※ 本シリーズの記事は、昨年(2018年、平成30年)の内に投稿する予定であった為、本文中の「本年」とは2018年(平成30年)の事であり、訂正するには膨大な数に対応する為の手間と時間が必要となる為、敢えてそのままにしている事を御容赦願います。
My Testimony & Witness
僕の証<5>
~僕は「ボロボロ」……
Isaiah 52:13~53:12
イザヤが預言した人間マリアの処女懐胎を通したキリストの御降誕と、
侮辱を負われた「イエス様の御姿」
& 迫害の中での信仰により「キリストの似姿」に変えられる事を想う
僕は、この度の「My Testimony/僕の証」シリーズの記事を書くに当たって、最初から「証」をするつもりで書いた訳では無かった。書いている途中で、キリスト者(クリスチャン)がプロテスタントの教会等で一般的に行っておられる「証」をしている事に気付いた。このタイミングで、「偶々」、「証」を行う事は、正に「不思議」であり、「意味深」であり、そしてその事が、「神様の思し召し」によって促されて行った様に思われてならないのである。
尚、キリスト者としての「証」についての説明は、次である。
以下、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より、
「証(あかし、testimony、witness)。キリスト教では、神様から頂いた恵みを人に伝えることを『証(あかし)をする』と言う。似た表現に、『分かち合う』という言葉があるが、これは少人数で深く話し合うような場合に使われる。大勢の人の前で、発表する場合は『分かち合い』ではなく『証』または『立証』というのが一般的。救世軍では『証言』(読み方は『あかし』)と表記する。
神の恵みに感謝することはもとより、神を誉め讃える点がポイントである。まれに牧師や司祭による説教と同じく、高度な神学理論を用いたものとなることもある。プロテスタントにおいてはしばしば礼拝の中で時間を割いて信徒による立証が行われるが、牧師による説教が聖書の解き明かしであるのに対し、立証は自らの体験に基づいて神の恵みを参列者と共有することであるという相違がある。また、キリストを信じるに至っていない人に対して証をすることも大切なことだと考えられており、福音伝道の主要な手段の一つでもある。
さらには、生活の多様な場面において信仰に基づいた選択および行動をとることも証と呼ばれる。クリスチャンは天国に迎え入れられることよりはむしろ、イエスが説教を通じて伝えたことを地上においてどのように生かしていくかということに主な関心を抱く。いわば、クリスチャンの生涯とはそれ自体が証である。」
(以上、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より)
(「My Testimony/僕の証<5-1/2>」からの続き)……
僕は現在、「ボロボロ」である。また、「ゴミ」や「M」等と思われても構わない。そして、見栄や体裁を繕うのでは無く、敢えて自分の能力の無さ、「弱さ」を素直に認め、それによって「イエス・キリストと繋がる強さ」を身に付けていきたい。
そして例え迫害を受けようとも、その都度、イエス・キリストの受難を思い浮かべ、「神様であるイエス様でも『ボロボロ』になられたのだ」と励みにし、またそのイエス様の姿勢と態度を手本にして生きていきたい。
更に、そうして僕が迫害を受ける中で、イエス様への信仰を基とした、御心に適った、悔い改めをして聖霊が宿った中で生きるならば、「イエス・キリストの『似姿』」、イエス様に似た姿へと変えて近付いていく事であろう。
YouTube: PASSION OF THE CHRIST MOVIE (WHIPPING SCENE)
次に掲げる旧約聖書「イザヤ書52章13節~53章12節」は、預言者イザヤによって預言された「イエス様の御姿」である。
この預言の中で度々出て来る「彼」とは、イエス・キリストの事である。また、「だれ」、「わたしのしもべ」もイエス様の事である。そしてこの「わたし」とは、天の父なる神様の事である。父と子(イエス・キリスト)と聖霊の「三位一体」の創造主である唯一の神様であり、唯一の神様の内には複数の人格、位格が在るという「ペルソナ」を意味する。
また、唯一の神様「ヤハウェ」のヘブル語表現としては、「アドナイ」((我が)主)、「エル」であるが、エルの複数形は「エロヒム」であり、その「三位一体」の事である。
ヤハウェは、“I AM WHO I AM”(「私は在る、という者である」、出エジプト記3章14節)と述べる。「私は在る」とは、時間や空間を超えた永遠の時間の中に神様が存在する事を意味する。真に実在するのは唯一の神様のみであり、創造主は「自存的存在者」であるのに対し、被造物である人間は神様無しでは存在する事が出来ない「依存的存在者」である。
※ ・(昼の)「三時」(15時)…直訳:「第九時」。
・「TR」:テクストゥス・レセプトゥス(Textus Receptus)…「『受け入れられたテキスト』の意味)は、デジデリウス・エラスムスとオランダの人文学者たちによって校訂され、1516年に印刷されたギリシア語新約聖書本文のこと。共認定本とも呼ばれる。出版された最初のギリシア語新約聖書でもある。後にウィリアム・ティンダルの英訳聖書、マルティン・ルターのドイツ語訳聖書(ルター聖書)など宗教改革期以降に作られた多くの翻訳聖書の底本として用いられ、正統的な新約ギリシア語本文としての権威を得た。が、近代になると、聖書学者たちはテクストゥス・レセプトゥスのもととなったギリシア語写本は東ローマ帝国からもたらされたビザンティン型に属するもの(小文字写本)で古くても12世紀以前にはさかのぼらないことを明らかにし、より古く、より良質な写本によって原文を確定しようとする本文批評学が確立した。その結果テクストゥス・レセプトゥスは今日では「(もはや)受け入れられないテキスト」となっている。」(ウィキペディア「テクストゥス・レセプトゥス」より)
本ブログ過去の関連記事
・本ブログ ブックマーク:「My Testimony & Witness/僕の証 2018」 ・・・本ページ右サイド
・2012/12/02付:「世を軽んじ、全てを捨て、清貧・純潔・謙遜・愛・従順・・・『アシジの聖フランシスコ』を読んで」
・2013/02/10付:「『生命倫理』について・・・(5)『運命』を素直に受け入れ、大きく委ねる」
