昨日の夜中はこちらの方はものすごい風が吹いていました。そのせいだと思うのですが、昨日書いたマイマイ蛾が、今日は一匹も居ませんでした。午後からは雨の予報なので、今日もご出勤の無い事を願っています。
昨夜は夜中結構な時間まで、ニケとみかんで走り回っていました。ドタバタと足音も体重の増加と共に大きくなってうるさいですね。ついこの前までは、寝る少し前にご飯を食べさせると、すぐスヤスヤと寝てくれたのですが・・・体力がついてきたのか、夜行性全開!では、こちらの身が持ちません。
昨日少し書いたのですが、動物の保護と言うか犬の保護に少しだけ(本とに本とに僅かです)お手伝いしています。たくさん協力したいし、もっと積極的に行動もしたいのですが、やはり自分の出来る範囲を考えてしまいます。自分の出来る範囲で、無理なくするということが大事だと自身に言い聞かせています。(もっとできるのでは?と言うジレンマは常に抱えています)
石狩に犬の保護をされている方がいます。年に一度私達もお邪魔してお手伝いの真似事をさせてもらっています。この方は120匹(だいたいです)ほどを保護しています。私財をなげうって、まさに滅私奉公という感じです。この方を知るきっかけになったのは、テレビの報道ででした。「予防注射をしていない犬を大量飼育して、近所を徘徊させるなど、迷惑な飼い主」みたいな報道でした。その後のテレビや、新聞の追加報道で、この人が一人で頑張っている事が少し伝わってきて、私達もお手伝いする事になりました。
報道を見た人たちがボランティアとして協力して、柵を高くしたり、オス、メスを隔離するフェンスを作ったりで、新たな繁殖が起きないようにしたり、できることを一生懸命やっています。ですが、この方の保護施設の周りには常に犬がうろうろしています。柵から逃げ出したり、放し飼いにしている訳ではないのです。この方の施設のそばに犬を捨てていく人があとを立たないのです。この方が後は何とかしてくれるだろう、きっとそんな考えで捨てていくのでしょう。ですが、捨てられた犬を保護するのはそんなに楽ではないようです。中々捕まらないですし、うまく捕まえても群れに馴染めず、かじり殺されると言う現実があるのです。
僅かですが新たな飼い主が見つかって施設を出て行くワンコも居ます。又亡くなる犬も多々居ます。ですから本来なら犬の頭数は減るはずですが、無責任な飼い主達のために中々減らないのです。ニケやみかんを捨てた人も、この施設に犬を捨てていく人たちも、自分の目の前で死ぬ事には抵抗があるのでしょうね。目の前で無ければいいのか? 私には・・・理解できません。自分の心を納得させられないです。捨てる前に、新たな飼い主を探したり、せめて保健所や、保護団体に相談すべきです。
孔子の牛の話というのを知っていますか? 酷使されている牛(私の読んだ本では牛でした)を旅していた孔子が見かねて、弟子にお金で牛を解放させる。と言うような話です。で、弟子が、「酷使されている牛は中国全土に沢山いるのだから、一匹救うことより、全てを救える方策を考えるほうが大事なのでは」と疑問を呈すると、孔子いわく「目の前の牛を救うという行動力が大事だ」
と、ま~答えた事になっているのですが、たぶんこれは後世の創作だと思います。論語のどこにも載っていませんから。ただ、話的には好きです。話の内容も、孔子ならさもあらん、と言う感じです。
私はこの保護活動をしている方を見ると、この話を思うのです。年間何万という犬や猫が処分されているという現実、その事を高所から論じて減らす事を考える事も大事でしょうが、それより、目の前の命を救うために行動する事の方が大事だと思います。
その行動の積み重ねが大きな力となって、最終的に処分される犬猫が居なくなればいいのですが・・・。
この保護活動をしている方は滅私奉公だといいましたが、まさに犬達のためだけに生活しています。今の日本って結構こういうボランティアというか、いい人たちの無償の善意に寄りかかっていることが多いのではないでしょうか。犬猫の事ばかりでなく、老人の問題やホームレス、子供の問題など社会の弱い人たちの問題は、善意の人任せ的な部分が多いと思います。
滅私奉公って、本来は公務員や代議士の先生方のための言葉なんですけど・・・、待遇が悪いと「優秀な人材が集まらない」とうそぶかれてもね~と思っちゃいます。滅私奉公って、私(欲・情)を無くして勤める、こころざしを持った人がなる仕事だと思うんですけどね。