狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

英語の義務教育に疑問の無い日本人の奴隷根性/Slavery spirit Japanese don't have question about English compulsory education

2021-12-18 00:30:00 | 憲法改正
 <※本当の投稿日時
  True posted date & time:2021/12/16 05:46>

   (当方の都合にて、投稿日時を変更しております。
    I changed posted date and time for my convenience.)

 英語の義務教育に疑問を抱かない日本人の奴隷根性
  何故、日本史が選択教科になっているのか?
   英語なんて出来なくて良い、国語こそ100点満点を目指すべきだ
 Slavery spirits of Japaneses who don't have question towards English compulsory education


 日本人の多くが奴隷根性を持っている事は、先日に投稿した次の記事に書いた。

 本ブログ
  2021/12/11付「コロナワクチン接種に見える日本人の旺盛な奴隷根性、同じ敗戦国のユダヤの奴隷ドイツは接種義務化へ、「右の座(保守)」が聖書に照らして正しい/Grand slavery spirit in corona」

コロナワクチン接種に見える日本人の旺盛な奴隷根性、同じ敗戦国のユダヤの奴隷ドイツは接種義務化へ、「右の座(保守)」が聖書に照らして正しい/Grand slavery spirit in corona - 狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

<※本当の投稿日時Trueposteddate&time:2021/12/0808:40>(当方の都合にて、投稿日時を変更しておりま...

コロナワクチン接種に見える日本人の旺盛な奴隷根性、同じ敗戦国のユダヤの奴隷ドイツは接種義務化へ、「右の座(保守)」が聖書に照らして正しい/Grand slavery spirit in corona - 狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

 


 お金の為、生活の為、欲望の為、そして地位や名誉の為として、日々、それらを第一、優先にして忖度し、迎合し、媚びへつらいながら従っている姿は、家畜として飼われている獣の様な奴隷に見える。

 僕に於いても以前、若い時に、毎日残業をしたり、それも夜遅くまでの残業であったり、日曜日も休日出勤して働く事も多々有った状態は、その事に当てはまるだろう。

 僕は以前、医療系の専門学校に入学する前、約9年間、新築マンションに住んでいた。2,600万円台で購入したそれは、比較的安い値段であると言えるであろうが、それでも今では考えられない大きな買い物だ。勿論、貯金以外に住宅金融公庫と年金の住宅金融公庫からの融資を受けてのもので、毎月毎月、高いローンと共に、管理費や修繕積立金、そして年に1回、数十万円の固定資産税を払っていた。

 購入した直後から「何故、こんな物を買ってしまったのだろうか?」と、購入した本人、僕自身が疑問に思っていた。あんな物を買わなければ、今現在、物書きをしながらゆっくり生活出来ているであろうにと後悔する。

 しかし、恐らくそれは、神様の思し召しによって購入させられたものと思う。

 僕が8歳になる手前でカトリック教会で洗礼を受けた時にもらった洗礼名、カトリックでは守護する人とされているその洗礼名になる人(カトリックに於いては聖人とされている人)は、僕の場合、イタリアのアッシジのフランチェスコである。そのアッシジのフランチェスコは、元々は裕福な家庭に生まれ育ちながらも、その後に改心してボロを身に纏い、自ら灰を被る程になって修道に入り、貧しい姿、清貧の姿を現す事によって、当時腐敗していたカトリック教界の改革を促した。

 本ブログ
  2012/12/02付『世を軽んじ、全てを捨て、清貧・純潔・謙遜・愛・従順・・・「アシジの聖フランシスコ」を読んで』

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世を軽んじ、全てを捨て、清貧・純潔・謙遜・愛・従順・・・「アシジの聖フランシスコ」を読んで - 狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

今から100年程前に原本が出版された、次の本を読みました。「アシジの聖フランシスコ」(著者:J・J・ヨルゲンセン氏、訳者:永野藤夫氏、出版社...