・2013/04/13付:「俗事における『無用性』は一時的なもの・・・信仰によって生き、永遠を求める」
・2014/06/29付:「『「普通がいい」という病・「自分を取りもどす」10講』を読んで・・・絶対的基準・規範も持たずにお互いの顔色・反応を確かめて『普通』と認め合っているに過ぎない世間の人達」
・2015/08/23付:「失敗、ユニーク、ユーモア・・・『道化師の孤独』を抱えた『聖なる無用性』:『寅さんとイエス』を読む」
・2016/05/08付:「聖霊存する不動の土台が築かれた心により失敗・ユニークが才能・特性に変貌する・・・『聖書力』を読む」
・2017/05/05付:「『ひきこもり』は良い事である・・・精神的修練と自立、心の成熟、自己点検、内省、瞑想、普通であろうとする間違い、アイデンティティにこそ値打ち、自分と公義とのバランス、そして根本規範」
・2018/03/19付:「僕の先月の追記:I am“out-low”, servant, and no ability神様の恵みで益とされるPeople are made as good by the grace of God」
引用文献
・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
・新改訳新約聖書(1965年版)(発行:日本聖書刊行会)
・World English Bible(eBible.org)
参考文献
・ウィキペディア:「ネストレ・アーラント」
・Wikipedia:「United Bible Societies」
・ウィキペディア:「テクストゥス・レセプトゥス」
「 My Testimony/僕の証<5> 」<1/2> ~ <2/2> ↓
【1】 【2】
My Testimony & Witness
僕の証<5>
~僕は「ボロボロ」……
Isaiah 52:13~53:12
イザヤが預言した人間マリアの処女懐胎を通したキリストの御降誕と、
侮辱を負われた「イエス様の御姿」
& 迫害の中での信仰により「キリストの似姿」に変えられる事を想う
僕は、この度の「My Testimony/僕の証」シリーズの記事を書くに当たって、最初から「証」をするつもりで書いた訳では無かった。書いている途中で、キリスト者(クリスチャン)がプロテスタントの教会等で一般的に行っておられる「証」をしている事に気付いた。このタイミングで、「偶々」、「証」を行う事は、正に「不思議」であり、「意味深」であり、そしてその事が、「神様の思し召し」によって促されて行った様に思われてならないのである。
尚、キリスト者としての「証」についての説明は、次である。
以下、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より、
「証(あかし、testimony、witness)。キリスト教では、神様から頂いた恵みを人に伝えることを『証(あかし)をする』と言う。似た表現に、『分かち合う』という言葉があるが、これは少人数で深く話し合うような場合に使われる。大勢の人の前で、発表する場合は『分かち合い』ではなく『証』または『立証』というのが一般的。救世軍では『証言』(読み方は『あかし』)と表記する。
神の恵みに感謝することはもとより、神を誉め讃える点がポイントである。まれに牧師や司祭による説教と同じく、高度な神学理論を用いたものとなることもある。プロテスタントにおいてはしばしば礼拝の中で時間を割いて信徒による立証が行われるが、牧師による説教が聖書の解き明かしであるのに対し、立証は自らの体験に基づいて神の恵みを参列者と共有することであるという相違がある。また、キリストを信じるに至っていない人に対して証をすることも大切なことだと考えられており、福音伝道の主要な手段の一つでもある。
さらには、生活の多様な場面において信仰に基づいた選択および行動をとることも証と呼ばれる。クリスチャンは天国に迎え入れられることよりはむしろ、イエスが説教を通じて伝えたことを地上においてどのように生かしていくかということに主な関心を抱く。いわば、クリスチャンの生涯とはそれ自体が証である。」
(以上、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より)
(「My Testimony/僕の証<5-1/2>」からの続き)……
僕は現在、「ボロボロ」である。また、「ゴミ」や「M」等と思われても構わない。そして、見栄や体裁を繕うのでは無く、敢えて自分の能力の無さ、「弱さ」を素直に認め、それによって「イエス・キリストと繋がる強さ」を身に付けていきたい。
そして例え迫害を受けようとも、その都度、イエス・キリストの受難を思い浮かべ、「神様であるイエス様でも『ボロボロ』になられたのだ」と励みにし、またそのイエス様の姿勢と態度を手本にして生きていきたい。
更に、そうして僕が迫害を受ける中で、イエス様への信仰を基とした、御心に適った、悔い改めをして聖霊が宿った中で生きるならば、「イエス・キリストの『似姿』」、イエス様に似た姿へと変えて近付いていく事であろう。
新約聖書・ローマ人への手紙8章26~30節 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。 The Epistle to the Romans 8:26~30 In the same way, the Spirit also helps our weaknesses, for we don’t know how to pray as we ought. But the Spirit himself makes intercession for us with groanings which can’t be uttered. He who searches the hearts knows what is on the Spirit’s mind, because he makes intercession for the saints according to God. We know that all things work together for good for those who love God, for those who are called according to his purpose. For whom he foreknew, he also predestined to be conformed to the image of his Son, that he might be the firstborn among many brothers. Whom he predestined, those he also called. Whom he called, those he also justified. Whom he justified, those he also glorified. |
