如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

反省。深く深く反省

2007-08-03 23:34:41 | サイ・フォーラムへの書込み
他力本願無為徒食さんへ 投稿者:風天  投稿日:2003年12月23日

宝物のような貴重な時間をこんなことに費やしていていいのかと、私も思いますが。
まあ、案外こういった無駄も、人生にとって必要なのかもしれないと、自分に都合よく考えています。
少なくとも、ひとりで考えているよりも刺激があるし、書き込むことで考えもまとまるかもしれない。

>『レベルが高い、低い』、『霊格(霊性)が高い、低い』、『波長が高い、低い』という表現を聞くと生理的に虫酸が走る・・・
そう思うときが私にも確かにあります。
「高い」「低い」という表現がまずいのですが、階層構造を表現するとそのようになってしまう。階層構造でなく平面的な層構造で表現すれば良いのかもしれませんが、私としても階層構造のほうが、より自分のイメージに近いと思ってしまうのです。

スエデンボルグの霊界って知ってますか、あの霊界の階層構造のイメージが私のイメージなのです。
スエデンボルグの霊界の階層構造は「住み分け」って感じなのです。
その霊界は、闇の世界からまばゆい光の世界へと階層構造になっている。
しかし、まばゆい光の世界が誰にとっても住み易いとは限らない。
「まばゆい光の世界」はちょっと覗く分には良いかもしれないが、1時間とは耐えられない世界・・・モグラが地上を覗いたときのような感じ。

スエデンボルグの霊界は、似たもの同士が集まっている世界なのです。
そして、どの霊も結局住み易い世界に落ち着くわけです。
当人が住み易いと自覚しているかどうかは別として、結局そこでしか住めないのかもしれません。

私たちは、気温15°~28°位が快適であり、それより高くても低くても不快なのです。
それと似たようなものなのです。
まあ、霊界の方には、多少の上昇志向があるわけですが、この上昇志向のようなもの(方向性)は、この世界自体の志向性から生まれてくるものかなと思ってはいます。
ではなぜこの世界にそのような方向性があるのか・・・私にはわかりません。


やっと土曜日の夜 投稿者:風天  投稿日:2004年 1月17日

70年・80年もあっという間・・・。確かにそうかもしれません。
しかし、見方によってはずいぶん長い時間でもあります。
今から70年前は昭和のはじめ頃。
自家用車などはほとんどなく、大八車や牛に引かせた荷車で物を運んでいたし、汽車はほとんど蒸気機関車。便利なコンビなどあるはずもなく、田舎の我が家には電気すらなかったはず。
かまどで煮炊きをして、お便所は汲み取りで。子供は青っ洟にあかぎれが当たり前。
しかし、まあ、それはそれで幸せだったのでしょう。
もちろん私は生まれてません。まあ、私が生まれた頃も似たようなものですが・・・
軍国主義・太平洋戦争・敗戦・復興・工業立国・思想や価値観の激変、まさに激動です。
この大激動の時代を、今のお年寄りは生きてきたわけで、それだけでも尊敬せざるを得ません。

話は変わりますが、たとえばキツネやタヌキなら、30年も生きれば尻尾が何本もある妖怪のようになるんだとか。そんな話を聞きます。
だから人間だって、30年も生きれば、もう立派に妖怪・化け物の仲間入りなんじゃないかと思ったりします。
つまり、人間社会は妖怪・化け物の世界で、みんなで化かしあったり・だましあったりして生きているんじゃないかと・・・そう考えればガテンがゆくかもしれません。
でも、妖怪・化け物になるよりは、仙人になりたいよな。どうせなるならネ。


はてさて 投稿者:通りすがり  投稿日:2004年 1月22日(木)23時56分18秒

人生はすばらしい。
生きてることは、すばらしい。
そう思ってみましょう。
口に出して、そういってみましょう。
催眠術といわれようとかまいません。
「最高です!」と言ってみましょう。
とにもかくにも、今、ここで私は生きているんだと、そのこと自体が奇跡なんだと、そう思いましょう。
解脱なんか糞食らえ。

にっこり笑って生きるのが、人間なんです。
苦しい時・逆境の時に、にっこり笑って穏やかに物事を処理できるのが、オトナなんです。

もっとも俺にはできないけどね。
いつまでたってもオコサマなんだよね。自分のことしか見えていない。反省。深く深く反省。


無題 投稿者:風天  投稿日:2004年 5月 9日(日)23時45分51秒

ここのところの掲示板のやり取りを読んでいて、イエスの言葉を思い出しました。
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< マタイ10章のイエスの言葉 >
地上に平和をもたらすために私が来たと思うな。
平和ではなく、剣を投げ込むためにきたのである。
わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
そして家の者が、その人の敵となるであろう。
わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
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かなり強烈な内容です。
キリスト教に限らず、宗教には本質的にこのような部分があるのだと思います。

