他力本願無為徒食さんへ 投稿者:風天 投稿日:2003年12月23日
宝物のような貴重な時間をこんなことに費やしていていいのかと、私も思いますが。
まあ、案外こういった無駄も、人生にとって必要なのかもしれないと、自分に都合よく考えています。
少なくとも、ひとりで考えているよりも刺激があるし、書き込むことで考えもまとまるかもしれない。
>『レベルが高い、低い』、『霊格(霊性)が高い、低い』、『波長が高い、低い』という表現を聞くと生理的に虫酸が走る・・・
そう思うときが私にも確かにあります。
「高い」「低い」という表現がまずいのですが、階層構造を表現するとそのようになってしまう。階層構造でなく平面的な層構造で表現すれば良いのかもしれませんが、私としても階層構造のほうが、より自分のイメージに近いと思ってしまうのです。
スエデンボルグの霊界って知ってますか、あの霊界の階層構造のイメージが私のイメージなのです。
スエデンボルグの霊界の階層構造は「住み分け」って感じなのです。
その霊界は、闇の世界からまばゆい光の世界へと階層構造になっている。
しかし、まばゆい光の世界が誰にとっても住み易いとは限らない。
「まばゆい光の世界」はちょっと覗く分には良いかもしれないが、1時間とは耐えられない世界・・・モグラが地上を覗いたときのような感じ。
スエデンボルグの霊界は、似たもの同士が集まっている世界なのです。
そして、どの霊も結局住み易い世界に落ち着くわけです。
当人が住み易いと自覚しているかどうかは別として、結局そこでしか住めないのかもしれません。
私たちは、気温15°~28°位が快適であり、それより高くても低くても不快なのです。
それと似たようなものなのです。
まあ、霊界の方には、多少の上昇志向があるわけですが、この上昇志向のようなもの(方向性)は、この世界自体の志向性から生まれてくるものかなと思ってはいます。
ではなぜこの世界にそのような方向性があるのか・・・私にはわかりません。
やっと土曜日の夜 投稿者:風天 投稿日:2004年 1月17日
70年・80年もあっという間・・・。確かにそうかもしれません。
しかし、見方によってはずいぶん長い時間でもあります。
今から70年前は昭和のはじめ頃。
自家用車などはほとんどなく、大八車や牛に引かせた荷車で物を運んでいたし、汽車はほとんど蒸気機関車。便利なコンビなどあるはずもなく、田舎の我が家には電気すらなかったはず。
かまどで煮炊きをして、お便所は汲み取りで。子供は青っ洟にあかぎれが当たり前。
しかし、まあ、それはそれで幸せだったのでしょう。
もちろん私は生まれてません。まあ、私が生まれた頃も似たようなものですが・・・
軍国主義・太平洋戦争・敗戦・復興・工業立国・思想や価値観の激変、まさに激動です。
この大激動の時代を、今のお年寄りは生きてきたわけで、それだけでも尊敬せざるを得ません。
話は変わりますが、たとえばキツネやタヌキなら、30年も生きれば尻尾が何本もある妖怪のようになるんだとか。そんな話を聞きます。
だから人間だって、30年も生きれば、もう立派に妖怪・化け物の仲間入りなんじゃないかと思ったりします。
つまり、人間社会は妖怪・化け物の世界で、みんなで化かしあったり・だましあったりして生きているんじゃないかと・・・そう考えればガテンがゆくかもしれません。
でも、妖怪・化け物になるよりは、仙人になりたいよな。どうせなるならネ。
はてさて 投稿者:通りすがり 投稿日:2004年 1月22日(木)23時56分18秒
人生はすばらしい。
生きてることは、すばらしい。
そう思ってみましょう。
口に出して、そういってみましょう。
催眠術といわれようとかまいません。
「最高です!」と言ってみましょう。
とにもかくにも、今、ここで私は生きているんだと、そのこと自体が奇跡なんだと、そう思いましょう。
解脱なんか糞食らえ。
にっこり笑って生きるのが、人間なんです。
苦しい時・逆境の時に、にっこり笑って穏やかに物事を処理できるのが、オトナなんです。
もっとも俺にはできないけどね。
いつまでたってもオコサマなんだよね。自分のことしか見えていない。反省。深く深く反省。
無題 投稿者:風天 投稿日:2004年 5月 9日(日)23時45分51秒
ここのところの掲示板のやり取りを読んでいて、イエスの言葉を思い出しました。
-----
< マタイ10章のイエスの言葉 >
地上に平和をもたらすために私が来たと思うな。
平和ではなく、剣を投げ込むためにきたのである。
わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
そして家の者が、その人の敵となるであろう。
わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
-----
かなり強烈な内容です。
キリスト教に限らず、宗教には本質的にこのような部分があるのだと思います。
宗教は、まだまだ未開のジャングルのようなもので、危険がいっぱいなのは事実です。
魅力はあります。しかしそこに幸せがあるかというと、世間で言うところの幸せはあまり期待できないような気がします。
だから、おいそれと他人に勧めることはできません。
それでも、恐る恐る足を踏み入れるのは、やはり魅力があるからです。
あとはいわゆる「自己責任」だと思います。
もちろん、わたしが言っているのは、宗教全般についての一般論です。
宝物のような貴重な時間をこんなことに費やしていていいのかと、私も思いますが。
