狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

「頑狷曲捻者TNの日々雑記、沈思黙考」・・・本日より本ブロブタイトルの変更

2016-09-13 04:46:04 | 孤独・独立・自尊心
 本日より、本ブログのタイトルを次に変更する。

 「頑狷曲捻者TNの日々雑記、沈思黙考」

 ADSLの回線契約をしていたOCNがADSLサービスを終了するとの事で、同じADSLにてYahoo! BBとの契約へと移行する事に伴い、本年6月13日から7月5日までの間、インターネットが不通となっていた。その間は参議院選挙期間でもあった。
 インターネット再開後、本ブログの右サイドのオリジナルモジュール(ブログパーツ)が全て消えてしまい、メイン(本文)の幅も狭くなってしまっていた。オリジナルモジュールのタイトルと内容は共に消えて失くなり、位置もメインとなってしまっていた。ネットで調べてみると、契約解除、及び契約の回線工事時に負荷が掛かった事による可能性があるとの事である。
 また再開後、届くはずのメールが届かず、メールソフト「Windows Live Mail 2012」を開いている時にしか届かないという不具合が発生している。インターネットが不通の間にメール不達が大量に発生した事により、サーバーに何らかのトラブルが起きているのではないかと思われる。以前はメールソフトを開いていない時の分はサーバーに溜められ、開いた時に自動的にソフトに入って来ていたのであるが……。
 頑固、狷介、へそ曲がり、天の邪鬼、確乎不動、孤往独邁の私が、曲がり捻くれた考え方・捉え方で今後も思索し書いていきたいと思う次第である。
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聖霊存する不動の土台が築かれた心により失敗・ユニークが才能・特性に変貌する・・・「聖書力」を読む

2016-05-08 12:03:51 | 孤独・独立・自尊心
 永遠の神の言葉である聖書が、心の基礎・土台となる。そしてそれが、自尊心、自立精神、独立精神へと繋がる。
 「聖書力」(著者:中野雄一郎氏、出版社:いのちのことば社サイトブックス、出版日:2011/04/20)を読んだ。
 この世の中、特に日本の世間一般的多数派の人達の持っている国民性としての、個性・ユニークさ・失敗を認めず、叩き、排除する性格・傾向・空気・雰囲気が存在している中で、私の場合、その個性・ユニークさ・多くの失敗の経験を持っているが故に、世間一般的レベルの感性・捉え方・判断・思想・考え方・心構えであれば非常に世渡りしづらく、行き難い状態に陥ってしまいかねない。しかし私の場合、今に至っては、その感性・捉え方・判断・思想・考え方・心構え自体が世間一般的多数派と異なってユニークである為に、精神的に動揺せず、影響されず、精神的・心的に自立し独立する事が出来ている様に思うのである。もっとも、完璧ではないのだが。
 また私には、その内面のユニークさが有るが故に、自分のアイデンティティを重んじ、自尊心、自信、誇りに繋がっている。そして、私は自分自身の事が好きである。時々に反省はするが、だからといって自分自身を否定しない。
 創造主に聞く祈りと、規範としての聖書を読む事による神の言葉を聞く事により、心に確固たる不動の土台が築かれる。そしてそこに、判断基準を定める。周囲の人達、世間、空気を気にせずに、自分の土台に求める。土台が確信となる。
 その土台によって、世間・他人との間に「境界線」を引く事が出来る様になる。自分と他人との違い認識し、自己主張し、自分の思いで動く。決して周囲に流されず、自分を保持する。
 そしてその基盤は、「鈍感力」を持つ事に繋がる。ユニークさや失敗から来る周囲の悪評を無視し、動揺せず、振り回されず、泰然自若となり、「集中力」を伴って自分の信念に忠実となる。
 その鈍感力により、自分のユニークさを育てる。人の真似をするのでは無く、自分固有の才能、自分の特性、自己表現力、個性を伸ばす。その事によって結果・実績を残していく。
 そして「突破力」にも繋がる。
 自分の内に神と共に居るという土台が築かれている事で、自尊心、高いセルフイメージを持つそして、人を恐れず、自信、勇気へと繋がる。「スピリチュアル・パワー」。
 失敗、無常、虚無、「ない」状態、世間的な物事の束縛からの解放された状態になって、イエス・キリストが見えてくる。
 聖書は道徳、倫理、律、平和、愛等のみを言っているのではなく、イエス・キリストの悪霊との闘いを述べている。違法行為による犯罪、不道徳、良心の呵責等を罪とするだけでは無く、人の心が神に背を向ける事を最も重い罪とする。その事は「霊的な死」を意味する。
 愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の感性の修練。
 失敗、ユニークの他、弱さ、忘却、楽観、協同、勇気、親孝行、犠牲、感性、スピリチュアルの各法則が、本書に在る。
 坂本龍馬「世の人は我を何とも言えば言え。我が為す事は我のみぞ知る。」

 旧約聖書・イザヤ書43章1節
  だが、今、ヤコブよ。
  あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。
  イスラエルよ。
  あなたを形造った方、主はこう仰せられる。
  「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ
  わたしはあなたの名を呼んだ。
  あなたはわたしのもの。

 同書43章4~5節
  わたしの目には、あなたは高価で尊い
  わたしはあなたを愛している。
  だからわたしは人をあなたの代わりにし、
  国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
  恐れるな。
  わたしがあなたとともにいるからだ。
  わたしは東から、あなたの子孫を来させ、
  西から、あなたを集める。

 新約聖書・コリント人への手紙 第二4章8~10節
  私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
  迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
  いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

 本ブログ過去の関連記事
  ・2015/08/23付:「失敗、ユニーク、ユーモア・・・『道化師の孤独』を抱えた『聖なる無用性』:『寅さんとイエス』を読む」

 参考文献
「聖書力」(著者:中野雄一郎氏、出版社:いのちのことば社サイトブックス、出版日:2011/04/20)
「聖書力」(著者:中野雄一郎氏、出版社:いのちのことば社サイトブックス、出版日:2011/04/20)
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ロジック無き会話不要と論理思考により気付く時事問題の繋がり:「コミュニケーションは、要らない」を読む

2016-05-08 10:48:23 | 孤独・独立・自尊心
 ロジックの無い、論理的に言葉を連ねた文章や話では無い、その様な「コミュニケーションはいらない」。
 「コミュニケーションは、要らない」(著者:押井守氏、出版社:幻冬舎、出版日:2012/03/30)を読んだ。
 世間・巷で大概取られているコミュニケーションは、言葉の裏に繋がる筋道とその根元に存在するはずの根拠が無い、ただ表面だけの、上面だけの、浅く、軽薄な、奥行きの無い言葉が述べられ、それらは得てして意味のない、空虚な言葉である事が多いものである。
 テレビのバラエティ番組に象徴される様に、その時・その場の空気・雰囲気に合わせた、一瞬の笑いや一瞬の感情ばかりである。一目ぼれする事と同様に、パッと見た瞬間に、感じた事を直ぐに口に出す。その事で、特に中傷や悪口の場合、安易に相手の人を傷つける。思考回路を通さずに、直観で、口に出している訳で、そこにおいては熟考する事が存在していないのである。よく考えた末の発言であれば、安易に人を傷つける事も少ない様に思うのである。
 その様な言葉には裏付け・証明となるものが存在しない為に、発言した者が責任を取る事が出来ないのである。無責任に発言し、弁証出来ず、言い逃れ、或いは撤回するしか方法が無いのである。論理と根拠を持っていれば、弁論によって証明し弁明出来るはずであるが、表面だけである為にそれが出来ないのである。いい加減である。
 論理的に考える事が出来ない、精神的に未熟な状態に在る為に、理性・心で制約を掛ける事が出来ず、自由の行き過ぎ・履き違えをして、恣意的に行動し発言する者が多い。
 心に土台を築く事が大事である。その礎を基準にして考え、判断する。その基盤を築く為には、相対的では無く絶対的で確固たる規範が必要であるが、それに準ずるものとしては、日本の長い歴史で培って来た伝統・文化である。
 最も奥深くに根本原因が在り、それを根拠としての経過・過程が在る。結果・過程の途中には、細工、工作、曲学阿世等も加わる。そして多くの枝葉に分かれる。その後の表面に現れるのが結果やイメージである。それらの一連を、順序立て筋道を立てたものがロジックである。その論理こそが証明・裏付けとなり、責任ある発言となるのである。
 よく考える為には「沈黙」が必要である。周囲の空気・雰囲気に流されず、喧騒から離れた静寂の中、黙想する。そして、マスコミや世間の放つ目先の出来事や情報に右往左往したり一喜一憂せず、それらを疑問視し、自分でじっくり考えてから判断する事が大事である。私は安易に信じず受け入れないが故に、ポーカーフェイスであり、そう簡単には笑わないのである。
 結局は、世間一般的多数派の人たちは、マスコミや周囲の人たちに感情を操作されてもいるのである。考えずに直観でものを言ったり判断し、考えないから洗脳されやすく騙されやすいのである。
 日本人の国民性として、性善説の傾向が有る。人間は皆いい人であるというものである。つまり、人を疑う事無く、安易に信じて受け入れる傾向がある。それは、現日本国憲法の前文に在る、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」、つまり諸外国が皆いい国だと信頼して、平和ボケしている事にも現されている。
 しかし、日本人が平和や愛、道徳律の事ばかりが書かれていると勘違いして恰も可愛い本だと思い込んでいる「聖書」は、逆に「性悪説」を述べており、人間は皆悪だと言っているのである。そして、その現日本国憲法を押し付けたアメリカ・GHQは、その聖書の知識を持っていたのである。
 自分の欲望を基準にした希望的観測や、思い込み、勘違い、先入観、洗脳によって頭が覆われると、論理的に考える事が出来ない。表面に現されている事象、物事、出来事、情報、人間を、順番に筋道立てて奥深く探って行き、最も奥に在る根本・原因を見て検討する事が必要である。その事が、真の理解に繋がる。
 歴史はロジックを構成する。歴史を検証する事は、現在の諸問題を解決する手立てとなる。表面の現諸問題を、過去を振り返って歴史という過程を検証していき、それらの原因・根拠を見つけ検討する日本の戦後歴史教育には捏造・虚構・抹消が在るが、それらを奥深く検証して修正・訂正する事で、今後の日本の未来が開けていくのである。要するに、表面しか見る事が無ければ、未来は無い、つまり属国、グローバル政府の一部となる等して、国は滅ぶのである。
 マスコミなどが流行らせるブームは直ぐに消えて無くなるが、思想書、哲学書等の「古典」は、長い時間を経て現在まで残っている。その中でも「聖書」は世界最大のベストセラーで、今から約3,500年前から約1,900年前まで書き足されながら、現在まで全く書き換えられる事が無かった本である。真実である為に、今後とも永遠に変わる事が無いのである。その古典を基にして、筋道立てて順に論理的に考えて、結論、判断、決断へと繋げるという思考方法が良い。また読書により教養を養い、それをベースにして論理性を持つ教養とは、「学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。」(デジタル大辞泉より)と辞書に在り、単なる知識では無い
 明治時代に始まった言文一致運動により、平安時代に完成して日本の古典に使われている文語文を、話し言葉の口語体に統一して口語体を書き言葉としようとした。その流れが、現在の携帯・スマートフォンによるメールやラインに使われる軽薄な言葉への衰退に繋がっている言葉は文化であり、日本語は独自性を表し、その日本語を持っている事で、この国を日本であると言う事が出来る。
 現在、大手の会社や大学等の一部では、グローバル化の名の下に英語を導入して、その組織内でその公用語化を進めている。また、戦後に中学で義務教育化されている英語を、更に小学生時に早めようとしている。選択教科で外国語を学ぶのであれば理解出来る。しかし、義務として外国語を押し付けられているのである。更に高校では、日本史が選択教科にされてしまっているのである。果たしてこの国はどこの国なのであろうか?。日本と言う国と言えるのであろうか?。戦後、植民地化されている一例である。またグローバル化は、その実、世界共産化グローバル政府の過程に在るのである。
 本書はタイトルを「一見すると」、単に会話の事に関してしか書かれていない様に「勘違い」するかもしれない。しかしその「内容」は、そのイメージとは異なって幅広いのである。原発、核兵器、国防、自衛隊、憲法、国家、政治、米国、映画、マスコミ、世間、文化、歴史等と、多岐に渡っているが、見ても解るように、その全ては関連して繋がっているのである。
 論理的に考えて見ていけば、その繋がりに気付のである。しかし、世間一般的多数派の人たちの様な表面ばかりを見ていると、そのそれぞれがバラバラの様に感じてしまうのである。しかし実際は、中でも特にその一部は地下で、繋がっているのである。
 著者は原発推進派との事である。福田康夫内閣時の石破茂防衛大臣(当時)の発言した事と同じく、日本が原発とその原料、技術を保有する事が、いつでも核兵器を作る事が出来るという可能性を対外的に示す事による核抑止力を持つ事になり、日本は実質、核保有国であると述べる。因みに、現内閣府特命担当大臣の石破氏はクリスチャンである。また、「自民党きっての外交・安全保障の論客、政策通で知られる」(ウィキペディア「石破茂」より)。世間一般的クリスチャンたちと異なって、幻想に浸らず現実を見ているのである。
 また戦後に日本で原発を推進したのは、米ディズニーのプロパガンダ映画と、読売巨人軍創立者・初代オーナーで読売新聞・日本テレビの正力松太郎・代表取締役社長であるが、そのウォルト・ディズニーはフリーメーソン、正力氏は米国CIAのスパイであった。そして、活断層の上でしかも海岸沿いに、原発を次々と建てていった。
 「真善美」を挙げている。「真善美」とは、「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。」(デジタル大辞泉より)。また「審美」とは、「自然や美術などのもつ本当の美しさを的確に見極めること。また、美の本質・現象を研究すること。」(同書より)。「本質」とは、根本的性質であり、本性であり、そのものを規定するものであり、不変である。論理的に考えるとは、その本質を見極めていく事である。
 「死生観」は、人間の根本的問題である。死の事を想う事で、現在の生・生き方について考える。死はこの世に生きる人間全てが避ける事の出来ない本質の内の一つであるが、特に若者をはじめとして、その死という本質を見ずに目をそらし、希望・夢ばかりを見ている。嫌なものは見たくないという、希望的観測の内の一つである。その自分のやがて訪れる死を直視し、それに至るまでの過程である人生の運命を覚悟する必要が有る。
 ところで、マスコミは金にクリーンであるか等の政治モラルばかりを追求し、政策理念や内容に焦点を当てない。表面的なイメージばかりを重んじて綺麗事を良いとする。世間はそのスキャンダルにしか興味を示さない。マスコミは本当に大事な事を隠して、世間一般には伝えていない。本質では無く、表面の内の一部分のみを伝えているのである。
 著者は、「自分の頭で考える ― 本質論の時代」を唱える。

