盆休みに読もうと思った本は夢枕獏『上弦の月を喰べる獅子」。
注文の翌日にはもう某古書店から届きました。速いです。
盆休みに何を読もうかと考えたとき、最初に浮かんだのは「陰陽師」。新作も出ているし、夏休みらしいゆったりした気分で読めそう。
しかし、「陰陽師」の雰囲気は確かに大好きだが、そこから新しいおどろきの発見があるかというと、あまり期待できないかもしれない。
それで、夢枕獏の本を検索していったらいろいろな賞を取っているこの本にぶつかった。読んでおくべき一冊に思えた。
まだほんの数ページを読んだだけである。
早々に宮沢賢治の長い引用がある。しかし、宮沢賢治の文章そのものではなく、夢枕氏がいくつかの宮沢賢治の文章の断片を再構成したもののようである。
つまり、その長い引用と思われる文章の最初の出だし部分が「春と修羅」の「序」の冒頭であるとわかるだけで、それからあとの文章はどこからの引用なのかはっきりしない。どこかで読んだような、宮沢賢治風の文章なのだが・・・
小説の主人公の「わたし」と宮沢賢治をダブらせているということか。
『上弦の月を喰べる獅子』の目次を見ると螺旋という言葉がたくさん並んでいる。螺旋構造がこの小説の骨組みになっているらしい。
「螺旋」については、私にも思い入れがある。そのことについて少し書いておきたい。
螺旋のイメージは、螺旋階段、バネ。バネの形状が一番わかりやすい。
螺旋の特徴は、螺旋の上での距離と空間の中での距離が全く違う事にある。たとば緩やかなスロープのらせん状の階段の1階と2階は直線距離にすれば4メートルだが、歩く距離は10メートルだったりする。
それでも、階段の場合には自分が螺旋の上にいる事が分かっているので別段不思議ではないのだが、もし自分が螺旋の上を移動していると気づかない場合には、話が変わってくる。
自分の移動したと思っている距離に比べ実際の空間上での距離がずっと近いのである。
次にバネをイメージしてみる。ばねは、一本のまっすぐな針金が円を描きながらしかも交差せず円柱の上を一方に巻き上がってゆく形をしている。これが普通の螺旋である。
さらに複雑なバネをイメージしてみる。先ほどは針金が円柱の上を巻き上がったのだが、針金を巻く元の型は曲がっていてもかまわないのである。そこで、円柱の代わりに螺旋形の太いパイプの上を針金が巻き上がってゆくことをイメージしてみる。こうして出来上がった物は、「螺旋でできた螺旋」になる。、「螺旋でできた螺旋」では、針金の上での距離と空間での距離はさらに異なったものになる。
このイメージをさらに拡張して、「螺旋でできた螺旋でできた螺旋でできた螺旋でできた螺旋・・・」をイメージする事もできる。
こういった複雑な螺旋の上では何万キロメートルも離れているようにみえても、実は空間の中では、数ミリメートルしか離れていないという事もありうる。
私が螺旋についてこのような事を考えたのは、時間をどうイメージするかいろいろと考えていた頃のことである。
つまり、時間を距離に換算したときにあまりにも遠くになってしまい、実感と合わないので、それを解消する構造を探していて、「時間の構造=螺旋」にたどり着いたわけです。
もし時間が螺旋を描いていれば、時間上の距離がいくら離れていても、その霊的な距離はそれほど離れてはいないかもしれないし、すぐ隣に接しているかもしれない。たとえば、キーボードをたたく私のすぐ隣に、ティラノザウルスが巨大な口をあけていたとしてもおかしくはないと、そんなことを想像していました。
ただし時間は通常の空間を進むわけではないので、霊的な空間?を進むとして「霊的な距離」と書きました。このあたりは全くいい加減な話です。
そして現在は、時間の構造などどうでもよいと思っていますし、イメージなどできるものではないとも思っています。
注文の翌日にはもう某古書店から届きました。速いです。
盆休みに何を読もうかと考えたとき、最初に浮かんだのは「陰陽師」。新作も出ているし、夏休みらしいゆったりした気分で読めそう。
しかし、「陰陽師」の雰囲気は確かに大好きだが、そこから新しいおどろきの発見があるかというと、あまり期待できないかもしれない。
それで、夢枕獏の本を検索していったらいろいろな賞を取っているこの本にぶつかった。読んでおくべき一冊に思えた。
まだほんの数ページを読んだだけである。
早々に宮沢賢治の長い引用がある。しかし、宮沢賢治の文章そのものではなく、夢枕氏がいくつかの宮沢賢治の文章の断片を再構成したもののようである。
つまり、その長い引用と思われる文章の最初の出だし部分が「春と修羅」の「序」の冒頭であるとわかるだけで、それからあとの文章はどこからの引用なのかはっきりしない。どこかで読んだような、宮沢賢治風の文章なのだが・・・
小説の主人公の「わたし」と宮沢賢治をダブらせているということか。
『上弦の月を喰べる獅子』の目次を見ると螺旋という言葉がたくさん並んでいる。螺旋構造がこの小説の骨組みになっているらしい。
「螺旋」については、私にも思い入れがある。そのことについて少し書いておきたい。
螺旋のイメージは、螺旋階段、バネ。バネの形状が一番わかりやすい。
螺旋の特徴は、螺旋の上での距離と空間の中での距離が全く違う事にある。たとば緩やかなスロープのらせん状の階段の1階と2階は直線距離にすれば4メートルだが、歩く距離は10メートルだったりする。
それでも、階段の場合には自分が螺旋の上にいる事が分かっているので別段不思議ではないのだが、もし自分が螺旋の上を移動していると気づかない場合には、話が変わってくる。
自分の移動したと思っている距離に比べ実際の空間上での距離がずっと近いのである。
次にバネをイメージしてみる。ばねは、一本のまっすぐな針金が円を描きながらしかも交差せず円柱の上を一方に巻き上がってゆく形をしている。これが普通の螺旋である。
さらに複雑なバネをイメージしてみる。先ほどは針金が円柱の上を巻き上がったのだが、針金を巻く元の型は曲がっていてもかまわないのである。そこで、円柱の代わりに螺旋形の太いパイプの上を針金が巻き上がってゆくことをイメージしてみる。こうして出来上がった物は、「螺旋でできた螺旋」になる。、「螺旋でできた螺旋」では、針金の上での距離と空間での距離はさらに異なったものになる。
このイメージをさらに拡張して、「螺旋でできた螺旋でできた螺旋でできた螺旋でできた螺旋・・・」をイメージする事もできる。
こういった複雑な螺旋の上では何万キロメートルも離れているようにみえても、実は空間の中では、数ミリメートルしか離れていないという事もありうる。
私が螺旋についてこのような事を考えたのは、時間をどうイメージするかいろいろと考えていた頃のことである。
つまり、時間を距離に換算したときにあまりにも遠くになってしまい、実感と合わないので、それを解消する構造を探していて、「時間の構造=螺旋」にたどり着いたわけです。
もし時間が螺旋を描いていれば、時間上の距離がいくら離れていても、その霊的な距離はそれほど離れてはいないかもしれないし、すぐ隣に接しているかもしれない。たとえば、キーボードをたたく私のすぐ隣に、ティラノザウルスが巨大な口をあけていたとしてもおかしくはないと、そんなことを想像していました。
ただし時間は通常の空間を進むわけではないので、霊的な空間?を進むとして「霊的な距離」と書きました。このあたりは全くいい加減な話です。
そして現在は、時間の構造などどうでもよいと思っていますし、イメージなどできるものではないとも思っています。