まあ、案外こういった無駄も、人生にとって必要なのかもしれないと、自分に都合よく考えています。
少なくとも、ひとりで考えているよりも刺激があるし、書き込むことで考えもまとまるかもしれない。
>『レベルが高い、低い』、『霊格(霊性)が高い、低い』、『波長が高い、低い』という表現を聞くと生理的に虫酸が走る・・・
そう思うときが私にも確かにあります。
「高い」「低い」という表現がまずいのですが、階層構造を表現するとそのようになってしまう。階層構造でなく平面的な層構造で表現すれば良いのかもしれませんが、私としても階層構造のほうが、より自分のイメージに近いと思ってしまうのです。
スエデンボルグの霊界って知ってますか、あの霊界の階層構造のイメージが私のイメージなのです。
スエデンボルグの霊界の階層構造は「住み分け」って感じなのです。
その霊界は、闇の世界からまばゆい光の世界へと階層構造になっている。
しかし、まばゆい光の世界が誰にとっても住み易いとは限らない。
「まばゆい光の世界」はちょっと覗く分には良いかもしれないが、1時間とは耐えられない世界・・・モグラが地上を覗いたときのような感じ。
スエデンボルグの霊界は、似たもの同士が集まっている世界なのです。
そして、どの霊も結局住み易い世界に落ち着くわけです。
当人が住み易いと自覚しているかどうかは別として、結局そこでしか住めないのかもしれません。
私たちは、気温15°~28°位が快適であり、それより高くても低くても不快なのです。
それと似たようなものなのです。
まあ、霊界の方には、多少の上昇志向があるわけですが、この上昇志向のようなもの(方向性)は、この世界自体の志向性から生まれてくるものかなと思ってはいます。
ではなぜこの世界にそのような方向性があるのか・・・私にはわかりません。
やっと土曜日の夜 投稿者:風天 投稿日:2004年 1月17日
70年・80年もあっという間・・・。確かにそうかもしれません。
しかし、見方によってはずいぶん長い時間でもあります。
今から70年前は昭和のはじめ頃。
自家用車などはほとんどなく、大八車や牛に引かせた荷車で物を運んでいたし、汽車はほとんど蒸気機関車。便利なコンビなどあるはずもなく、田舎の我が家には電気すらなかったはず。
かまどで煮炊きをして、お便所は汲み取りで。子供は青っ洟にあかぎれが当たり前。
しかし、まあ、それはそれで幸せだったのでしょう。
もちろん私は生まれてません。まあ、私が生まれた頃も似たようなものですが・・・
軍国主義・太平洋戦争・敗戦・復興・工業立国・思想や価値観の激変、まさに激動です。
この大激動の時代を、今のお年寄りは生きてきたわけで、それだけでも尊敬せざるを得ません。
話は変わりますが、たとえばキツネやタヌキなら、30年も生きれば尻尾が何本もある妖怪のようになるんだとか。そんな話を聞きます。
だから人間だって、30年も生きれば、もう立派に妖怪・化け物の仲間入りなんじゃないかと思ったりします。
つまり、人間社会は妖怪・化け物の世界で、みんなで化かしあったり・だましあったりして生きているんじゃないかと・・・そう考えればガテンがゆくかもしれません。
でも、妖怪・化け物になるよりは、仙人になりたいよな。どうせなるならネ。
はてさて 投稿者:通りすがり 投稿日:2004年 1月22日(木)23時56分18秒
人生はすばらしい。
生きてることは、すばらしい。
そう思ってみましょう。
口に出して、そういってみましょう。
催眠術といわれようとかまいません。
「最高です!」と言ってみましょう。
とにもかくにも、今、ここで私は生きているんだと、そのこと自体が奇跡なんだと、そう思いましょう。
解脱なんか糞食らえ。
にっこり笑って生きるのが、人間なんです。
苦しい時・逆境の時に、にっこり笑って穏やかに物事を処理できるのが、オトナなんです。
もっとも俺にはできないけどね。
いつまでたってもオコサマなんだよね。自分のことしか見えていない。反省。深く深く反省。
無題 投稿者:風天 投稿日:2004年 5月 9日(日)23時45分51秒
ここのところの掲示板のやり取りを読んでいて、イエスの言葉を思い出しました。
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< マタイ10章のイエスの言葉 >
地上に平和をもたらすために私が来たと思うな。
平和ではなく、剣を投げ込むためにきたのである。
わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
そして家の者が、その人の敵となるであろう。
わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
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かなり強烈な内容です。
キリスト教に限らず、宗教には本質的にこのような部分があるのだと思います。
宗教は、まだまだ未開のジャングルのようなもので、危険がいっぱいなのは事実です。
魅力はあります。しかしそこに幸せがあるかというと、世間で言うところの幸せはあまり期待できないような気がします。
だから、おいそれと他人に勧めることはできません。
それでも、恐る恐る足を踏み入れるのは、やはり魅力があるからです。
あとはいわゆる「自己責任」だと思います。
もちろん、わたしが言っているのは、宗教全般についての一般論です。