 本ブログ過去の関連記事
  ・2012/11/21付:「原発・日テレ・CIA~第二次大戦後の裏面史」
  ・2015/08/13付:「前例から原発爆破の脅し、核の傘による平和の享受、真の独立の為の核兵器開発、偉大な微生物群」
  ・2015/11/29付:「精神的に自立した本当の大人は自分で勉強する・・・セックスを基準に大人と判断する世間の低レベル」
  ・2016/04/10付:「確たるベース・根拠の裏付け無き世間の低次元の評価を恐れる事により偽善・欺瞞・裏切りの罠に陥る」
  ・2016/04/10付:「『希望的観測』で曇らせた眼鏡で夢・幻想を見ている世間の人達・・・現実、本質、そして運命が見えず」
  ・2016/05/08付:「北朝鮮でも実証、有用微生物、発酵食品による除染・・・『放射能汚染 だまされてはいけない!?』を読む」

 参考文献
「コミュニケーションは、要らない」(著者:押井守氏、出版社:幻冬舎、出版日:2012/03/30)
「コミュニケーションは、要らない」(著者:押井守氏、出版社:幻冬舎、出版日:2012/03/30)
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自立せず「自助」の努力を怠り安易に「共助」に依存するのは本末転倒である・・「友だちはいらない」を読む

2016-05-08 10:13:26 | 孤独・独立・自尊心
  ズバリ、このタイトルに共感し読んだ。
 「友だちはいらない。」(著者:押井守氏、出版社:東京ニュース通信社、出版日:2015/05/10)
 また、帯に在る「世間の価値観に『NO』を叩きつける」にも非常に共鳴した。
 友達を安易に作るよりも、先ず自分で勉強し、自分で考え、自分で判断し、自分で行動するという、「自立意識」を持つ事が大事である。最初から安易に他人に頼らずに、自分で努力する事が大事である。精一杯に自分独りで努力した後に、不足する部分を他人に補ってもらう順番が大事である。「自助」を怠り「共助」を求めるのは本末転倒であり、それは単なる甘えである。以上の様に、無欲恬淡に孤往独邁していく覚悟の私は思うのである。
 私は「自分の価値観」として、友達も恋人もいらないと、今に至っては正直その様に思っている。また、群れる事が元来から嫌いである。
 友達も恋人もいない孤独である事をおかしいと思うのであれば、勝手に笑っておけと思っている。笑われたからと言ってその様な低俗な事を気にする訳が無い。また、笑われたからと言って、それによって私が笑った相手に媚びへつらい迎合して友達や恋人を作ろう等とは全く考えない。つまり、笑われたところで、私は今後も変わる事は絶対に無い。自分に自信が有れば、人の反応や評価、顔色、中傷、雑音等に影響されず、振り回されず、逆にそれらに対しては、却って見下す事が出来るぐらいである。
 確乎不動たる自尊心、誇り、自信があれば、自分がおかしいのでは無く、却って著書も言っている通り「世間がおかしい」と思える様になるのである。
 「中傷」とは「根拠のないことを言いふらして、他人の名誉を傷つけること。」と辞書に在る(デジタル大辞泉より)。
 孤独である事がなぜおかしいことなのか、理由を述べてみろと思う訳であるが、理由も無く笑っているのである。そもそも孤独である事を笑う理由は全くないのである。その笑うと言う評価の裏付けとなる理由が存在しないのである。その笑いに根拠・証明が無いのである。証明の無いものを信じる事によって、騙される訳である。
 一方、孤独は良くないと著者は言っている。しかし私は孤独は値打ちの高い良いものであると解釈している。孤独は、自分の内面を見つめ、黙想し、思索し、読書し、勉強し、修行し、訓練・鍛錬し、祈り、教養を高め、心身を修養し、信仰を深める事が出来るのである。但し勿論、孤独の自由には公の秩序を乱してはならない責任が伴う。また、高い道徳心と自律意識、規範を持つ事が必要である。
 「当たり前の事を疑問に」と言っている。つまり、世間一般に存在する常識や空気、雰囲気を疑えと言っている訳であるが、それらは決して正しい訳では無いのである。同様に理由もなく、自分で判断せず、世間の多くの人達はそれらに従っているのである。
 本ブログの2016年4月10日付の記事「確たるベース・根拠の裏付け無き世間の低次元の評価を恐れる事により偽善・欺瞞・裏切りの罠に陥る」より以下に引用する。

 「旧約聖書・箴言29章25節
   人を恐れるとわなにかかる。
   しかし主に信頼する者は守られる。

 人を恐れるとは、人の雑音に値する様な言葉を聞き入れたり、人に嫌われない様にしようと努めたり、人から笑われない様にしようと努める事で、その様に人からの評価・承認を求めようとする事である。その様にして他人の評判や反応、顔色を気にして、それらを当てにして、基準にして言動に繋げる事は、偽善行為を自ら行う事や欺瞞や裏切りを被る「わな」に繋がるのである。 
 そして続く26節には、

 同書・29章26節
   支配者の顔色をうかがう者は多い。
   しかし人をさばくのは主である。

 世間の大多数の人達にとっての支配者は、周囲の人・他人である。周囲・他人の評価・反応が支配者となっているのである。その周囲の人を恐れているあまりに周囲の人に従っているのである。自分の思いでは無く、周囲の人・他人の考えに同調して行動し、発言しているだけである。つまり、他人から批判やバッシング、嘲笑等をされて裁かれる事を恐れているのである。しかし、それらの裁きは間違いである。
 世間の多くの人達は、周囲・他人を自分の支配者として崇め拝んでいる奴隷状態にいるのである。そして自分自身を失くしてしまい他人になってしまっているのである。
 他人の評価・承認は当てにならない。他人の評価・承認には、正しい裏付け・証明が存在しない。根拠・基準が無い。明確な理由が無い。それらの事が解ると、人を恐れる事は無くなるのである。
 そもそも、評価・承認をする側の世間の多数派の人達の持っている教養レベル・知識レベル・思考レベル・判断レベルを見ていけば、如何に低レベルであるかが解るものである。その低レベル・低次元から生じる評価や承認が如何に低レベル・低次元な評価・承認であるかが解るものであり、その様なものが馬鹿げていて如何に間違っているかという事に気が付くものである。
 また、周囲・他人の常識・空気・雰囲気を基準・根拠にし、「みんなが言っている事だから」、「みんながやっている事だから」という理由だけで、評価・承認に繋げているだけなのである。みんながみんな間違った事をしていても、それが常識化するのである。自分自身の内に考え・主義・主張が存在せず、付和雷同しているだけなのである。組織等の或る枠内・範囲では、その様な常識化・空気・雰囲気が形成され易い。空気や雰囲気は「空(から)」である。その空である存在のものに、多くの人達は支配されているのである。」

