安息日を破って働かれたイエス・キリストは、
此の世に在ってはユダヤ人であったので、
タルムーディック・ユダヤ人の言う「Sabbath Goy」には当てはまらないかもしれませんが、意味合い的にはユダヤ人から
「ゴイ」、「ゴイム」と批判される事と同様であった様に思います。
以下、安息日に働かれたイエスについての参考文献(ブログ記事)からの引用です。
?年6月13日付・「日本同盟基督教団・白山めぐみキリスト教会」~「メッセージ」~「安息日の過ごし方」より、「私たちは、イエスさまは、完全なお方だから、批判されるようなことは何もない。批判されるようなことはあってはならない。と考えたくなりますが、そうではありませんでした。
イエスさまの生涯というのは、人々から拒否されたり、批判を受けることの連続でした。しかし、イエスさまは、その批判にも、ひるむことなく落ち着いて答え、大胆に、神の国の教えを語り、人々を真理へと導いていかれました。」。
2011年8月11日付・「牧師の書斎」(著者:銘形秀則牧師)~「『ルカの福音書』を味わう」~「18.イエスの破天荒な言動(2)」より、「イエスの破天荒な言動は、安息日の理解も当時のパリサイ人や律法学者とは異なり、彼らを怒らせることになります(11節)。11節に
『彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った』とありますが、『安息日』の言動は彼らをすっかり怒らせてしまったようです。『安息日』はユダヤ人にとってきわめて重要な問題であり、神がその日を聖なる日とせよという命令を実践しようとして、さまざまな規定が定められていました。」。
また、「安息日を聖なる日とすることは、永遠に変わることのない神のご意志です。しかし人々はその意志を実現するために、
当時の指導者たちは、人々を生かすことよりも律法に束縛させ、律法の奴隷にしてしまったことがイエスの言動と対峙する最大の理由でした。
安息日にすべての仕事をしないのは、他の目的のために集中させるためです。他の目的とは、神と共にあることを喜び楽しみ、神から与えられた律法を学び、その律法の中に示されている神の民としてのあり方を生きるためです。
イエスのすべての言動の本位はそこに位置づけられています。しかし
パリサイ人や律法学者たちはそのことを理解せず、むしろイエスに敵対する者となっていったのです。11節には、彼らは激怒して「イエスをどうしてやろうかと話し合った」とあります。ここの「話し合った」も未完了の動詞です。つまりこの時点から彼らはしばしばことあるごとに継続的に話し合うようになったことを示唆しています。」。
2011年7月28日付・同「牧師の書斎」~「『ルカの福音書』を味わう」~「17.イエスの破天荒な言動(1)」より、「人々の目に見えるイエスの破天荒な言動は、恐ろしいほどに物事の核心に触れています。イエスの答えは、常に神の律法の本質的・本源的な視点からなされていることを特徴としています。ですから、私たちはイエスから常に『問いかけられている』のです。
私たちの信仰的言動を支えているものが一体何であるのか、今一度、本源的なところに戻って考えることが必要です。でなければ、神の真理の光の中に留まり続けることはできません。新しいいのちを生み出すことはできません。
本源的なところに戻るとは、イエスの語られたみことばと聖霊の助けによって、自分の信仰の生活のすべての領域に対して、常に、繰り返し、見直すということです。
自分が置かれている伝統や教義さえも、より本源的・本質的な視点から再度見直す勇気がなければ、律法主義の罠に陥ってしまいます。律法主義の罠とは、自分の信仰的言動になんら光を当てることなく、その中に自分が安住することで満足してしまっていることなのです。」。
2004年10月17日付・「仙台福音自由教会」~「礼拝メッセージ集」~「安息日に働かれるイエス」(著者:吉田耕三牧師)より、「不思議な言葉があります。
『義人が集まると争いが起こる』反対に『罪人が集まると平和になる』。『えっ』と思いますが、ある意味『真実かな』とも思います。
自分は正しいと思っている人ばかりが集まると『あなたは間違っている』とお互いに攻め合いますから争いが多くなる。反対に罪人の場合は互いに『私が悪いのです』と言うので争いがなくなってくるわけです。一見逆のように思えますが、
私達は正しい人間ではなくて罪人であるという自覚をしていきたい。私達は、人を裁いてしまう心が出てきますと神様の恵みさえも覆いをかけてしまい、素晴らしさが見えなくなってしまう。」。
また、
「表面的な意味しか見ない人々」とし、「私達は
自分の考えが正しいという思いに凝り固まっていますと、他の考えを全部除外したくなります。あくまでも自分の考えが正しいと主張したくなります。そしてそれが通らないと、
いら立ちや敵対心まで出てくるかもしれない。こうなると危険領域にまで入っていると知っておいてください。どうでもよい小さなことから始って
『こんな人などいなければいい』と平気で考えてしまう危険性があるということ。私達はそういう意味で自分の中に潜んでいる『自分が正しい』という考え方、あるいは正しいか正しくないかの
表面的な判断だけを見て、深い意味を理解しないで裁く危険性から解放されていく必要があるのではないかと思います。そういう訳で私達は律法主義にならないための秘訣を見たいと思います。」。
そして、
「裁きは神様の領域」として、「
『自分の悟りにたよるな。』というのです。自分が正しいとそこだけになってしまうのです。でも私にとっては正しいと思っているだけで、本当に正しいかどうか分からない。
自分の悟りにあまり頼り過ぎないことが大切です。
『あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。』私達は人のことを裁いてしまう訳ですが、
その中に神様がおられること。神様がそのことを許された。
この中にどういう意味があるのかを聞く姿勢を持つ時に、私達はそこでさまざまな新しい考え方を頂いていくことが出来るようになると思います。
自分の悟りではなくて、神様の教えを、あるいは神様がそこで何をなして下さるかにいつも目を止めていきたいと思います。そうすれば
『あなたの道をまっすぐにされる。』すこやかなまっすぐな道にして下さる。
裁くことを止める。自分の考えが正しいという考え方を止めるということです。その考えが出てきた瞬間に
『主よ、聖めて下さい。』と祈っていく必要があると思います。
神は憐れみは好むがいけにえは好まない。『神様、こんな私を赦して下さい。こんな私を変えて下さい。』という祈りを喜んで下さる。人のことではなくまず自分が変えられていくことを求めていく。そして律法主義から解放されていきたいと思います。
