無題 投稿者:風天 投稿日:2003年11月10日
>他力本願無為徒食さんへ
「神に会うては神を斬り、仏に会うては仏を斬り」
のもともとの出所は、たぶん臨済録の
「仏に逢っては仏を殺し、祖に逢っては祖を殺し、羅漢に逢っては羅漢を殺し、父母に逢っては父母を殺し、親眷に逢っては親眷を殺し、初めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在なり」
>がががさんへ
「あなた方が量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。
だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」
とイエスは言っています。
ジッドゥ・クリシュナムルティ 投稿者:の言葉より 投稿日:2003年11月19日
「生は単純にして荘厳であり、麗しく、神聖なものだ。が、諸君は夜明けや静かな夜のあらゆる美しさを、自分たちが崇拝できるように狭い円の中に閉じこめようとする。夕暮れに浜辺に降りてみると、さわやかなそよ風が吹き、草の葉という葉がそよいでいる。砂粒が舞い、木々の梢が揺れ、そして波と波がぶつかりあっている。が、諸君はそれら全ての美を狭い寺院の中に閉じこめようと願うのだ。気高く生きるには、いかなる信念も不要である。にもかかわらず、諸君は言う。「私は神々を崇拝しなければならない。儀式をとり行わなければならない,寺院に参詣しなければならない。これに従い、それをしなければならない。永劫の「ねばならない」である!そのような生き方は、少しも生とはいえないのだ。」 そして最後に、彼は団員にこう訴える。「私のまわりに寺院を建立する事だけはやめてほしい。私はそのなかに閉じこめられることはないだろう。私は諸君にとって,爽やかなそよ風のような友でありたいと思う。私は諸君を諸々の制約から自由にし、かくして諸君自身の内部の個的創造性,完全性,独自性を鼓舞したいのだ。自己というものは・・・伝統や形式、いっさいの不要物・・・によって縛られておらず、その個的独自性を完全に伸ばしきったときにのみ浄化され、真に超越されうるのだ。」
**コメント**
この投稿は私のものではありません。
の言葉よりさんの投稿です。
シュミレーション 投稿者:風天 投稿日:2003年12月10日
つまり、考えるということは、シュミレーションだということ。
朝起きたら、今日一日の予定をシュミレーションしておきましょう。
いろいろと突発的な出来事があって、なかなかシュミレーションどおりにはならないものですけれど・・・
まあ、結果よければOKということでw
無題 投稿者:風天 投稿日:2003年12月13日
もものこさんへ
「のめりこみすぎる」と、確かに危険な世界でしょうね。そのように感じたもものこさんの感覚は正解だと思います。
しかし、どもみち未熟であることに変わりはなく、未熟であるからこそ、いろいろなことに興味も持つし、新しい発見もあるものだとは思いました。
たとえば、旅をしていても、思いつきで寄り道をしたり、道に迷ったりしたときの方が後々印象に残る経験ができたりしますが。
もちろん、リスクはいつでも自分持ちです。
それに実生活は、旅とは違うわけで・・・やはり明るく広い道を行くべきだとは思います。
無題 投稿者:風天 投稿日:2003年12月22日
がががさんへ
>「わかる」と「わからない」のあいだに「まったく完全な真理」がある。
そうですね。
「神はいる」と「神はいない」のあいだに「全く完全な真理」があるとかネ
少し話は違いますが、たとえば、言葉というものはデジタル表現なので、YESとNOしかない。そのために、言葉で真理を正確に表現することはどうもできそうにないw
少しでもより正確に表現しようとすれば、YESの中にNOを入れ、そのNOの中にYESを入れるというふうに、非常にわかりづらい表現をとらなければならないが、その結果できあがった文章は、結局わけがわからないw
それを避けるために、たとえ話を使ってイメージを伝えたり、反語や逆説を使うのでしょうが、それがかえって誤解を招くこともあって・・・
>他力本願無為徒食さんへ
「神に会うては神を斬り、仏に会うては仏を斬り」
のもともとの出所は、たぶん臨済録の
「仏に逢っては仏を殺し、祖に逢っては祖を殺し、羅漢に逢っては羅漢を殺し、父母に逢っては父母を殺し、親眷に逢っては親眷を殺し、初めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在なり」
>がががさんへ
「あなた方が量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。
だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」
とイエスは言っています。
ジッドゥ・クリシュナムルティ 投稿者:の言葉より 投稿日:2003年11月19日
「生は単純にして荘厳であり、麗しく、神聖なものだ。が、諸君は夜明けや静かな夜のあらゆる美しさを、自分たちが崇拝できるように狭い円の中に閉じこめようとする。夕暮れに浜辺に降りてみると、さわやかなそよ風が吹き、草の葉という葉がそよいでいる。砂粒が舞い、木々の梢が揺れ、そして波と波がぶつかりあっている。が、諸君はそれら全ての美を狭い寺院の中に閉じこめようと願うのだ。気高く生きるには、いかなる信念も不要である。にもかかわらず、諸君は言う。「私は神々を崇拝しなければならない。儀式をとり行わなければならない,寺院に参詣しなければならない。これに従い、それをしなければならない。永劫の「ねばならない」である!そのような生き方は、少しも生とはいえないのだ。」 そして最後に、彼は団員にこう訴える。「私のまわりに寺院を建立する事だけはやめてほしい。私はそのなかに閉じこめられることはないだろう。私は諸君にとって,爽やかなそよ風のような友でありたいと思う。私は諸君を諸々の制約から自由にし、かくして諸君自身の内部の個的創造性,完全性,独自性を鼓舞したいのだ。自己というものは・・・伝統や形式、いっさいの不要物・・・によって縛られておらず、その個的独自性を完全に伸ばしきったときにのみ浄化され、真に超越されうるのだ。」
**コメント**
この投稿は私のものではありません。
の言葉よりさんの投稿です。
シュミレーション 投稿者:風天 投稿日:2003年12月10日
つまり、考えるということは、シュミレーションだということ。
朝起きたら、今日一日の予定をシュミレーションしておきましょう。
いろいろと突発的な出来事があって、なかなかシュミレーションどおりにはならないものですけれど・・・
まあ、結果よければOKということでw
無題 投稿者:風天 投稿日:2003年12月13日
もものこさんへ
「のめりこみすぎる」と、確かに危険な世界でしょうね。そのように感じたもものこさんの感覚は正解だと思います。
しかし、どもみち未熟であることに変わりはなく、未熟であるからこそ、いろいろなことに興味も持つし、新しい発見もあるものだとは思いました。
たとえば、旅をしていても、思いつきで寄り道をしたり、道に迷ったりしたときの方が後々印象に残る経験ができたりしますが。
もちろん、リスクはいつでも自分持ちです。
それに実生活は、旅とは違うわけで・・・やはり明るく広い道を行くべきだとは思います。
無題 投稿者:風天 投稿日:2003年12月22日
がががさんへ
>「わかる」と「わからない」のあいだに「まったく完全な真理」がある。
そうですね。
「神はいる」と「神はいない」のあいだに「全く完全な真理」があるとかネ
少し話は違いますが、たとえば、言葉というものはデジタル表現なので、YESとNOしかない。そのために、言葉で真理を正確に表現することはどうもできそうにないw
少しでもより正確に表現しようとすれば、YESの中にNOを入れ、そのNOの中にYESを入れるというふうに、非常にわかりづらい表現をとらなければならないが、その結果できあがった文章は、結局わけがわからないw
それを避けるために、たとえ話を使ってイメージを伝えたり、反語や逆説を使うのでしょうが、それがかえって誤解を招くこともあって・・・