 本ブログ過去の関連記事
  ・2016/04/10付:「確たるベース・根拠の裏付け無き世間の低次元の評価を恐れる事により偽善・欺瞞・裏切りの罠に陥る」
  ・2013/04/08付:「唯一の創造主に従いながら、此の世に在っては『独立自尊』の精神を」
  ・2013/11/24付:「自由で自然なマイペースの自分を取り戻す為の、独り静かな食事・・・『孤独のグルメ』を読んで」
  ・2014/05/18付:「『独行道』・・・流浪・孤独の境涯を渡った宮本武蔵・・・『宮本武蔵 剣と人―遺書『独行道』に秘められたその実像』を読んで」
  ・2014/06/29付:「『『普通がいい』という病』を読んで・・・絶対的基準・規範も持たずにお互いの顔色・反応を確かめて『普通』と認め合っているに過ぎない世間の人達」
  ・2014/08/06付:「奴隷根性を持たないパレスチナ人が不義・不正のイスラエルに対して抵抗・反抗するのは正当・・・イスラエルのガザ侵略・パレスチナ人に対する虐殺と人権蹂躙(3)」
  ・2014/08/26付:「独立心の強いパレスチナ人は決して妥協せず抵抗・反抗を続ける・・・イスラエルのガザ侵略・パレスチナ人に対する虐殺と人権蹂躙(15)」
  ・2015/08/13付:「自分のアイデンティティを重んじ自尊心を高める事が自信・誇りとなり、ひとりで生きる強さとなる」
  ・2015/08/13付:「独立を維持し自尊心・自信を持ちつつ自分の弱さを認め謙虚である事による力・・・『負ける力』を読んで」
  ・2015/11/29付:「精神的に自立した本当の大人は自分で勉強する・・・セックスを基準に大人と判断する世間の低レベル」
  ・2016/04/10付:「独立自尊の精神で孤往独邁の覚悟・・・妥協せず精神面での勝利、『自分を取り戻す』」
  ・2016/05/08付:「閑寂の中に独立し、心に礎を据え成熟する・・・『孤独の価値』を読む」
  ・2016/05/08付:「心に絶対的規範由来の礎を存する独立自尊の精神を持つ力・・・『孤独の力』を読む」

 参考文献
「友だちはいらない。」(著者:押井守氏、出版社:東京ニュース通信社、出版日:2015/05/10)
「友だちはいらない。」(著者:押井守氏、出版社:東京ニュース通信社、出版日:2015/05/10)
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心に絶対的規範由来の礎を存する独立自尊の精神を持つ力・・・「孤独の力」を読む

2016-05-08 09:37:04 | 孤独・独立・自尊心
 日本の植民地化の恐れによる危機が迫る中での明治維新の最中、啓蒙書「学問のすすめ」を発表した福沢諭吉は、「独立自尊」の精神の大切さを説き、「一身独立して、一国独立する」と述べた。日本人一人ひとりが自立して独立精神と自尊心を持つ事によって、国家存亡の危機を乗り越え、当時の西欧列強と対等に付き合える事が出来ると述べ、独立心の無い人たちを批判した。
 「孤独」とは、その「独立自尊」の精神を持ってこそ高い値打ちを有する。世間一般的には、逆に理由も無く悪いイメージで捉え評価している傾向が在る。しかし、大衆・群れから独立して離れ、他に頼らず自分の足で立ち、自分の独自性を重んじて、自分を尊ぶ心を持つ。その上で、自分に誇りを持ち、自分に確信を置くという自信を持つ。
 「自尊心」が大事であって、「他尊心」は必要無い。他人・世間の評価・承認は必要ないのである。周囲にどう思われようが全く関係無い。自分の内に確固たる土台・礎を築けば、それが本当の自信・誇り・自尊心となり、周囲に影響されず、泰然自若となる。
 土台・基礎が築かれない心を持っての孤独は、確かに危うい。孤独により得られる自由が行き過ぎ履き違える恐れがある。それは、迷惑行為、道徳秩序を乱し、犯罪へと繋がる恐れがある。その為、外からの法律による制約だけでは無く、自分の内面に高い自律意識、道徳意識が必要であるが、それらの基となる、確固たる真実の絶対的規範が必要となる。その規範が心に基盤を作る。自由には責任が伴うが、秩序を保つ為のルールを守る事は、最低限必要な事である。
 「孤独の力」(著者:五木寛之氏、出版社:東京書籍、出版日:2014/09/04)を読んだ。
 世間一般的多数派の人たちは、欲望や常識、先入観、人の評判等に拘束され、執着心を持ち、依存して、心が自由では無い。そして欲望や他人等の奴隷となっている。それらこの世的なものから解放されて、精神的に自立する必要が有る。
 しかしこの世で生きていくとなると、その様な世間一般的多数派とは、多少なりとも折り合いを付けていかなければ生きていき難くなる。
 しかし、その事によって得られる定着・定住をせず、放浪してまらうど(客人)や流れ者となって孤独を貫いていた先人たちもいた。山の民サンカもその様な人たちであった。
 また、家庭や仕事を持つと、その分独り静かに黙想する時間を取りずらくなり、思考レベルが低下する恐れが有る。
 世のしがらみや煩わしさ、淫蕩等から逃れて、山で隠遁生活を送り、出世を拒んだ先人たちもいた。良寛や、ジャーナリスティックな「方丈記」を世に遺した鴨長明もその一人である。
 中世の同時期に仏教界に革命を起こした法然親鸞法然は群れて組織を作る事を否定した。また親鸞は、一対一で阿弥陀仏と直接向き合うという近代的個人主義を、その教えによって成立させた。また親鸞は、人間はもともと悪の心を持つという、旧約聖書の「原罪」に通ずる性悪説を唱えた。そして法然、親鸞共に、偶像を作る事を禁じ、神格化する事を禁じ、名号をみだりに唱える事も禁じた。これらも、旧約聖書の「十戒」に通ずるものである。
 しかし、法然と親鸞の教えに対して「馬の耳に念仏」であるがごとく、その弟子や信者、民衆は、その教えに反して偶像を作って神格化し、宗教組織化した。
 イエス・キリスト、ブッダも孤独であった。この世、人に寄り頼まずに、天の父、創造主に祈った
 私は天の邪鬼であり、ひねくれ者であり、へそ曲がりであり、偏屈者である。今後も「独立自尊」を持って、「孤往独邁」を貫く覚悟を持っている。自分の内に土台を築き、「確乎不動」となって生きていく。
 本書において、鴨長明が渡来人ではないかと問うている。京都の地が、祇園祭、広隆寺、松尾神社等と、その渡来人により形成された事が伺える事等も関連して述べている。そして法然や親鸞の教えにその趣向が感じられ、且つ、その血筋から、渡来人、古代ユダヤ人ではないかと言われているのである。下記に在る本ブログ過去の記事、2012年11月22日付「法然・親鸞は古代ユダヤ人」に記載している。

 本ブログ過去の関連記事
  ・2012/12/20付:「天変地異、災害、無常・・・方丈記・鴨長明の生き方と、キリスト者としての生き方」
  ・2012/11/22付:「法然・親鸞は古代ユダヤ人」
  ・2013/04/08付:「唯一の創造主に従いながら、此の世に在っては『独立自尊』の精神を」
  ・2013/11/24付:「自由で自然なマイペースの自分を取り戻す為の、独り静かな食事・・・『孤独のグルメ』を読んで」
  ・2014/05/18付:「『独行道』・・・流浪・孤独の境涯を渡った宮本武蔵・・・『宮本武蔵 剣と人―遺書『独行道』に秘められたその実像』を読んで」
  ・2014/06/29付:「『『普通がいい』という病』を読んで・・・絶対的基準・規範も持たずにお互いの顔色・反応を確かめて『普通』と認め合っているに過ぎない世間の人達」
  ・2014/08/06付:「奴隷根性を持たないパレスチナ人が不義・不正のイスラエルに対して抵抗・反抗するのは正当・・・イスラエルのガザ侵略・パレスチナ人に対する虐殺と人権蹂躙(3)」
  ・2014/08/26付:「独立心の強いパレスチナ人は決して妥協せず抵抗・反抗を続ける・・・イスラエルのガザ侵略・パレスチナ人に対する虐殺と人権蹂躙(15)」
  ・2015/08/13付:「自分のアイデンティティを重んじ自尊心を高める事が自信・誇りとなり、ひとりで生きる強さとなる」
  ・2015/08/13付:「独立を維持し自尊心・自信を持ちつつ自分の弱さを認め謙虚である事による力・・・『負ける力』を読んで」
  ・2015/11/29付:「精神的に自立した本当の大人は自分で勉強する・・・セックスを基準に大人と判断する世間の低レベル」
  ・2016/04/10付:「独立自尊の精神で孤往独邁の覚悟・・・妥協せず精神面での勝利、『自分を取り戻す』」
  ・2016/05/08付:「閑寂の中に独立し、心に礎を据え成熟する・・・『孤独の価値』を読む」

 参考文献
「孤独の力」(著者:五木寛之氏、出版社:東京書籍、出版日:2014/09/04)
「孤独の力」(著者:五木寛之氏、出版社:東京書籍、出版日:2014/09/04)
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閑寂の中に独立し、心に礎を据え成熟する・・・「孤独の価値」を読む

