建交労長崎県本部

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城山国民学校で被爆したTさんからの聴き取り!

2015年08月09日 08時56分54秒 | 組合紹介

九州支部長崎分会Tさんの被爆体験記録

2015年8月6日自宅にて

聴き取り者 中里研哉

Tさんとの出会い

Tさんは2011(平成23)年7月21日、組合に加入されました。きっかけは、佐々町で開催した健康相談会です。じん肺と診断され管理区分申請を行ったところ管理3ロと決定されたが、今後どのようにしたらいいかという相談でした。組合は、合併症の診断をされれば労災申請できることを説明し、長崎市の大浦診療所を紹介しました。その後、続発性気管支炎で認定されました。

城山国民学校での生存者

 Tさんは、毎月の班会議には必ず出席され、色々な話をしていただきました。被爆者であることは、班会議の中で語っておられたのですが、爆心地に一番近い城山国民学校(爆心から西0.5㎞ 現・長崎市立城山小学校)の生徒であり、かろうじて生き延びられた方であったことを知ったのは重篤な病気で班会議に出席できなくなり、自宅を訪ねた時でした。

 Tさんは、自分の体験を後世に残しておきたいとNHKの被爆体験募集にも応募しておられました。私もNHKの担当者に連絡を取り、一度は担当者が訪問をしたのですが、担当者の多忙とTさんの体力の衰えもあり結局実現しませんでした。Tさんの思いを広島原爆の日にやっと聴き取ることができました。この記録をつくるためにネットで調べたところ、同じ城山国民学校で被爆された教師の江頭千代子さんと国民学校5年生時に被爆された下平作江さん(昭和10年1月1日生まれ)の証言記録もあり、如何にすさまじい体験だったかをあらためて知りました。在学中は、下平さんとの面識はなかったとのことですが、当時同じ小学5年生で被爆した下平さんとTさんは同級生だったのです。

 Tさんは1935(昭和10)年3月21日、長崎県対馬で6番目の三男として、この世に生を受けられました。Tさんの後に2人の弟と一人の妹が生まれ9人兄妹のにぎやかな家族でした。当時父親は、警察官をされていて駐在所勤務でした。父の転勤で長崎市に移り、城山国民学校には3年生の時に転校しました。自宅は、学校のすぐそばの長崎市城山町でした。

 運命の日の8月9日(木曜日)の11時2分、Tさんは姉たちと一緒に町内の防空壕を掘っている最中に被爆されました。前述の江頭先生の記録によると夏休みだったので、多くの子どもたちは自宅近くで被爆をしていることが分かりました。学籍簿が焼失したため、正確な数字は残されていませんが1,500人いた生徒のうち1,400人が亡くなったといわれています。

 防空壕掘りは近所に住んでいた中学生のNさんたち兄妹も一緒でした。飛行機の音がして、Nさんが「防空壕に入ってしばらく休もう」と言われ防空壕の中に入ったために難を逃れました。しかし、外にいた姉のYさんは全身を焼かれ「熱い 熱い 熱い」と息絶え絶えでした。お母さんと妹弟たちは自宅の下敷きになりましたが、お母さんが必死の思いで外に運び出し難を逃れました。被爆当時のことを思い出すと恐怖と悲しみで、言葉が詰まり涙が出てしまうTさんです。

 かろうじて生き残った家族は、お母さんの実家だった佐賀県に避難されましたが、次々と亡くなっていかれました。位牌には姉の死亡は8月29日、次兄と弟さんは9月7日同じ日です。お母さんは9月13日、お父さんは12月25日に亡くなられています。一番下の弟さんも昭和25年12月17日わずか7歳でこの世を去っておられます。

 その後、兄が年齢をごまかして働き始めた福岡県S町のS炭鉱住宅に行き、形ばかりの小学校を昭和23年3月に卒業されました。その後、中学校には経済的な事情で通うことができず、満13歳から働き始めました。