宗教は、まだまだ未開のジャングルのようなもので、危険がいっぱいなのは事実です。
魅力はあります。しかしそこに幸せがあるかというと、世間で言うところの幸せはあまり期待できないような気がします。
だから、おいそれと他人に勧めることはできません。

それでも、恐る恐る足を踏み入れるのは、やはり魅力があるからです。
あとはいわゆる「自己責任」だと思います。
もちろん、わたしが言っているのは、宗教全般についての一般論です。

無題

2007-08-03 23:19:58 | サイ・フォーラムへの書込み
無題 投稿者:風天  投稿日:2003年11月10日

>他力本願無為徒食さんへ
「神に会うては神を斬り、仏に会うては仏を斬り」
のもともとの出所は、たぶん臨済録の
「仏に逢っては仏を殺し、祖に逢っては祖を殺し、羅漢に逢っては羅漢を殺し、父母に逢っては父母を殺し、親眷に逢っては親眷を殺し、初めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在なり」

>がががさんへ
「あなた方が量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。
だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」
とイエスは言っています。

ジッドゥ・クリシュナムルティ 投稿者:の言葉より  投稿日:2003年11月19日

 「生は単純にして荘厳であり、麗しく、神聖なものだ。が、諸君は夜明けや静かな夜のあらゆる美しさを、自分たちが崇拝できるように狭い円の中に閉じこめようとする。夕暮れに浜辺に降りてみると、さわやかなそよ風が吹き、草の葉という葉がそよいでいる。砂粒が舞い、木々の梢が揺れ、そして波と波がぶつかりあっている。が、諸君はそれら全ての美を狭い寺院の中に閉じこめようと願うのだ。気高く生きるには、いかなる信念も不要である。にもかかわらず、諸君は言う。「私は神々を崇拝しなければならない。儀式をとり行わなければならない,寺院に参詣しなければならない。これに従い、それをしなければならない。永劫の「ねばならない」である!そのような生き方は、少しも生とはいえないのだ。」 そして最後に、彼は団員にこう訴える。「私のまわりに寺院を建立する事だけはやめてほしい。私はそのなかに閉じこめられることはないだろう。私は諸君にとって,爽やかなそよ風のような友でありたいと思う。私は諸君を諸々の制約から自由にし、かくして諸君自身の内部の個的創造性,完全性,独自性を鼓舞したいのだ。自己というものは・・・伝統や形式、いっさいの不要物・・・によって縛られておらず、その個的独自性を完全に伸ばしきったときにのみ浄化され、真に超越されうるのだ。」

**コメント**
この投稿は私のものではありません。
の言葉よりさんの投稿です。


シュミレーション 投稿者:風天  投稿日:2003年12月10日

つまり、考えるということは、シュミレーションだということ。
朝起きたら、今日一日の予定をシュミレーションしておきましょう。
いろいろと突発的な出来事があって、なかなかシュミレーションどおりにはならないものですけれど・・・
まあ、結果よければOKということでw


無題 投稿者:風天  投稿日:2003年12月13日

もものこさんへ
「のめりこみすぎる」と、確かに危険な世界でしょうね。そのように感じたもものこさんの感覚は正解だと思います。
しかし、どもみち未熟であることに変わりはなく、未熟であるからこそ、いろいろなことに興味も持つし、新しい発見もあるものだとは思いました。

たとえば、旅をしていても、思いつきで寄り道をしたり、道に迷ったりしたときの方が後々印象に残る経験ができたりしますが。
もちろん、リスクはいつでも自分持ちです。
それに実生活は、旅とは違うわけで・・・やはり明るく広い道を行くべきだとは思います。


無題 投稿者:風天  投稿日:2003年12月22日

がががさんへ
>「わかる」と「わからない」のあいだに「まったく完全な真理」がある。
そうですね。
「神はいる」と「神はいない」のあいだに「全く完全な真理」があるとかネ

少し話は違いますが、たとえば、言葉というものはデジタル表現なので、YESとNOしかない。そのために、言葉で真理を正確に表現することはどうもできそうにないw
少しでもより正確に表現しようとすれば、YESの中にNOを入れ、そのNOの中にYESを入れるというふうに、非常にわかりづらい表現をとらなければならないが、その結果できあがった文章は、結局わけがわからないw
それを避けるために、たとえ話を使ってイメージを伝えたり、反語や逆説を使うのでしょうが、それがかえって誤解を招くこともあって・・・