2016-05-08 08:56:04 | 孤独・独立・自尊心
 孤独は、その活用次第では、高い値打ちを存するものに成り得る。孤独によって自由を手に入れる事が出来るが、それには前提条件が有る。
 自由の行き過ぎ、履き違えとならぬように、外からの法律等による制約だけでは無く、自分自身の内に、自律意識、高い理性、高い道徳感が必要となる。それら自律・道徳・理性を形作る基となるのが。確固たる真実の規範である。その規範たるものは、相対的に優れているというレベルでは無く、絶対的なもので、最高のものである。またその様な規範に準ずるものとしては、長い歴史とその上で培われて来た伝統・文化を基にする事である。また、高い教養と知識も、その意識形成には必要である。
 その規範を基にして、心に土台が築かれて固く存在している事が、孤独でいる事の前提条件として必要である。
 自由には責任が伴う。同様に、権利には義務が伴う。孤独である一方で、公共の秩序を乱さず、迷惑を掛けず、道徳秩序も乱さず、罪を犯さない事が必要となる。
 それらの条件を満たした上で、自分の内面を高める為の、修養・修練を行う。勉強、読書、研究、芸術、詩、創作を行う。
 静寂の中で自分と向き合い、内省し、思索し、自分の思想・哲学を持つ。この事が、自立意識と独立精神に繋がり、自尊心、自信、自分の誇りに繋がる。友達を安易に作って依存し甘えようとせず、自分で努力する事が大事である。友達や恋人、金よりも、自分の思想を持って自立する事が必要である。
 「孤独の価値」(著者:森博嗣氏、出版社:幻冬舎、出版日:2014/11/30)を読んだ。
 孤独の静寂・閑寂からは、侘び寂びの美意識が生まれ、飾らず、シンプル、質素、簡素の価値を認識し、清貧の思想を得る。精神的に成熟し、自分で考え自分で判断出来る、精神的に自立して真の大人になる。
 世間一般的多数派の群れにおいての喧騒の中にいると、それらの事は不可能である。その群れ・集団から離れて、独りで立つという「独立」が必要である。
 私は釣りを趣味として持っているが、独り波打ち際に座って海を眺めながら、その波の音、波しぶきが散って含まれた空気を吸いながら、精神はリラックスされて浄化される。森林浴も同様で、その波打ち際にはα波やマイナスイオンがその効果を促している。世間・社会・都会の喧騒から離れて、その様な自然の中に独り身を置く事で、心身をリセットする事が出来る。
 最近は、個人でも生きやすくなっているという。私も著者と同様、インターネットを利用しての通信販売を利用している。食品や石鹸・洗剤等、農薬・化学肥料不使用の有機栽培されたものや、化学合成添加物が無添加のものを近くのスーパーで探してもなかなか見当たらず、あまり店頭には置いていない。また、本の購入においては、予め希望の本がある場合には検索にて直ぐに見つかり、インターネットのクッキー(Cookie)機能によって、それまでの検索履歴から自動的に推測された、それらの趣向に見合った、関連した本が紹介される為に、便利に感じている。
 ところで、その世間一般的多数派の世論を形成し、また誘導しているのが、テレビ等のマスコミである。マスコミはその世間一般的多数派の人たちを洗脳し、ドラマ等では感情を動かすという「感動」をさせて、ある方向に目と頭を偏向させて、偏見を持たせて煽動している。マスコミは、綺麗事、偽善、美化、幻想、虚構によって、感情を操作しているのである。そして、「感情」を優位にさせて、大事な「思想」を失くす方向に導いて来たのである。
 孤独である事は「独立」する事である。マスコミや世間一般的多数派に影響されない独立状態に居るのである。そしてそれらを客観視して批判し、決してそれらには従わないのである。

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  ・2015/11/29付:「精神的に自立した本当の大人は自分で勉強する・・・セックスを基準に大人と判断する世間の低レベル」
  ・2016/04/10付:「独立自尊の精神で孤往独邁の覚悟・・・妥協せず精神面での勝利、『自分を取り戻す』」

 参考文献
「孤独の価値」(著者:森博嗣氏、出版社:幻冬舎、出版日:2014/11/30)
「孤独の価値」(著者:森博嗣氏、出版社:幻冬舎、出版日:2014/11/30)
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低く暮らし、高く思う

2016-04-17 21:08:52 | 孤独・独立・自尊心
 「低く暮らし、高く思う」

 生活は飾らず質素で簡素に、思想は高貴に気高く、気骨を持ち、深く重く。
 清貧に、持たない事が却って精神的・心的に豊かになる事に繋がるということ。
 仕事の忙しさや世間の騒がしさから解放され、隠遁・隠棲・閑居して、自分の内を見、静かに暮らし黙想する。
 この様な姿勢・時を、日々、出来る限り多く持ちたいと想う今日この頃である。

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  ・2012/12/01付:「下山・・・世間的なものの束縛からの解放で得られる幸せ・・・『下山の思想』を読んで」
  ・2012/12/20付:「天変地異、災害、無常・・・方丈記・鴨長明の生き方と、キリスト者としての生き方」
  ・2013/07/29付:「スピード・効率化の追求が、人間の思考を奪っていく」
  ・2016/04/10付:「三島由紀夫氏「檄」と世間の人達・・・レジャーやショッピングにうつつを抜かし……」
  ・2016/04/17付:「有名人の覚醒剤使用と世間の人達の欲望への依存は同じ・・・際限ない一時凌ぎ・暇つぶしからの自立の必要性」
 
 関連動画
 

YouTube:『スモール・イズ・ビューティフル①【再】』久保田信之 AJER2016.3.12(5)
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独立自尊の精神で孤往独邁の覚悟・・・妥協せず精神面での勝利、「自分を取り戻す」

2016-04-10 17:04:49 | 孤独・独立・自尊心
 私は現在、「自分を取り戻す」を内に秘め日々を送っている。安倍首相の掲げるスローガン「日本を取り戻す」と同様に。
 過去には失敗・間違いが多々あった。しかし、全てにおいて間違っていた訳では無かった。正しかった事も多かったのである。若いころは一生懸命に努力してよく仕事をしたものだった。
 過去の歴史を振り返り検証し直し、また教訓とする事で、未来への展望が見えて来るのである。国の事のみならず、自分自身の事についても言える事である。
 私には、今までに3回のターニングポイントがあった。1回目は今から28年前の高校中退の時、2回目は今から13年前でイエスキリストが十字架に磔にされた歳と同じ歳である33歳と半ばで怪我をした時、そして3回目が4年前に親指の骨折をした後に暫くの間、隠遁するような生活をした時である。
 そのそれぞれの時に自分自身を見つめ直し、自分の過去・現在・未来を展望した。1回目の時は正に世間知らずで、知識・教養も無く、家出をして自分探しをする中で自己実現に向けての目標を定めていった。
 2回目の時には自分の家(マンション)を所有する等してある程度の自己実現が出来ていた中での点検・転機であった。今と比べると趣味の釣りに明け暮れる等して読書も殆どせず仕事以外の勉強を殆どせず、特に社会問題や政治には今と比べると余り関心が少なく、それ故に知識・教養も今と比べると非常に低かった。私がインターネットをし出したのは今から8年前の2008年からで、その頃はパソコンは持っていたものの未だネットでの検索等は全くしていなかった。そして退院後の自宅療養時にその時の自分なりに考えた結果として、医療系の専門学校に進む事を決意して、まずは高校中退であった為に大検(大学入学資格検定:現・高卒認定資格)を取得し、その2年後の2005年に、14年間一貫して継続して来た鉄工の製缶工としての仕事を辞め、その専門学校に進学した。その学校在学時には、取れる資格は全て取得した。授業で習い教えてもらう前から、「自分で勉強して」資格を取ったのである。それ故、「生意気だ」等と、多くの難癖を付けられて抑えられる事も度々あった。並行して行っていたアルバイト先でも同様であった。しかし、卒業して少しその関係で働いてみたものの元々の性格が災いしたり過去のレッテル評判等で「差別」を受ける等をして、特攻隊の様にして全く畑違いの所へ飛び込んでいったが、失敗に「終わった」
 3回目の時には、初めて自分で家で、聖書を通読し始めた。新改訳聖書でプロテスタントが多く使用している聖書である。現在、最後のヨハネの黙示録の途中まで1回目の通読が進んでいるが、ほぼ4年もかけてのそれである。そして「悔い改め」を行った。そして「自己実現」よりもハイレベルである「神実現」を知った「神実現」とは、自分の欲望から解放されて信仰心を持った上で神に委ねて神に実現してもらう事である。それに対して「自己実現」とは、自分の「欲望」が基準であり、自分の欲望を信仰している訳である。
 高校中退を経験してか、生来持っている自分の性格の素質が開花したのではないかと思える。私の父もそうであったが、中退後の私は偏屈でひねくれ、頑固であった。また鉄工所に最初に見習いをし出した22歳の頃から「独立自尊」の精神を持ち続けて来た。
 その様な精神が災い?してか(周囲の世間の人達にとっては災いに感じているのかもしれない)、結局元の仕事に戻っているのである。失われていた「本当の自分」を取り戻している最中である。そして鉄工職人として、「清貧」でありながら、謙虚にコツコツと、また日々努力しながら経験を積み重ねているのである。
 因みに誤解されたくないのは、私は自分自身の事が好きである。傍から見てのイメージとは異なり、私は現在然程不満もなく、ストレスも比較的感じていないのである。世間の多数派の連中とは、価値観が全く異なっているのである。欲望まみれの世間の連中に対して、私は今に至っては欲望は少なくなっているのである。
 「おられへん」等と言う者がいる。しかし、私は社会に出始めた若い頃からずっと嫌われたり嘲笑されたりして来たのである。そして友達や恋人も全くいなかったのである。何も今に始まった訳では無いのである。周囲の連中の言うように「おられへん」のであれば、私は今までにとっくに死んでいたはずである。しかし、現実に私は今ここに生きているのである。決して幽霊ではない。私の存在は「現実」である。
 嫌われたり嘲笑される理由としては、孤独である事が理由の大勢を占めている。しかし、孤独の何が悪いのであろうか。その理由を聞いたところで「みんなが言っている事だから」であろう。根拠も確かな理由も無く、只々周囲の評判や反応を基にしての言動や態度、表明となっているのである。その様に世間の多くの人達は自分で考え自分で判断する事が出来ないのである。
 要は、おれるかおれないかは、自分自身の精神力次第である。私の場合は若い頃から、誇り、自尊心、独立意識、自立意識が強かったのである。故に、例え孤独でもおれる訳である。現にこうしておれている、存在している事が証明となっているではないか。
 私は妥協しない。今後も頑固に生き続ける。周囲の雑音に相当するものは聞き入れない。決して雑音には効かされず、惑わされず、左右されず、動かされない。
 他人の言う事を聞くという事は、他人に従うという事であり、それは他人の奴隷となる事を意味するのである。故に、私が聞くわけがない。或いはそれらの雑音が私に効くわけが無いのである。
 パレスチナ人がイスラエルに対して妥協せずに抵抗・反抗・反発を続けている。イスラエルに対して妥協して迎合した方が食料や住居、職業を手に入れて生活の安定が得られ、日常の安全保障も得られるのであろうが、パレスチナ人は敢えてイスラエルに妥協せず反発を続けているのである。私には理解できる。パレスチナ人は決してイスラエルに負けていないのである。実は精神面においては、パレスチナ人はイスラエルに勝ち続けているのである。人の雑音を聞き入れてそれに従ったり妥協する事が負けとなるのである
 戦後の日本人は、パレスチナ人とは正反対である。給料の為、就業の為、生活安定の為に、独立意識が希薄となって奴隷根性を持って迎合し従っているのである。戦後の日本人の在り様は、旧約聖書・出エジプト記におけるエジプトにおいて奴隷状態にありながら生活が保障されていたへブル人(ユダヤ人)と同様である。
 独立自尊の精神を今後も持ち続け、気骨稜稜・確乎不動とし、無欲恬淡孤往独邁していく覚悟である。自分の精神上の誇り・自尊心・独立心を守る為に、人に妥協せず、精神面において勝利し続けるのである。そして何より、創造主を信仰し主に委ねる事により「パワーアップ」するのである。