新約聖書・コロサイ人への手紙3章1~12節 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。 このようなことのために、神の怒りが下るのです。 あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 コロサイ人への手紙3章17節 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。 The New Testament・The Epistle to the Colossians 3:1~12 If then you were raised together with Christ, seek the things that are above, where Christ is, seated on the right hand of God. Set your mind on the things that are above, not on the things that are on the earth. For you died, and your life is hidden with Christ in God. When Christ, our life, is revealed, then you will also be revealed with him in glory. Put to death therefore your members which are on the earth: sexual immorality, uncleanness, depraved passion, evil desire, and covetousness, which is idolatry. For these things’ sake the wrath of God comes on the children of disobedience. You also once walked in those, when you lived in them; but now you also put them all away: anger, wrath, malice, slander, and shameful speaking out of your mouth. Don’t lie to one another, seeing that you have put off the old man with his doings, and have put on the new man, who is being renewed in knowledge after the image of his Creator, where there can’t be Greek and Jew, circumcision and uncircumcision, barbarian, Scythian, bondservant, or free person; but Christ is all, and in all. Put on therefore, as God’s chosen ones, holy and beloved, a heart of compassion, kindness, lowliness, humility, and perseverance; The Epistle to the Colossians 3:17 Whatever you do, in word or in deed, do all in the name of the Lord Jesus, giving thanks to God the Father, through him. |
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次に掲げる旧約聖書「イザヤ書52章13節~53章12節」は、預言者イザヤによって預言された「イエス様の御姿」である。
旧約聖書・イザヤ書52章13~15節 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 多くの者があなたを見て驚いたように、 ――その顔だちは、 そこなわれて人のようではなく、 その姿も人の子らとは違っていた。―― そのように、彼は多くの国々を驚かす。 王たちは彼の前で口をつぐむ。 彼らは、まだ告げられなかったことを見、 まだ聞いたこともないことを悟るからだ。 イザヤ書53章1~12節 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕は、だれに現われたのか。 彼は主の前に若枝のように芽生え、 砂漠の地から出る根のように育った。 彼には、私たちが見とれるような姿もなく、 輝きもなく、 私たちが慕うような見ばえもない。 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で病を知っていた。 人が顔をそむけるほどさげすまれ、 私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 だが、私たちは思った。 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、 おのおの、自分かってな道に向かって行った。 しかし、主は、私たちのすべての咎を 彼に負わせた。 彼は痛めつけられた。 彼は苦しんだが、口を開かない。 ほふり場に引かれて行く小羊のように、 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、 彼は口を開かない。 