世を軽んじ、全てを捨て、清貧・純潔・謙遜・愛・従順・・・「アシジの聖フランシスコ」を読んで - 狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

 


 日本にも似た様な先人達が居る。良寛や鴨長明等も同様に金持ち、ステータスの高い人達であったが、財産を捨てて街から逃れて山に籠もって隠遁し、修行に入った。そして、それらの先人達、隠遁者達は、金銭的に、物質的には貧しくなろうとも、その分、世から解放されて自由が得る事が出来、スローライフを送る事が出来た。

 企業の歯車となり、ベルトコンベアーに流れてくる物を熟すロボットの様にして、効率を求められながら、スピードを求められながら、まるで何かに追われている様な切迫した毎日の仕事や生活は、ストレスが溜まるばかりで、そして、お金はその分、稼げるであろうが、その反面、心は空っぽになるばかりだ。

 僕の以前の若い頃も、それに当てはまる。

 そんな新築マンションを購入する事が出来たぐらいなので、その当時の稼ぎは、勿論、現在とは異なる、それでも、せいぜい、平均年収と言われている程の額だ。最も多かった年収でも、500万円を超える事は無かった。それは、僕が未だ20代の頃の事だ。

 そして、そんな年収も、前述の通り、毎日残業、普通は2時間ずつであるが、納期の無い特急の仕事を抱えている時等は夜の9時や10時まで残業したり、日曜日の休日出勤も多々行ってのものだ。またその当時は、土曜日は全部、平日出勤として働いていた。町工場は大抵どこも、特急の仕事ばかりに追われているものだ。

 そんな風に、働き詰めの結果として、やっと、それぐらいの年収を稼ぐ事が出来た訳だから、ワーク・ライフ・バランス等を要求しようものなら、大概、日給月給であった僕の給料が大幅に目減りしていた事になる。

 平均年収程を稼ぐ為に、奴隷になる。現在の僕には、到底、受け入れる事が出来ない事だ。

 親御さんが奴隷根性を持っているのだから、その遺伝子は子供にも受け継がれる。

 そして、その子供達、青少年少女達が通う学校では、戦後ずっと、外国語である英語が義務教育となって来た。

 「国際化が進む中で、日本人は国際人にならなければならない」といった類の言葉が、日本政府や日教組等が言って来たと共に、親御さん達も子供を塾に通わせる等をして、英語が出来る人は立派だと、英語が話せる人は賢いといった評価が、日本の空気を覆う事となって来た。

 マスメディアも、「国際化、国際化」と囃し立てて、日本の大衆に向けて国際人に成る事を勧めて来た。

 国際化とは、グローバリズムに則ったものであり、マスコミを握るカルトのイルミナティやフリーメーソンの宣伝だ。

 要するに、国際人に成るという事は、イルミナティの人形に成るとも言える。

 それにしても、少しばかり考えてみれば気が付くであろう事だが、そんな外国語である英語を義務として学ばなければならない事に、日本人の多くが全く疑問に感じていないのだ。

 そんな事を疑問に感じない日本人達こそ、精神が麻痺した精神疾患、異常と言える。

 やはり、奴隷根性に染まってしまっているからこそ、鈍感で、お金さえ稼ぐ事が出来ればそれで良いと、奴隷状態を甘んじて受け入れる性質が有るからだろうか。

 外国語を義務として学ばなければならない事に、屈辱感を感じないのであろうか?。子供達は余り解らないであろうけども、親御さん達も、子供の将来の安定、進学、入社、出世等を思うのみで、テストで点数を取る事にしか興味が無い。

 中学校で義務教育として学ばされた英語。今では小学校でも義務化されているのであろうか?

 逆に、日本史が選択教科になっている。高等学校ではそうであり、中学校では現代社会や世界史等と総合的にまとめた社会という科目が在る様だ。日本人として、きちんと学ばなければならない日本史が、戦後、軽んじられている。

 今後、国語も選択教科になってしまうのであろうか?