 旧約聖書・詩篇11章1節  
   主に私は身を避ける
   どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。
   「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。

 これは今から約3,000年前のユダヤの王様ダビデの言葉である。
 

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YouTube:「単独者の覚悟」辰吉丈一郎とは何者か【1】
 

YouTube:最も大事な価値観とは何か「現代の教育を問う」【2】2016年3月13日放送
 

YouTube:【CH桜の独立不羈】闘い続ける阿修羅の哀しみと覚悟を[桜H28/3/3]
 

YouTube:役所広司『独行道』/ NHK『宮本武蔵』(1984)より


 
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プライバシー侵害とストーカー行為は孤独・独立精神・自尊心を持つ権利を蹂躙しようとするものである

2016-04-10 08:23:32 | 孤独・独立・自尊心
 プライバシーとは「他人の干渉を許さない、各個人の私生活上の自由。」(広辞苑より)とある。
 そのプライバシーにおいては、孤独である権利、独立精神を持つ権利、自尊心を保つ権利が存在する。また、自分で勉強する権利、自分で検索・調査する権利、自分で考える権利、自分で判断する権利、黙想・祈る権利等も併せて存在している。
 しかし、自由には責任が伴う。その秘密の空間においての自由の履き違えや、行き過ぎとならない為には、自律心や規範意識としての歴史・伝統・宗教を背後にして持つ道徳心・倫理観を責任として持つ事が必要である。他人にされるのでは無く、或いはしてもらうのでは無く、自分で自分をしっかりと管理するという自立意識が必要である。
 最近のマスコミはその様な規範意識が薄れ、知る権利を口実にしてプライバシーを侵害し、表現の自由の名目の下、スキャンダルや名誉を棄損する様な事を暴いている。但し一方では、戦後のマスコミはアメリカの占領後においても「自己検閲」をして自分自身を自分で縛り付けているのであるが
 世間の多くの人達はとかくテレビ等のマスコミに影響されやすい為もあって、同様に道徳心・倫理観が退廃し、只々周囲と同じ事をしていれば良しとしているだけである。周囲が同様に正しくない事を行っているという常識通りに行っていれば、自分独りが批判・バッシング・嘲笑を受けずに済むという理由のみで日々を送っているだけである。要するに、真実には無関心で、日々の生活を当たり障りなく気楽に、スムーズに暮らせれば良いと思っているだけである。周りに合わすばかりで、自分で考えず、自分で判断出来ないのである。
 日本という国も、国家の機密を守るための特定秘密保護法が3年前に成立したが、戦後スパイ防止法が存在せず、また戦前の陸軍中野学校の様な諜報機関を持っていない為に、スパイ工作され放題でプライバシーが侵害され続けて来て、そこから繋がるストーカー行為を行われ続けている。外からにおいてはアメリカから干渉され続け、中国・韓国からは嘘の反日プロパガンダで恰も真実であるかの様にして叩かれ続け、その偽情報を朝日や毎日をはじめとしたマスコミがその下請け工作機関として世間に垂れ流している
 企業においてもプライバシーが侵害され、特許権レベルの機密技術が盗まれている
 その様な世間・社会・企業・国家のプライバシーに関する危機的状況がある中、迫る今夏の参議院選挙で安倍首相が公約に掲げる「憲法改正」において、その「プライバシーの権利」を加憲する事が言われている。
 この「プライバシーの権利」は、ウクライナ、ブルガリア、南アフリカ、ハンガリー等の、1990年以降に制定された100か国の憲法の内、83か国(83%)で採用されている。個人の人権と公共の秩序・国家の安全との平衡を明確に規定して、それぞれに歯止めをかけて法による秩序が保たれた中でのプライバシーとするものである。
 ところで、病院や介護施設においての患者や被介護者は管理・監視状態に置かれている。健康向上の為に一時的に拘束される事は仕方がない部分が有るが、長期間、死ぬまでその様な状態に置かれる事は大きなストレスとなる
 2015年3月5日付・神戸新聞夕刊のイイミミ欄、「薬もプライバシーよ」より、「娘には持病があって、…(中略)…調剤薬局で薬をもらおうとすると、お薬手帳を見て持病の症状などや薬に触れられるんですって。それだけでも嫌なのに、周りに聞こえる声量の時も。仕事で言うのなら小さな声で、周りを気にしてほしい、と言います。薬もプライバシーの一つですよね。(明石、主婦、77)」。
 プライバシーの侵害が、ストーカー行為に繋がる。全国の警察が把握した昨年度のストーカー被害は2万1,968件で、2012年以降は2万件前後の高水準で推移しているとの事。被害者はほぼ9割が女性であるが、残りの1割として男性も存在しているのである。
 2000年11月24日に「ストーカー規制法」が施行された。以下はその法律により定義されている、ストーカーとしての8つの行為である。

  1:つきまとい・待ち伏せ・押しかけ
  2:監視していると告げる行為
  3:面会・交際の要求
  4:乱暴な言動
  5:無言電話・連続した電話・ファクシミリ
  6:汚物などの送付
  7:名誉を傷つける
  8:性的羞恥心の侵害


 以上のストーカーとして認定する8つの行為を、告訴により行為者の処罰と同時に被害者の援助を求める事が出来る
 人へのプライバシーの侵害とストーカー行為は、その人を精神的に奴隷状態に置こうとするものである。また、単独者の独立意識を妨げるものであり、名誉棄損によって自尊心をも踏みにじろうとするものである。
 因みに、名誉棄損罪とは、「具体的なことがらを挙げて、相手の名誉を傷つける罪。挙げたことがらの真偽にかかわらず成立する。ただし、相手が死者・公務員・選挙などの候補者である場合、公共の利害に関する場合、挙げたことがらが真実であれば成立しない。刑法第230条が禁じ、3年以下の懲役もしくは禁錮または50万円以下の罰金に処せられる。」(デジタル大辞泉より)。
 また、侮辱罪とは、「具体的なことがらを挙げずに、公然と人を侮辱する罪。刑法第231条が禁じ、拘留または科料に処せられる。親告罪の一つ。[補説]具体的なことがらを挙げて、相手の社会的評価を下げる行為は名誉毀損罪にあたる。」(同より)。
 
 本ブログ過去の関連記事
   ・2013/11/23付:「情報を握る事が『独立』に繋がる・・・『動乱のインテリジェンス』を読んで」
   ・2013/11/23付:「『節度』と『バランス』の有る特定秘密保護法を望む」
   ・2015/11/22付:「米国は日本の自立を阻止する為に、日本に対するストーカー行為を行なっている」

 参考記事
  ・2015/03/05付・神戸新聞夕刊:イイミミ「薬もプライバシーよ」
  ・2016/03/17付・神戸新聞夕刊:「DV被害 初の6万件超 ストーカー高水準2万件」
  ・2010/07/08更新・セコム~ホームセキュリティ~あんしんライフnavi~あんしんコラム:「第21回 最新データから見るストーカー被害〜実態と対策〜」
  ・セコム~ホームセキュリティ~ あんしんライフnaviこんな時どうする?:「ストーカー対策」

 関連動画
 

YouTube:『ストーカー対策「最近のストーカー事情」①』田丸誠 AJER2015.11.16(7)
 

YouTube:Princess Diana & The Paparazzi
 

YouTube:Michael Jackson ~ Paparazzi Monster
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失敗、ユニーク、ユーモア・・・「道化師の孤独」を抱えた「聖なる無用性」:「寅さんとイエス」を読む

2015-08-23 18:09:10 | 孤独・独立・自尊心
 「寅さんとイエス」(著者:米田彰男氏、出版社:筑摩書房 、出版日:2012/07/15)
 本書を読んだ。

 共に失敗、ユニークさ、ユーモア等を併せ持つ、寅さんこと車寅次郎とイエス・キリストの二人の多くの共通点を見出した、カトリック神父である著者の聖書を根拠・ベースにしてのその捉え方により、その共通性の奥深くに存在する価値を読み解き、一見すると表面的には道化師の様に見えるその姿と異なり、実際のその真の意味合いとしての「聖なる無用性」について語られている。
 寅さんもイエスも、生涯独身であった。また共に孤独を抱えていた。因みに寅さんを演じた渥美清氏は、亡くなる直前に夫人と同じくカトリックにて洗礼を受けてクリスチャンとなられた。
 私自身も今までずっと独身であったが、今までの40数年の生涯の上で多くの失敗を重ねて来た。仕事は大筋で鉄工であったが職場は転々とし、且つ他の仕事も種々経験した事から、定着せずに「放浪」していた。また鉄工の仕事の上では若い頃の継続した経験がある事から「有用」とされたが、他の職種では役に立たないと言う「無用」とされた。また鉄工の上においても人間関係等から「無用」とされることもあった。また世間一般と同じ事をせずに世間体を気にせず行って来た事も多く有り、今までの経験等から、周囲・世間一般・多数派とは異なり、希で独特で独自性である「ユニークさ」を持っている。また世間の多くの人達との考え方や捉え方、判断の仕方等が違っていると言う「ユーモア」も持っている。そして現在に至っては、自身の欲心も薄れて世の物事が虚無に感じられて厭世的になり、世間からは一歩身を引いて隠遁的にさえなっている。世に存在する欲望の対象になるものや肩書き等の装飾等の「余分なもの」が落とされて解放されて自由となり、見栄・虚栄が無くなり素の自分、裏も表も曝け出している自分にもそのユニークさ・ユーモアが感じられているものと思うが、その点においても寅さんやイエス、そして「無い」事や持たない事が実際は豊かであると言う事を表現した良寛とも共通する事である。そしてまた、世を軽んじて全てを捨て、清貧・純潔・謙遜・愛・従順を体現し「神の道化師」とも言われるアッシジのフランシスコも同様に感じる。私は物心の付いていない小学生の頃ではあるがカトリックにて洗礼を受けており、現在は教会には通ってはいないが新改訳聖書を読んでいる。それらの為に、本書を多くの共感を感じながら、またその共通性を有していると言う事からの励ましを受けながら、本書を読ませて頂いた。
 本書は300ページ程も有り内容も実に濃いのであるが、以下に、本書の内容を少し引用する。