 「学校に行きたかったでしょう」と尋ねたところ、Tさんは「学校に行きたかったが、原爆症の影響で身体を壊した姉や妹の面倒を見なければならなかったので行けなかった。畑から大根を盗んだり、海に行き海藻を拾ってきたりして生き延びた」と淡々と語られました。

 Tさんは炭鉱住宅に住みながら、土木や鉄工などの仕事を転々としました。原爆の影響もあり、体力もない少年が重いハンマーなどを振り働いたのです。当時のことをTさんは「栄養失調の身体でとてもつらかった。原爆の影響で、髪も抜けてしまった。よく生きていたものだ」と語られました。

 S炭坑住宅に住んでいた頃のことですが、Tさんの兄と歌手の郷ひろみさんの父は炭鉱仲間で仲の良い友達でした。お兄さんも郷さんの父も、よく一緒に仕事をさぼっていたそうです。兄が仕事をさぼると経済的負担がTさんにかかるため、Tさんは斧を持って兄を追っかけたこともあると語られました。戦後の復興を支えた炭鉱ならではの思い出です。

 Tさんは、1953(昭和28)年9月(18歳)からトンネル現場で働きます。もちろんお金を稼ぐためです。この頃のトンネルはまさに命がけの仕事です。最初のトンネル現場は、国鉄紀勢線の三重県尾鷲市松本にある第1行野トンネルです。発破のための削孔は手掘りでした。次の現場は長野県北安曇郡の国道148号線に掘られた中土トンネルです。このトンネルでは削岩機による掘削でしたもちろんものすごい粉じんの中での仕事でした。

 Tさんは当時「命」に対してどのように感じておられたのか尋ねたところ「発破で命を落とす人がいるような危険な現場でしたが、金のためには命を懸けるしかなかった」と語られました。

 1957(昭和32)年10月から1963(昭和38)年1月まで、兄が働いていた長崎県北松浦郡S町の炭鉱で掘進工や採炭工として働きました。ここで奥さんと知り合い、1959(昭和34)年3月結婚しました。丁度、平成天皇の結婚と同じ頃でした。

 国のスクラップビルド政策によって炭鉱も閉山対象となり、兄や仲間と一緒に名古屋に集団就職で移住しました。市の職員として採用され、環境事業局N工場でゴミ収集業務やクレーンの運転手などの仕事に就きました。そこで1963(昭和38)年4月から1995(平成7)年4月まで32年間働きました。最初は炭鉱よりかなり安い給料でしたが、失業の心配もなく公務員として働けたこの時期は、Tさんの人生の中では一番充実していました。

 Tさんは、原爆によって勉強する機会を奪われました。時間ができたら学校で学びたいと思い続けていました。そして、名古屋市にある夜間中学に入学することができました。昭和48年4月、38才の中学生です。当時、話題になりマスコミにも登場したそうです。自分よりはるかに若い子どもたちと一緒に学ぶ毎日は楽しくてしょうがありませんでした。Tさんの貪欲な知識欲は、様々なことを吸収していきました。しかし、仕事の関係や子どもの教育費などもあり、一年間しか通うことは許されませんでした

 Tさんたち兄妹は、原爆で亡くなった父上を始め、T家のお墓を愛知県の市営墓地に建立しました。念願だったお墓ができ、ホッとしたTさんご兄妹でした。お父さんたちの50回忌も無事済ませることができました。

 Tさんは、戦争の結果として投下された原爆によって家族を奪われ、人生を狂わされました。安倍政権の戦争法案にはものすごい憤りを持っています。Tさんは「戦争が近づいているような感じがする。戦争は絶対ダメと言いたい。あんな苦労はさせたくない。安倍政権は倒したい」と声を絞り出して語られました。奥さんも「憲法を守らないといけない」と話されました。

 最後にTさんは「核兵器は絶対ダメですよ。あんなのは絶対ダメ。家族をバラバラにする核兵器は絶対ダメ」と語られました。そして「建交労と出会えてよかった」と最後に言っていただきました。


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