自分で勉強する事が出来るという事が、本当の意味での、精神的に自立した大人という事が出来るのである。
そして、自分で考えて、捉えて、判断出来るという事も、自立・大人の要件である。
また、その結果としての、自分の考え、哲学、思想、理論、生き方を持っている事が、自立した大人であると同時に、自尊心、自信、精神面の上での誇り・アイデンティティとなるのである。
しかし、世間の多くの人達は、自分で勉強する事が出来ていない。読書をしない。パソコンやスマートフォン等のインターネットツールを持っていても、ゲームやメールばかりに囚われている。そして自分で検索して調べず勉強せずに、安易に人に聞こうとしている。
世間の多くの人達が人を見て大人と認めて判断する基準にしているのが、結婚、子の所有、そしてセックスである。セックスを基準にする事自体が、非常に低レベル・低次元であるという事が出来る。セックスは、犬や猫や猿等の動物でも行っている事である。その様な下等動物が行っている事と同じ事、セックスをする事で、果たして大人であるという事が出来るのであろうか?。勿論、否である。
また、世間の多くの者が、欲望に身を任せた行動を日々行っている。レジャー、博打、ゲーム、グルメ、ファッション、ショッピング、風俗、セックス、酒、恋愛(異性)、等々……。それら欲望の対象に多く接する事が、あたかも大人であるかの様に錯覚している。この世に存在する欲望の対象となるものを取り入れても所詮それらは空であるので一時しのぎにしかならず、つまりは一時の暇つぶしにしかならず、内面・心はいつまでも満たされず満足することが出来ず、際限なく手を出し続ける。そして実際は、それら欲望に身を任せて行うことは恥にあたる事なのである。本当の意味での自立した大人であれば、欲望の奴隷として囚われる事無く、自律し、自制する事が出来、或いは悟りを得てそれらの欲望に関心も湧かなくなるものである。
周囲と異なっている状態にあったり異なる事を恥と勘違いして捉えている者が多い。しかし、みんながみんな、実際は恥に相当する事を行っているから周囲から批判されずに恥に感じる事が無いだけなのである。つまりは、世間一般的に恥の常識化がなされている訳である。みんなでやれば怖くない、みんなでやれば恥に思わない、である。
神社や寺のお参りでは、自分の欲望が叶えられます様にと、偶像の神々・仏にお願い事をしている。しかし、神への本当のお祈りというものは、自分の願い事・欲望を聞いてもらおうとするのでは無く、創造主である唯一の神を賛美し褒め称えるものである。栄光は創造主のものである。結局は、日本の世間の無神論者・無宗教者の多くの人達が、自分の欲望を神として崇め拝んでいるだけなのである。
新約聖書・ピりピ人への手紙 3章19節
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
お金、経済面の充実だけでは真の自立とは言えない。冒頭に述べた様に、精神面の充実・成熟が本当の自立・大人といえる。日本という国も戦後、経済の成長を重視するばかりで、それと引き換えに他国への依存・属国・隷従に甘んじて、精神面・思想の面での自立・独立意識が希薄となっていた。憲法改正案が衆参両院で2/3以上の賛成によって発議されたとしても、最終的には国民投票で可否が決まるのである。日本国民の一人ひとりが精神面での自立・独立意識を強つ様にならなければ、憲法改正も厳しいのではないかと思うのである。
そして、自分で考えて、捉えて、判断出来るという事も、自立・大人の要件である。
また、その結果としての、自分の考え、哲学、思想、理論、生き方を持っている事が、自立した大人であると同時に、自尊心、自信、精神面の上での誇り・アイデンティティとなるのである。
しかし、世間の多くの人達は、自分で勉強する事が出来ていない。読書をしない。パソコンやスマートフォン等のインターネットツールを持っていても、ゲームやメールばかりに囚われている。そして自分で検索して調べず勉強せずに、安易に人に聞こうとしている。
世間の多くの人達が人を見て大人と認めて判断する基準にしているのが、結婚、子の所有、そしてセックスである。セックスを基準にする事自体が、非常に低レベル・低次元であるという事が出来る。セックスは、犬や猫や猿等の動物でも行っている事である。その様な下等動物が行っている事と同じ事、セックスをする事で、果たして大人であるという事が出来るのであろうか?。勿論、否である。
また、世間の多くの者が、欲望に身を任せた行動を日々行っている。レジャー、博打、ゲーム、グルメ、ファッション、ショッピング、風俗、セックス、酒、恋愛(異性)、等々……。それら欲望の対象に多く接する事が、あたかも大人であるかの様に錯覚している。この世に存在する欲望の対象となるものを取り入れても所詮それらは空であるので一時しのぎにしかならず、つまりは一時の暇つぶしにしかならず、内面・心はいつまでも満たされず満足することが出来ず、際限なく手を出し続ける。そして実際は、それら欲望に身を任せて行うことは恥にあたる事なのである。本当の意味での自立した大人であれば、欲望の奴隷として囚われる事無く、自律し、自制する事が出来、或いは悟りを得てそれらの欲望に関心も湧かなくなるものである。
周囲と異なっている状態にあったり異なる事を恥と勘違いして捉えている者が多い。しかし、みんながみんな、実際は恥に相当する事を行っているから周囲から批判されずに恥に感じる事が無いだけなのである。つまりは、世間一般的に恥の常識化がなされている訳である。みんなでやれば怖くない、みんなでやれば恥に思わない、である。
神社や寺のお参りでは、自分の欲望が叶えられます様にと、偶像の神々・仏にお願い事をしている。しかし、神への本当のお祈りというものは、自分の願い事・欲望を聞いてもらおうとするのでは無く、創造主である唯一の神を賛美し褒め称えるものである。栄光は創造主のものである。結局は、日本の世間の無神論者・無宗教者の多くの人達が、自分の欲望を神として崇め拝んでいるだけなのである。
新約聖書・ピりピ人への手紙 3章19節
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
お金、経済面の充実だけでは真の自立とは言えない。冒頭に述べた様に、精神面の充実・成熟が本当の自立・大人といえる。日本という国も戦後、経済の成長を重視するばかりで、それと引き換えに他国への依存・属国・隷従に甘んじて、精神面・思想の面での自立・独立意識が希薄となっていた。憲法改正案が衆参両院で2/3以上の賛成によって発議されたとしても、最終的には国民投票で可否が決まるのである。日本国民の一人ひとりが精神面での自立・独立意識を強つ様にならなければ、憲法改正も厳しいのではないかと思うのである。