 イエスは当時のユダヤ社会の体制を全て拒否し、掟破りの人生を送った。また、寅さんの社会常識からのはみ出し度も尋常では無く、常軌を逸していたが、その「両者に共通する逸脱は、他者を生かす為の他者への思いやりであり、表層の嘘を暴き真相を露(あらわ)にする、いわば道化の姿である。」。当時の常識を排除して不浄とされた職業に就いている者達と差別意識を全く持たずに一緒に食事を取ったイエスは、寅さんも同様に、「既成の常識よりも、眼前の困っている人、苦しんでいる人、悲しんでいる人への共感であり、人間として当然正しいことを正しいこととする毅然たる態度である。」。イエスと共に食事をした、社会から差別され排除された人々には生きる希望が蘇った。また寅さんの笑いとユーモアを背景にしたぶざまな姿を見た人々は自らを慰めたが、その「振舞の中にこそ、神の心の痕跡をみる」。
 寅さんの愚かさ、アンバランスの中にユーモアの不思議さ、イエスと食事を共にした社会からのけ者にされていた人々の嬉しさが溢れた事実から読み取れるイエスのユーモア。「ユーモアにとって欠かせない自分を客観視して笑いのめす余裕がイエスに備わっているからである。」イエスが当時の義人達、律法学者達からの反応も読み切り、「『お前さんらがつべこべ悪口を言っても、あるいは笛吹けど踊らずとも、そのうち結果として俺の正しいことは証明されるよ、いや現にもう証明されているじゃないか』とユーモア混じりに言ったとしても不思議ではない。」
 イエスが多く語られた例え話・比喩には、逆説的で皮肉、ユーモアが溢れていた。滑稽の中にある温かさ、フーテンの姿をとり、道化の姿をとり、自己を笑い飛ばしながら自己を無化し、一方で冷たい現実を冷徹に見据え、その時代が盲目的にのめり込んでいる誤った価値観を、ユーモアに包んでメタノイア(回心)に導く、これが二人の姿であった…(中略)…両者は人間性の回復に生涯をかけたと言っても過言ではない。」
 新約聖書の四つの福音書である「マタイの福音書」、「マルコの福音書」、「ルカの福音書」、「ヨハネの福音書」。この内ヨハネが最も遅く1世紀終わり頃成立との事であるが、マルコが最も早くに成立し、その数十年後にマルコを原典・ベースとして参考にしながらマタイとルカがそれぞれが集めた資料を加味して福音書を書いたとの事。一番最初に書かれるマルコのイエス像が、後に書かれる福音書によって幾分上品な装いになっていることは一目瞭然である。例えば、マルコ福音書では“怒るイエス、憤るイエス”も端的に描かれるが、それがルカ福音書になると、“穏やかな、落ち着いたイエス”に修正される傾向がある。」、「もし生きたイエス、即ちイエスの歴史的実像に多少フーテンの匂いがあったとしても、そういった事実には目をつぶり、出来るだけ尊敬に値するイエス像を描こうとしたことは疑う余地がない。」、「歴史の中に生きたイエスの実像は、ルカが描くイエス像よりも更にスキャンダラスであった可能性が高い。」。
 「…(前略)…そこに在るのは、現場でのイエスの出来事である。素朴な名もなき民衆の記憶を頼りに、イエスの出来事をていねいに描いてゆく。マルコ福音書とは、イエスにキリスト論的称号を着せてイエスを理解しようとした当時の主流に対し、そうした既成観念を離れ、生きたイエスの具体的な出来事を描くことを通じて、イエスを理解し賛美した一つの試みに他ならない。そして描き出すイエスの風貌は、…(中略)…「野生の革命家」であった。」
人はとかく称号というかレッテルに惑わされてしまう。どういう職歴か、どういう学歴かでその人物がわかったように思ってしまう。そうした称号やレッテルを一切取り外し、その人物が一つ一つの新しい具体的な出来事に、如何に応じていったかを描くことによって、その人物の質を捉えようとした試みがマルコ福音書である。」
 「誰かから馬鹿にされようと、自分の愚かさ弱さを曝け出しながら、自分を必要とする他者のために暇を差し出すフーテンの寅もまた、ある意味で「野生の革命家」である。誰が寅のように常識をはみ出して生きることが出来よう。人間、口ではいくらでもいい事が言える。いくらでも美しく格調高い文章を書くことも出来る。しかし、具体的な出来事を前にして、自分を必要としている人が眼前にいるにもかかわらず、そこから逃げてゆく人の如何に多いことか。そしてあとで理由を付けて、逃げた行為を弁解する。
 「自分はフーテンである、自分はヤクザである、…(中略)…心の底から自覚している者こそ、いざとなった時、不測の出来事に遭遇した時、自分を捨て他者のために生きることが出来る、人生のパラドックス(逆説)がここにある。」、「泡のように消えてゆく、取るに足らない者としての自覚…(中略)…無益な自分、迷惑ばかりかけてきた自分ゆえ、今何か少しでも人のためになれるならとの思いが生まれる。」
 「福音書から浮かび上がってくるイエスの風貌は、一切の依存、一切の権威を必要としない独立心の人であったこと。人からの評価も、スキャンダルの種になることも、自らの生命を失うことも恐れない、勇気ある人であったこと。物事自体の真実性のみに、言葉や行動の動機を置く、確信に満ちた人であったこと。さらに澄み渡る洞察力と共感力を持ち、今困っている人、悲しんでいる人と共に歩もうとした心温かく、優しい心根の人物であったことなどである。」
 「…(前略)…譲る心、許す心、他者を生かす喜びを二人は教えてくれた。果てしない利益追求に明け暮れる、ゆとりのないこせこせした生活、時間と空間の『空白』に堪え切れず、それを埋め続ける現代人に、『暇』だらけの、時代遅れの寅が、自らぶざまな姿を示しながら、『そんなに急いでどうするんだ、空を切ってるよ』と気づかせてくれた。」
 寅さんの旅先が騒音のるつぼと化した都会を避けて農村や漁村や地方の静かな田舎であり、イエスの舞台も同様に田舎の小さな町や村であったとの事。「『沈黙の世界』の著者M・ピカートは、ラジオ…(中略)…テレビや携帯電話やコンピューターによる騒音と情報の増大は、エネルギーの源泉である、真の意味の『沈黙』を消失せしめ、無意識のうちに当然あるべき人間性を破壊し続けている。」、「『沈黙は言葉なくしても存在しうる。しかし、沈黙なくして言葉は存在しえない』『もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまうだろう』」。「その沈黙から一人の人間イエスが誕生するという『受肉』」
 「出来るだけ合理的に利益を上げるため、時間と空間の無駄を排除しようとする発想は、功利性に反するもの、有用性に反するものを社会から排除してゆく。無用な空間や空白は我慢ならず、…(中略)…空漠としたものに不安を感じ、そこに留まる時にのみ見出し得る何かを、自ら抹殺している。」
 「寅さんの姿勢は、『非接触・非破壊』…(中略)…すなわち一線を越えないこと、触れないことは、相手を大切に思う心の現れであり、今後の新しい出会いに対して、相互にとってより開かれた可能性を残す。」
 「日本的人間の深さはこのつらさによって極まる。日本的に言って深さのある人間、もののわかる人間は、このつらさのわかる人間である。」
 
 本ブログ過去の関連記事↓↓
  ・2013/04/13付:「俗事における「無用性」は一時的なもの・・・信仰によって生き、永遠を求める」

 引用文献↓↓
 「寅さんとイエス」(著者:米田彰男氏、出版社:筑摩書房 、出版日:2012/07/15)
「寅さんとイエス」(著者:米田彰男氏、出版社:筑摩書房 、出版日:2012/07/15)

 関連動画↓↓
 

YouTube: 男はつらいよ カバー (捨て身の愛)
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独立を維持し自尊心・自信を持ちつつ自分の弱さを認め謙虚である事による力・・・「負ける力」を読んで

2015-08-13 16:37:32 | 孤独・独立・自尊心
 独立を維持し自尊心・自信を持ちつつも、自分の弱さを自分自身が認め、傲慢とならず謙虚である事が大事である。
 次の本を読んだ。
 「負ける力」(著者:藤原和博氏、出版社:ポプラ社、出版日:2013/12/05)
 日本には「柔よく剛を制す」の精神を基とする柔道や、自分の力の弱さを認めて相手の力を利用する合気道等、日本人の高い精神性から生まれたものが昔から多く存在し、特に戦前の方が戦後よりもそれらの精神性が重んじられていた。
 しかし敗戦後、多くの事がアメリカナイズされてしまい、戦前までの日本の高い精神性、日本人としての自尊心が自虐史観の植え付け等によって弱められたり失われてしまった。
 帝国主義の欧米列強は罠を掛け、騙し、武力の力で強引に、アジア・アフリカ諸国を植民地にして来た。そのように欧米人・白人は日本人とは異なり、力により強引に従えようとする
 本書は、その本来の日本人独特の高い精神性に通ずる、謙虚な心による「負ける力」を唱えている。
 日本の戦後の義務教育世間一般の常識・慣習・空気・雰囲気等から来る「正解主義」、「前例主義」、「事勿れ主義」が、この「負ける力」、「ベクトルの和」を邪魔しているという。そうでは無く、それぞれ「修正主義」、「先例主義」、「事あれ主義」であれと説く。
 常識化されて一応正解とされている事を鵜呑みにせずにそれに対して疑問を持ち、周囲を恐れずに人と同じ事をせず自分が率先する程の気持ち・姿勢を持ち、失敗を恐れずに例え失敗してもそれを教訓にすれば良い。
 教育委員会における権限の分散により、無責任体質が存在すると言う。戦後GHQによる日本人への戦争責任の植え付けと共に、日本人の精神性を破壊させる為の日教組設立と同様のものではないかと思えるのであるが、その戦後体制の内の一つである教育委員会改革を唱えている。
 「みんなと一緒」より「それぞれ一人ひとり」の成熟社会へとも言っている。その通りである。日本の世間一般の人達はあたかも「世間教」という宗教を信じて、人の顔色や反応をあたかも神のように崇めて、その顔色・反応を恐れて生きている人達が多い

