神仏混合の多神教的世界観があるので、かなり許容度があるというか、いい意味での“ゆるさ”がありますが、一神教を主張する場合、表面上の違いから根本的な違いまで、多岐にわたって他宗教や他思想と衝突し合う恐れも含んでいます。

人々が心の拠りどころとすることや、その対象に対して、外部の人間が批判したり中傷することがあった時、もし互いを許容できずに突っぱねれば、そこに争いの火種が生じます。そして、それはいつしか大きく燃え盛る憎しみの炎となって、悲しみの連鎖を引き起こしてしまいます。

こうしたテーゼは、無意識的にか意図的にか、多くの映画やドラマ、漫画、アニメなどに取り入れられています。いま僕らは新しい時代を迎えようとしているとか、自らが創建しようとしているという風なことが云われていますが、実際には、まだまだ善悪二元論的な対立からは抜け出せていないと思います。

つまり、どちらかを正義に、どちらかを悪として見立ててストーリーを作る傾向です。こうした風潮は未だ各国の文化の根にあって、そうした内容を見て育った子供たちが、大人になっても似たようなことをしていく可能性は残っています。

ただ、思うに、最近の一部のアニメや漫画などでは、あからさまな善悪の対立を描くことから変わってきており、例えば悪役がヒーロー&ヒロイン側に鞍替えしたり、互いの内情を知って、「そっちも大変なんだねぇ」と敵味方間で同情し合うようなものも出てきています。アニメ「ギガンティック・フォーミュラ」や「ぼくらの」を見た時に、そういうシーンが何度か出てきて、「ああ、これは一つの解決法になるかもしれない」と感慨を受けたのをよく覚えています。(「ぼくらの」に関してはコミックスと内容が違う)

人種であれ、思想であれ、あるいは領土などの所有に関するイザコザであれ、そこに相容れないものがある時、人は戦いや争いを起こします。しかし、自分が争っている相手が抱えている事情や問題点を知ることで、問答無用に駆逐するような強硬姿勢は和らいでいきます。相手も自分と同じ人間として、家族や仲間などの大切な人、または大切な何かを守ろうとして、仕方なく戦っているということに気が付けば、そこから互いに折り合える点を見出すことができるのではないか、と思います。場合によっては戦う意思さえ捨てるかもしれない。

クンドゥンの中でも、ダライ・ラマがチベットに対して横暴を働いている中国側の内情(毛沢東政権以前の悲惨さを話す男など)を夢で見たりしています。複雑な問題や争いの渦中にいる当事者が、こうした双方の事情を知ると、おそらく心は一時保留状態になるのではないでしょうか。そして何が正しいとか、どちらに権利があるといったことを容易には判断しづらくなる。

でも、これはきちんと問題を受け止めている証拠でもあります。感情に流されるままに勢いで急進するのではなく、いったん立ち止まることで、今でき得る限りの賢明な判断をしたいという気持ちが芽生えてくる。

政情の複雑さに否応なしに巻き込まれた若き日のダライ・ラマの精神的な葛藤は想像を絶するものですが、そうした中で仏教の本質を身をもって体現されていったのだろうと思います。「試練が人を強くする」という言葉を地でゆくような人生。映画のタイトル、「クンドゥン」とは尊称を意味する言葉だそうですが、そのように自然と人々の尊敬を集め、直に会えば意識せずに敬慕の言葉が口をついて出てくるような方なんだと思います。仏教的には、類まれなる智徳の持ち主ということでしょうか。

この映画は1997年に公開されたとはいえ、ダライ・ラマ14世がインドへ亡命するまでの話ですから、そこから現在に至るまでの長い苦悩の日々には触れられていません。依然として、チベットと中国、そしてこの問題に関連する諸国の間では、望むような進展が得られていないのが現状みたいです。未だ感情的な抵抗だとか偏見、軋轢といったことが横たわっており、両国間の関係はあまり良くないと言わざるを得ない状況だと思います。

日本においては、ダライ・ラマの著作も多く出版され、僕も何冊か読んでますし、特に科学者との対談シリーズが気に入っています。主に「仏教的な愛」について語られることが多く、それこそが修行の根幹である風に説かれている節もあります。それは、まさにマハトマ・ガンジーがその身をもって示し続けた事柄と同様であり、キリスト教における「汝の隣人を愛せよ」に通じるものだと思います。

憎しみは憎しみによっては終わらない、とは時々耳にする言葉ですが、これに続く、「それは愛によって終わる」という言葉が現実になって欲しいな、と心から思います。


コメントを投稿