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。 彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。 彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、 生ける者の地から絶たれたことを。 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、 彼は富む者とともに葬られた。 彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。 しかし、彼を砕いて、痛めることは 主のみこころであった。 もし彼が、自分のいのちを 罪過のためのいけにえとするなら、 彼は末長く、子孫を見ることができ、 主のみこころは彼によって成し遂げられる。 彼は、自分のいのちの 激しい苦しみのあとを見て、満足する。 わたしの正しいしもべは、 その知識によって多くの人を義とし、 彼らの咎を彼がになう。 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 そむいた人たちとともに数えられたからである。 彼は多くの人の罪を負い、 そむいた人たちのためにとりなしをする。 |
The Old Testament・The Book of Isaiah 52:13~15 Behold, my servant will deal wisely. He will be exalted and lifted up, and will be very high. Just as many were astonished at you— his appearance was marred more than any man, and his form more than the sons of men— so he will cleanse many nations. Kings will shut their mouths at him; for they will see that which had not been told them, and they will understand that which they had not heard. The Book of Isaiah 53:1~12 Who has believed our message? To whom has Yahweh’s arm been revealed? For he grew up before him as a tender plant, and as a root out of dry ground. He has no good looks or majesty. When we see him, there is no beauty that we should desire him. He was despised and rejected by men, a man of suffering and acquainted with disease. He was despised as one from whom men hide their face; and we didn’t respect him. Surely he has borne our sickness and carried our suffering; yet we considered him plagued, struck by God, and afflicted. But he was pierced for our transgressions. He was crushed for our iniquities. The punishment that brought our peace was on him; and by his wounds we are healed. All we like sheep have gone astray. Everyone has turned to his own way; and Yahweh has laid on him the iniquity of us all. He was oppressed, yet when he was afflicted he didn’t open his mouth. As a lamb that is led to the slaughter, and as a sheep that before its shearers is silent, so he didn’t open his mouth. He was taken away by oppression and judgment. As for his generation, who considered that he was cut off out of the land of the living and stricken for the disobedience of my people? They made his grave with the wicked, and with a rich man in his death, although he had done no violence, nor was any deceit in his mouth. Yet it pleased Yahweh to bruise him. He has caused him to suffer. When you make his soul an offering for sin, he will see his offspring. He will prolong his days and Yahweh’s pleasure will prosper in his hand. After the suffering of his soul, he will see the light and be satisfied. My righteous servant will justify many by the knowledge of himself; and he will bear their iniquities. Therefore I will give him a portion with the great. He will divide the plunder with the strong; because he poured out his soul to death and was counted with the transgressors; yet he bore the sins of many and made intercession for the transgressors. |