 旧約聖書・箴言 29章25~26節
  「人を恐れるとわなにかかる。
  しかし主に信頼する者は守られる。
  支配者の顔色をうかがう者は多い。
  しかし人をさばくのは主である。」

 人を恐れないと言う事は、人のうわさ話、陰口、悪口、誘惑、煽り立て等の「雑音」に惑わされず、嫌われたり笑われたりする事を厭わず、人からの評価を求めず、人から認められようとしないことである。そして創造主を恐れて主に従う事が大事である。

 「負ける力」(著者:藤原和博氏、出版社:ポプラ社、出版日:2013/12/05)
「負ける力」(著者:藤原和博氏、出版社:ポプラ社、出版日:2013/12/05)
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自分のアイデンティティを重んじ自尊心を高める事が自信・誇りとなり、ひとりで生きる強さとなる

2015-08-13 14:49:54 | 孤独・独立・自尊心
 私は現在46歳(2015年時点)で未婚であり独身である。また独り・孤独である事を全く苦に思わず、寂しいと感じる事も全く無い。一日中黙っていても全く苦にならない。私はその様な性格であり、その事が世間の中に在っては私のアイデンティティや個性となっており、世間一般の目からすると特異に見えているものと思う。
 世間一般的、特に日本に於いては、孤独という言葉の悪いイメージが定着してしまい、孤独であることがあたかも悪い事と思い込んでいる者達が多い。しかし私は逆に、孤独である事が値打ちの高いものであると思っている。
 世間一般の人達は、理由も無く思い込んでいる事が多い。孤独に関しても、「みんなが言っている事だから」という様な理由だけで悪く捉えている場合が殆どである様に思う。
 しかし孤独である事は自由であり、他から干渉される事も無い。自分で考えて自分で判断し、それを自分の言動に繋げるという様に、孤独は精神的な「自立」に繋がる。安易に人に頼らず、自分で解決出来る様になる。
 世間の多くの人達には理屈・理論が存在しないが、孤独であれば熟考する事で自分の内に理屈・理論が生まれ、それが自分の哲学となる
 世間の多くの人達は真実に興味が無く、ただただ周囲の反応を恐れ気にするあまりに周囲の人達と同じ事をして嫌われなければ良しとしているだけである。しかし、孤独であれば真実を追求する様になる事が出来る。
 また孤独は、黙想・祈り・悔い改めに繋がり、周囲・空気・雰囲気に流されず、自分の内側を見つめ、自分の精神・心を高める事が出来る
 その様に、孤独である事の方が自分自身のレベルを高くする事が出来、或いはその可能性を秘めているのである。
 次の本を読んだ。
 「新・シングルライフ」(著者:海老坂武氏、出版社:集英社、出版日:2000/05/22)
 本書は世間の中で寂しさを感じている人達向けに、著者自身の本著作時65歳に至るまで独身である事からのシングル者への共感を込めての自身の経験等からの参考文を書かれているが、私の場合は前述の様である為に、群れ・集団を嫌い世間からは一歩も二歩も身を引いている程である。
 自分自身の中には多様な独自性があると言う。私の内にも色々有る様に思う。しかし私は創造主によって自分に課された運命が存在し、それにより予め道が決められているものと思っている。その主に委ねて主に課された通りに進んで行くと「絶望」とは無縁になるのである。寂しさというのも自分の持っている希望が叶えられない事から生じてくる事の内の一つであり(例えば恋愛願望等・・・)、その様な自分の欲望を基にして自分勝手に希望や目標を持ったところで主が予め引いた路線からはみ出している為に、いつまで経っても叶う訳が無く絶望に繋がるのである。
 自分のアイデンティティを重んじる事は、自尊心を高める事である。孤独で自尊心が高いという事は、「独立自尊」の精神を持って自立している事となる。その事が自信・誇りに繋がりひとりで生きていける強さとなる訳である。

 「新・シングルライフ」(著者:海老坂武氏、出版社:集英社、出版日:2000/05/22)
「新・シングルライフ」(著者:海老坂武氏、出版社:集英社、出版日:2000/05/22)
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お金・事業より優る「思想」、それをも上回る独立した名も無き小さな一個人の勇ましく高尚な真面目なる「生涯」・・・「後世への最大遺物・デンマルク国の話」を読んで

2014-06-08 14:20:28 | 孤独・独立・自尊心

 私は此の世に生まれたからには、何を遺して死んで行くのか…。
 私の命は自分自身の持ちものでは無く、創造主のもの。私の人生は自分自身のものでは無く、創造主のもの。私の命・人生は創造主の為のもの。
  「後世への最大遺物・デンマルク国の話」(著者:内村鑑三氏、出版社:岩波書店、出版日:1946/10/10、改版2011/9/16)
 本書を読みました。
 キリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者である著者・内村鑑三氏は、帰国後の宣教師達との対立、「不敬事件」を起こして世間・社会やキリスト教会から排除され、再婚相手との死別等があり、アルバイト的に流浪の教師、英訳、聖書講義等をして不安定な貧困生活を送る中で、日清戦争の有った明治27年(1894年、内村氏34歳時)に箱根で行なわれた第6回基督教青年会・夏季学校に於いての講演「後世への最大遺物」(刊行は3年後)。因みに前年には「基督信徒の慰」を刊行。
 失敗の連続から得た内村鑑三氏の「思想」は、同様に失敗と後悔の連続であった私自身にとって共感するものであります。そして別著の「基督信徒の慰」と共に本書から、私自身が慰められ、励みとなり、希望を持ち、一個人として独立した私としての自信や誇りの維持に繋がる影響を与えられています。
 キリスト者としては功名心を持つ事はあまり好ましいと思わないのは私自身も40代半ばとなった現在においては同感で、以前の若い頃に比べて欲望も少なくなり、その頃の自身の持っていた欲心が虚しく感じられます。
 それ故に私自身も今日においては、俗世間・社会に対して厭世的に思い、此の世の様々な物事があまり価値が無く、無意味で虚しいものばかりの様に感じてしまいます。
 しかしキリスト者にとっては此の世の世俗を軽く見て、次の天における生を重視する思想があり、その事が此の世において感じられる「絶望」からの救いとなる「希望」に繋がっています。
 「絶望」とは自分自身が勝手に持った欲望・目標から来るもので、元々創造主である神がその人に求める望みとは別の方向にあった事から生まれるものであり、神に託し委ねる事で絶望とは無縁となり希望を持つ事が出来る訳です。
 しかしこの世に生を受けた以上、何かを遺して行く必要があるのか。神の御心に適う様にする事が人の為の偽りでは無く神の為となって本当の意味での意味の有る人生となるのでしょうが、具体的にどうすれば良いのか。そしてさほど取り得も無く才能も無い場合に何が出来るのか。
 まず内村氏は「お金」を取り上げます。遺族に遺産を残す、施設や貧困者に寄付をする等。
 その次に「事業」を起こす事。社会、経済、自然環境、福祉等、起業して社会の発展に貢献する事。
 しかしその「お金」や「事業」には、お金を貯めたり企業・組織を起こす事が出来る才能が必要になります。
 そこで次に「思想」を取り上げます。独立した一個人の「思想」を基に、学問や哲学等の教育・啓蒙する教師やものを書く文学に繋がり、一つの小さな書物が社会改革・革命に繋がった事は歴史的事実を見ても解ります。地位・身分も低く名も無き小さな存在の人達によって書かれた聖書が、その後の世界において最大のベストセラーとなって多大な影響を与えている事からも解ります。しかし、「思想」も知識や学問がベースとなって生まれるものである為に、それらが必要となります。
 「お金」より優る「事業」、それに優る「思想」、そしてその「思想」をも上回る最大遺物として一個人の「生涯」、それも「勇ましい高尚なる生涯」、「真面目なる生涯」であると言います。
 職業に貴賤は無く、自分の仕事を真面目に真剣に取り組む事。正義を実行する事。義侠心を持って少数派や弱者の側に立つ事。そして、信仰によって此の世での不幸・反対・艱難・不足・情実・邪魔に打ち勝つと言う「大事業」を行なうと言う事。これらが「勇ましい高尚なる生涯」、「真面目なる生涯」と言う「後世への最大遺物」となると言います。これは元手が要らず、大した才能も必要とせず、誰にでも、私自身にも実行出来る事です。
 お金や人、俗世間、社会等の外に求めるのでは無く、自分自身の内に求める事の必要性。それは、信仰の有する心に存在する聖霊に求める事からの、その「勇ましい高尚なる生涯」、「真面目なる生涯」に繋がるものと思います。
 次に併著「デンマルク国の話」について。
 1864年のオーストリアとプロイセンとの第2次シュレースヴィヒ戦争での敗戦によって元々が小さな国土しか持たない上に肥沃な領土を奪われたデンマークに於いて、ユグノー(フランスのプロテスタントであるカルヴァン派)の血を引く軍人エンリコ・ダルガス氏が、「外に失いしところのものを、内にありて償わん」とし、ヒース(荒地)で覆われた国土を開墾・植樹して、日本よりも人口も国土も小さなデンマークが豊かな富を抱える事となった事を、明治44年(1911年、同氏51歳時)の聖書研究会で「デンマルク国の話~信仰と樹木とをもって国を救いし話」と題し講演(刊行は2年後)。
 敗戦国の経営の難しさの中、戦いに敗れても精神に於いて敗れない民が真に偉大な民であるとし、ダルガス氏の植林成功によってデンマーク市民の精神が一変し、国内も善く変革されたと述べています。
 そしてそのデンマークからは、敗戦が必ずしも不幸では無いと言う事と、天然の無限的生産力によってもたらされる多大な富と、信仰の実力を学ぶ事が出来ると述べます。国の実力は軍隊では無く、金や銀でも無く、「辛種のごとき信仰」であると言います。
 新約聖書・マタイの福音書17章20節「イエスは言われた。『あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこへ移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」。
 明治34年(1901年、同氏41歳時)、「無教会」を創刊。また足尾銅山鉱毒地を視察して、その後、幸徳秋水らと社会改良団体理想団を設立した内村氏。内村氏は生前にデンマークでキリスト教思想家・哲学者セーレン・オービエ・キェルケゴール氏(1813年~1855年)が当時のデンマークのキリスト教会が形式主義に陥っている事を批判していた事に共感し、「その単独者として絶対者の前に立つ人間観、教会的キリスト教に対する批判に共鳴、同じ無教会的キリスト教の『先導者』として紹介」(解説・鈴木範久氏)。
 最後に内村氏は、「私が今日ここにお話しいたしましたデンマークとダルガスにかんする事柄は大いに軽佻浮薄のわが国今日の経世家を警しむべきであります。」。