 実際、最近の国語の教科書からは古典が省かれ、その分、エンタメ系の軽薄な歌詞やエッセーを載せているともいう。そうして、日本国語が国際化によって潰されようとしている。

 先の戦時中、日本国や日本人達を守る為に散華された特攻隊(特別攻撃隊)の方々は、多くの辞世の句を遺された。とても、現代の日本の高校生や大学生と同じ世代の若者達が遺した句であるとは到底思えない。特攻隊の方々に、高いレベルの国語の教養が有った事が伺える。

 また、かつての武士は、現代の小学生高学年~高校生の世代に於いて、元服した。よって、その成人に成るに、また成人として相応しい様に、学問を学んで高い教養を身に付けた。

 「武士は食わねど高楊枝」と言うが、商人はお金持ちで裕福、農民や工人は食うに困らない様に日々の生活を工面するばかり、しかし武士は、例え金銭的に貧しく食べる事に困る様になろうとも、教養の高さから来る、精神面に於いて自尊心、独立心を抱いた気高さが有ったという訳だ。

 そんな、やせ我慢の精神こそ、克己を伴った高い精神性と言える。

 武士道は、戦前の日本人、特にその教養の高かった武士達の精神について書かれたものである。その永年、不文律であった武士道を文章化して書いたのは、クリスチャンの新渡戸稲造である。

 現代の日本人の中には、武士道というのは戦争論であるとか、戦いの仕方、兵法、自害の仕方を述べている等といった具合に、誤解している人達が多いのではないだろうか。

 聖書についても同じだ。殆どの日本人が、聖書を読んだことが無い。よって、日本人の多くが、聖書は平和や愛についてばかり書いたものだと誤解している様だ。

 武士道は、聖書的価値観を持ったクリスチャンの新渡戸稲造が、共感して書いたものだ。よって武士道は、聖書的価値観そのものと言える。

 義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義・克己、中でも勇気と堅い忍耐、敢為堅忍がセットになった精神が最も大事である事を、武士道は説いている。

 そんな、高い精神性を現す武士道精神が、戦後の日本人からは消え去ってしまった。高い精神性を捨てて、みんな金(かね)の亡者になっているが如くの奴隷状態だ。

 そんな、現代の日本人の奴隷根性に染まった姿をピッタリ表している、今まで本ブログで何回も引用して来た三島由紀夫の遺言「檄」を、更にここに引用する。

 三島由紀夫
  「『経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆく』姿、『政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆく』国となってしまったことを憂い……」
  「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。……」

   (ウィキペディア「檄 (三島由紀夫)」より)

 奴隷根性が旺盛な日本人達は、自分の欲望を基にガツガツと、あくせく働いていたり、レジャーや博打、酒、女遊び等と行っている。そんなバイタリティー溢れた姿は、一見すると生き活きとしていて、生命力に溢れた様子に見えるだろう。

 しかし、それは飽くまで表面的な姿であって、中身は空っぽだ。何度取り入れても直ぐに乾いてしまう、そんな欲望の対象を相手にし続ける事によって、永遠に内面が満たされる事は無く、満足する事が出来ず、際限なく手を出し続ける癖、依存症となっている。

 そんな、この世のものに依存しながら身体の命、肉の命が活気、活力に富んでいる様な状態は、この世の奴隷、世間の奴隷になっている状態であり、心、精神、魂が死んでしまっている訳だ。

 英語なんて出来なくても良いのだ。英語なんて、テストで0点を取れば良いのだ。その方が、却って自由になれる。

 反対に、日本の国語をよく学ばなければならない。国語こそ、100点満点を目指すべきだろう。

 そして日本史も、と言いたいところだが、日本史には今まで多くの偽史が入れられて来た。教科書検定に懸からない保守系の歴史の教科書(中学社会)も存在するが、学校では殆ど用いられていないのだろう。戦後教育、自虐史観の他、仏教体制による聖徳太子(厩戸皇子というメシアニック・ジュー)の捏造、俗に邪馬台国と言われている四国に在った邪馬壹國(ヤマトのくに)を隠蔽しすり替える等などと、多くの嘘が散りばめられているので、単純に100点満点を目指せとも言えず、難儀な事となってしまっている。

 TOEIC(国際コミュニケーション英語能力テスト)で何百点という高得点を得た人達は、却ってグローバリスト達のパペットとして奴隷になっているのではないだろうか?(例えば、カルトが握る主流メディアに出ているアナウンサー達等……)

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