この預言の中で度々出て来る「彼」とは、イエス・キリストの事である。また、「だれ」、「わたしのしもべ」もイエス様の事である。そしてこの「わたし」とは、天の父なる神様の事である。父と子(イエス・キリスト)と聖霊の「三位一体」の創造主である唯一の神様であり、唯一の神様の内には複数の人格、位格が在るという「ペルソナ」を意味する。
また、唯一の神様「ヤハウェ」のヘブル語表現としては、「アドナイ」((我が)主)、「エル」であるが、エルの複数形は「エロヒム」であり、その「三位一体」の事である。
ヤハウェは、“I AM WHO I AM”(「私は在る、という者である」、出エジプト記3章14節)と述べる。「私は在る」とは、時間や空間を超えた永遠の時間の中に神様が存在する事を意味する。真に実在するのは唯一の神様のみであり、創造主は「自存的存在者」であるのに対し、被造物である人間は神様無しでは存在する事が出来ない「依存的存在者」である。
新約聖書・マタイの福音書27章46節 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。 ・・・「TR」には「lima」の代わりに「lama」と書かれている。 The New Testament・The Gospel of Matthew 27:46 About the ninth hour Jesus cried with a loud voice, saying, “Eli, Eli, lima sabachthani?” That is, “My God, my God, why have you forsaken me?” ・・・※ “TR” reads “lama” instead of “lima” |
※ ・(昼の)「三時」(15時)…直訳:「第九時」。
・「TR」:テクストゥス・レセプトゥス(Textus Receptus)…「『受け入れられたテキスト』の意味)は、デジデリウス・エラスムスとオランダの人文学者たちによって校訂され、1516年に印刷されたギリシア語新約聖書本文のこと。共認定本とも呼ばれる。出版された最初のギリシア語新約聖書でもある。後にウィリアム・ティンダルの英訳聖書、マルティン・ルターのドイツ語訳聖書(ルター聖書)など宗教改革期以降に作られた多くの翻訳聖書の底本として用いられ、正統的な新約ギリシア語本文としての権威を得た。が、近代になると、聖書学者たちはテクストゥス・レセプトゥスのもととなったギリシア語写本は東ローマ帝国からもたらされたビザンティン型に属するもの(小文字写本)で古くても12世紀以前にはさかのぼらないことを明らかにし、より古く、より良質な写本によって原文を確定しようとする本文批評学が確立した。その結果テクストゥス・レセプトゥスは今日では「(もはや)受け入れられないテキスト」となっている。」(ウィキペディア「テクストゥス・レセプトゥス」より)
旧約聖書・出エジプト記3章14節 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」 The Old Testament・The Book of Exodus 3:14 God said to Moses, “I AM WHO I AM,” and he said, “You shall tell the children of Israel this: ‘I AM has sent me to you.’ ” |
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・本ブログ ブックマーク:「My Testimony & Witness/僕の証 2018」 ・・・本ページ右サイド
・2012/12/02付:「世を軽んじ、全てを捨て、清貧・純潔・謙遜・愛・従順・・・『アシジの聖フランシスコ』を読んで」
・2013/02/10付:「『生命倫理』について・・・(5)『運命』を素直に受け入れ、大きく委ねる」
・2013/04/13付:「俗事における『無用性』は一時的なもの・・・信仰によって生き、永遠を求める」
・2014/06/29付:「『「普通がいい」という病・「自分を取りもどす」10講』を読んで・・・絶対的基準・規範も持たずにお互いの顔色・反応を確かめて『普通』と認め合っているに過ぎない世間の人達」
・2015/08/23付:「失敗、ユニーク、ユーモア・・・『道化師の孤独』を抱えた『聖なる無用性』:『寅さんとイエス』を読む」
・2016/05/08付:「聖霊存する不動の土台が築かれた心により失敗・ユニークが才能・特性に変貌する・・・『聖書力』を読む」
・2017/05/05付:「『ひきこもり』は良い事である・・・精神的修練と自立、心の成熟、自己点検、内省、瞑想、普通であろうとする間違い、アイデンティティにこそ値打ち、自分と公義とのバランス、そして根本規範」
・2018/03/19付:「僕の先月の追記:I am“out-low”, servant, and no ability神様の恵みで益とされるPeople are made as good by the grace of God」
引用文献
・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
・新改訳新約聖書(1965年版)(発行:日本聖書刊行会)
・World English Bible(eBible.org)
参考文献
・ウィキペディア:「ネストレ・アーラント」
・Wikipedia:「United Bible Societies」
・ウィキペディア:「テクストゥス・レセプトゥス」
「 My Testimony/僕の証<5> 」<1/2> ~ <2/2> ↓
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