 
後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)価格:¥ 583(税込)発売日:2011-09-17


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「独行道」・・・流浪・孤独の境涯を渡った宮本武蔵・・・「宮本武蔵 剣と人―遺書『独行道』に秘められたその実像」を読んで

2014-05-18 18:27:32 | 孤独・独立・自尊心
 総タイトル:【「独行道」・・・流浪・孤独の境涯を渡った宮本武蔵・・・「宮本武蔵 剣と人―遺書『独行道』に秘められたその実像」を読んで】

 放浪・流浪・客寓の境涯で、生涯独身を貫いた宮本武蔵。亡くなる1週間前に自省して記した「独行道」。後悔や失敗の多い人生を送った武蔵が、剣の道・武士道に生きる自らの理想をしたためた「独行道」。そして武蔵の兵法書である「五輪書」
 「宮本武蔵 剣と人―遺書『独行道』に秘められたその実像」(著者:渡辺誠氏、出版社:新人物往来社、出版日:2002/12/30)
 本書を読みました。
 老身の身となって欲心へのこだわりからも解放されて、悟りや諦めといった諦観の念を抱き、自らの孤独な生涯を顧みて書いた、禁欲精神に満ちた「独行道」
 自利・自助の人で、その自利・自助を極める、自分の道を修行して極める事で、自然とそれが利他に繋がるものと考えた武蔵。
 29歳までに60余度の試合に勝利して来た事を30歳を越えて顧みて、戦いにおける相手に対する勝敗の原因が相手か自分かという様な「相対的」に考えるのでは無く、「絶対的」なものを剣の道に求め始めた武蔵。(因みに、私は唯一の創造主を絶対的存在と考えます。)
 「非常識人」として創造的人生を送った武蔵。世の習いとして非常識人の武蔵には多くの敵が出来、それ故の失敗を重ねた事からの自省も籠めて、怨まず、妬まず、人のせいにせず自らを反省し、相手と比べず絶対的なもの・真理に善悪の判断の拠り所を求め、その様な自戒を籠めた武蔵。
 「五輪書」の五巻を通して、兵法における様々な「拍子」を説き記した武蔵。リズム・調子・時である「拍子」は「機会」でもあり、兵法書の「五輪書」においての「拍子」とは、「勝ちに繋げる機会」。その様々な拍子の内の一つとして「背く拍子」が在り、相手の拍子に乗らずに却って相手に逆らい違える拍子を用いた武蔵。
 本来は武士に有るべき正義の為の道徳的勇気、平静・冷静沈着・心の落ち着きとして表れる真の勇気、感情を安易に表さずに忍耐による鍛錬で克己心を培って得る本当の大きな勇気、それらを心掛けて孤高の精神を持った武蔵。
 逆境の境涯の中、「渡を越し」て兵法から常に離れず、生涯剣の道を続け貫いた武蔵


「独行道」二十一ヵ条
一、 世々の道をそむく事なし・・・天然自然の本性に背かず、渡世の基に違背せず、それぞれの道(職業)に励む事。
一、 身にたのしみをたくまず・・・放浪の修行者の諦観。
一、 よろずに依怙の心なし・・・創造的人生の為に、万事に対してこだわりを無くす。
一、 身をあさく思(おもひ)、世をふかく思う・・・自然への畏敬、宇宙・自然・世界の奥深い大きさに対する浅く小さな一人の人間
一、 一生の間、よくしん(欲心)思はず・・・諦観から思う、青壮年期の欲心の虚しさ。
一、 我事におゐて後悔をせず・・・順境時の慢心驕りの心に気を引き締め鎮め、逆境時にも同様にして後悔せぬ様に。
一、 善悪に他をねたむ心なし・・・無常・不遇の境涯に在っても他を妬まず。
一、 いづれの道にも、わかれをかなしまず・・・流浪・客寓の境涯故の覚悟。
一、 自他共にうらみかこつ心なし・・・非常識人の故に世に多く敵を作るとも、怨まず我が身を託つかず。
一、 れんぼ(恋慕)の道思ひよるこころなし・・・剣を妻とし修行に励む。真の武士。
一、 物毎にすき(数寄)このむ事なし・・・物に執着せず。
一、 私宅におゐてのぞむ心なし・・・「平居閉静にして、或は連歌、茶、書画、細工等にて日月を過了す」。
一、 身ひとつに美食をこのまず・・・武士の道としての粗食。剣の道は心身息一如の道。克己心。
一、 末々代物なる古き道具所持せず・・・道具を尊ばず、道具を活かす実利主義。
一、 わが身にいたり物いみする事なし・・・物に対する先入観を持たず、実利を求める。
一、 兵具は各別(格別)、よ(余)の道具たしなまず・・・剣の道の根本・兵具に対する深い造詣と、他の道具をたしなまない覚悟。
一、 道におゐては、死をいとはず思ふ・・・勝つ為の命がけの修行。兵法の道に殉ずる大信心が強さの根本。勝ちに繋げる機会である「拍子」。
一、 老身に財宝所領もちゆる心なし・・・財産に執着するは好ましからず、老身となり弟子のみ用いる。
一、 仏神は貴し、仏神をたのまず・・・兵法の道に影響を受ける禅、自然への畏敬、自利・自助の人。
一、 身を捨ても名利はすてず・・・捨て身の勝利、武士道における真の勇気を持つ孤高の精神。
一、 常に兵法の道をはなれず・・・逆境に在っても常に離れず続け「渡を越す」事で、独創的人生が開ける。


 「五輪書」九箇条(「五輪書・地之巻」より)
第一に、よこしまになき事をおもふ所・・・邪心を持たぬこと。
第二に、道の鍛錬する所・・・頭では無く、身体で実践し自得すること。
第三に、諸芸にさはる所・・・兵法のみならず、広く諸芸に触れること。
第四に、諸職の道を知る事・・・様々な職業に目を向けて、視野を広くすること。
第五に、物毎の損得をわきまゆる事・・・物事の利益損失をよく分別すること。
第六に、諸事目利を仕覚ゆる事・・・物事の真実を見分ける鑑識力を培うこと。
第七に、目に見えぬ所をさとつてしる事・・・現象面に現われない本質的な部分を感得すること。
第八に、わづかなる事にも気を付くる事・・・物事の細部にも注意を払うこと。
第九に、役にたたぬ事をせざる事・・・役に立たない事に時間と労力を費やさぬこと。


 剣客の忌む七念:「驚(おどろき)」、「懼れ(おそれ)」、「疑(うたがい)」、「惑(まどい)」、「緩(ゆるみ)」、「怒(いかり)」、「焦(あせり)」。


 孔子「論語」より
吾れ十有五にして学に志す
三十にして立つ
四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳順う(したがう)
七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず(のりをこえず)


 関連・参考文献(サイト)↓↓
   播磨武蔵研究会「宮本武蔵」


  
宮本武蔵 剣と人―遺書『独行道』に秘められたその実像宮本武蔵 剣と人―遺書『独行道』に秘められたその実像価格:¥ 2,592(税込)発売日:2002-12
 


 関連・参考動画↓↓
 

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YouTube: 役所広司「独行道」




 掲載動画より
 「独行道」  作詩:杉山義法氏

   山に誓い 海に祈る
   熱き想い 胸を焦がす

   嘲り笑う 人はあれど
   ほかに道はなし

   誰が知ろう 大地を走る
   風の強さ 風の心を

   なんぞ恐れん 歩き続ける
   あゝ独行道

   胸を張れ 眉を上げよう
   闘いの日々

   夢半ばに 傷つこうと
   独り我は行かん

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自由で自然なマイペースの自分を取り戻す為の、独り静かな食事・・・「孤独のグルメ」を読んで

2013-11-24 01:11:42 | 孤独・独立・自尊心
 「孤独のグルメ」(著者:原作・久住昌之氏、作画・谷口 ジロー氏、出版日:2000/2/29、出版社:扶桑社(単行本は1997年出版))
 上記の本(マンガ)を読みました。
  「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず、自由で、なんというか、救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで……。」(本書より、主人公・井之頭五郎の言葉)。
 主人公がスーツ姿と言うのは余り私にとっては気に入らないですが、第1話に東京・山谷の作業服姿の客が多い定食屋が舞台の話を持って来ている所は気に入りました。
 井之頭五郎は酒が飲めず、常におかずと一緒に御飯を食べないと気が済まない所も共感します。因みに私は飲めるのですが、特に夕食に御飯は必須です。
 タイトルに在るグルメと言っても、高級ホテルやレストランの食事では無く、またコンビニの様に「いつも新装で、ピカピカで、影とか闇が全く排除された完全人工無臭空間」(本書より)とも違い、見栄を張らず飾らない下町の定食屋が主な舞台となっている所も気に入りました。
 自由に、マイペースに、ゆったりと、自分の精神面において負担の無い、自分の心にとっての自然で普通に感じる独りでの食事
 あとがきに、入った事のない飲食店に独りで初めて入る時に、ある種の「勇気」がいると在る。また、店の中での客としての著者の態度が「小心者」であると在る。しかし、孤独である方がゆったりと、落ち着いて、精神面に「ゆとり」をもたらして心に余裕が出来、許す事の出来る「寛大さ」に繋がるのではないかと思います。精神的に余裕が無くイライラしてストレスが溜まっていると、遅いだの不味いだのと店員に小言を言う、本当の意味での「小心者」と言えるのではないでしょうか。
 あとがきの中から、共感できる言葉として、
 「たぶん、井之頭五郎にとっては食べることそのものが癒しなんだろう。それもひとりで、誰にも邪魔されず、誰にも気を使わず空腹という自分の肉体的精神的マイナスを埋めてゆく時、彼はいつも『自由』になれるのだろう。
 現代のめまぐるしい日常生活は、もともと一個の自然である人間のあらゆるバランスを崩し、言ってみれば不自然な状態を我々一人ひとりの肉体精神に強いている。みんな本来のニュートラルな自分を見失っている。無理してる。繕っている
 井之頭五郎は、食べる時、孤独に食べる時、つかの間自由になり、自分勝手になり、時間や社会にとらわれず幸福に空腹を満たすことで、現代の原始人と化して、歪んだ自分を癒しているのではないだろうか。」。


  
孤独のグルメ (扶桑社文庫)孤独のグルメ (扶桑社文庫)価格:¥ 630(税込)発売日:2000-02


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