如意樹の木陰

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2024年に再開しました。

言葉のちから

2006-08-06 00:52:07 | Weblog
言葉にはちからがある。
インドであればマントラについてそのような事を言う。
たとえば、ガヤトリマントラなどは特に強い力があると言われる。
日本で読まれる仏典にしても、般若心経のように読誦する事により功徳があるというお経がよく読まれている。

そういう話を別にしても、言葉には確かに力がある。
たとえば、考えるときには言葉で考える。
言葉を使わずに考えるという事は、試してみればわかるが、かなり難しい。
数式を使う場合も、数式は言葉の一種であると考えられる。
ただし、図形をイメージしたり、物理現象をイメージしたりする場合は、言葉を離れて考えている。
言葉を持たない動物の思考は、イメージの連続なのだろうか。
人間にしても、言葉はイメージの代用品のはずなのだが・・・いつの間にか言葉が独り歩きをしている事に気づく。

言葉は、アナログではなく、デジタルである。微妙な違いや、雰囲気を正確に表現するには本来不向きである。
たとえば風景を表現するなら、絵や写真や模型のほうがあるかに正確に表現できる。
言葉の持つ意味は、辞書で引けば一応決まっているが、言葉からイメージするものにはかなりの個人差や時代による差があるように思う。

そして、私は言葉に縛られて生きている。
ぼんやりしたイメージも、言葉にした瞬間に明確なイメージになり、さらにそれを口から発し他人に伝えれば、その言葉は独り歩きを始め、もう消し去る事は出来なくなる。
たとえば朝の朝礼で、思いつくままに話していたら、仕事が二つ三つ増えてしまったりする。
つまり、どうしようかな・・と思っていた事も、言葉にしているうちに実施したほうがよいと思い、「××を実施したい」になる。
そして、「実施したい」と発表してしまった事で、その言葉に縛られて、「実施しなければならない」と言う気持ちになっている。
言葉は考えを加速する。そして、判断を急がせる。
だから、口に出す前に一度心の中で言葉をよく考えてから話せばよいのだが・・・それがなかなか出来ない。
それが出来るようになれば、私も一皮むけて、もっと落ち着いた大人らしい話し方ができるようになるのだろうけれど・・・

一度口から出した言葉は、どのみち完全に消去する事は出来ない。取り消す事は出来るが痕跡は残る。
仕事では朝令暮改が当たり前と思ってはいる。
言葉に出す事により、検討が深まり、問題点も出てくるわけで、どんどん変えてゆく事が民間では必要なのだと割り切っている。
しかし、人間関係においてはそうはいかない。心にいったんしみ込んだ言葉は、イメージとなって脳に定着してしまう。
自分自身の脳のイメージならまだしも、自分の言葉によって他人の脳に出来てしまったイメージをさらに言葉によって変えるなどということは、不透明水彩絵具を混ぜ合わせるようなものに思える。
人間関係は、言葉によってあっという間に悪くなってしまう事があるので、大人の会話では差しさわりのありそうなことは極力避ける。
そして、当たり障りのない世間話をしながら、仲間という雰囲気を作っているようにみえる。
しかし、そういう会話を楽しむ習慣のない私には、いかにも退屈な時間つぶしに思えてしまう。

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