裁くことは神様だけがなさること。私達は決してこれから人を裁かない。その瞬間に『裁きを取って下さい。』と共に求めていきましょう。」。
以下、聖書より。
新約聖書・ルカの福音書6章1~11節
「
ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときに、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。すると、
あるパリサイ人たちが言った。
『なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。』イエスは彼らに答えて言われた。『あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。』そして、彼らに言われた。
『人の子は、安息日の主です。』
別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。そこで
律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。
彼を訴える口実を見つけるためであった。イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、『立って、真中に出なさい。』と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。イエスは人々に言われた。
『あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか。どうですか。』そして、みなの者を見回してから、その人に、『手を伸ばしなさい。』と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。
すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。」
新約聖書・マタイの福音書12章1~14節 (前記、ルカの福音書6章1~11節と同様)
「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。…(中略)…『……また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、
ここに宮より大きな者がいるのです。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。』
イエスはそこを去って、会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。…(中略)…『……
安息日に良いことをすることは、正しいのです。』…(中略)…
パリサイ人は出ていって、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。」
旧約聖書・ホセア書6章6節
「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」
新約聖書・マルコの福音書2章23~28節 (前記、ルカの福音書6章1~11節、マタイの福音書12章1~14節と同様)
「ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。…(中略)…
『安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。』」
新約聖書・ヨハネの福音書5章1~18節
「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダという池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』病人は答えた。『主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。』イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
ところが、その日は安息日であった。そこで
ユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。
『きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。』しかし、その人は彼らに答えた。『私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。』彼らは尋ねた。『『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。』しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。『見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。』その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。
このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。
イエスは彼らに答えられた。『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。』このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」
旧約聖書・出エジプト記20章8~11節 (
旧約聖書・申命記5章12~15節にも同様、共に
「十戒」の内の一つ)
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。―それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」
参考記事↓↓
・?年6月13日付:「日本同盟基督教団・白山めぐみキリスト教会」~「メッセージ」~「安息日の過ごし方」
・2011年8月11日付:「牧師の書斎」(著者:銘形秀則牧師)~「『ルカの福音書』を味わう」~「18.イエスの破天荒な言動(2)」
・2011年7月28日付:「牧師の書斎」~「『ルカの福音書』を味わう」~「17.イエスの破天荒な言動(1)」
・2004年10月17日付:「仙台福音自由教会」~「礼拝メッセージ集」~「安息日に働かれるイエス」(著者:吉田耕三牧師)
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